弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年6月21日

卒業式の歴史学

社会

著者  有本 真紀 、 出版  講談社選書メチエ

卒業式のとき、起立して君が代を斉唱させることを義務づけ、教師や生徒が本当に歌っているか口元チェックするなんて、まるでバカバカしいマンガですよね。それを言い出した石原慎太郎や橋下徹って、まるで軍人養成所の教官でしかありません。そんなことをしていたら、日本はお先まっ暗だと思います。ここは、みんな違って、みんないい、という金子みすず方式いくべきではないでしょうか。教育に一律全員強制はなじみません。
 この本は、日本の卒業式が、かつては地域の人々の集まるお祭でもあったこと、伸び伸びと生徒本位でやられていたことを明らかにしています。
 学校は、原則として泣くことを禁じられた空間である。そして、学校の中で泣くことが望ましいとされる場面、みんなで泣く場面を代表するのは卒業式をおいて他にない。
 義務教育段階の卒業式にあたって特別なセレモニーのない国は多い。日本の卒業式には特有の学校文化がある。
 日本では、卒業式は社会的な期待にそって心をこめるべき事態であるという規範と、その規範に従う方法が、あらかじめ繰り返し教えられる。式の参加者が感動を共有することを目ざして児童への働きかけが行われ、式当日には演出と練習の結果が観客の前で演じられる。
 天皇の存在は、明治10年代前半と明治20年代以降では同一ではない。憲法、教育勅語などによって他の権威の追随を許さない絶対的イメージを付与され、神格化される前は、天皇は巡奉し、写真や肖像だけでなく、実際の姿をみせることによって、自ら権威を獲得していく途上にあった。明治初年まで、国民にとって天皇は見えない存在であった。だから、臣下を可視するだけでなく、天皇も一度は見える存在になる必要があった。
 明治14年の東京大学の卒業式は夜7時からだった。まばゆいばかりの光のなかで行われた。卒業式は、大学という場所を学外者に示す機会でもあった。
 現代のように、新入生がそろって式に臨む形の入学式が行われるようになったのは、明治30年前後のことだった。それまでは個人的な儀礼でしかなかった。学年をいくつかの期に区分して始業式、終業式としたのは明治30年代半ば以降だった。卒業式は卒業証書授与式というように、もともとは、卒業証書授与のためにはじまった行事である。
 公立小学校の卒業式として記録されている初めは、明治13年(1880年)7月20日の東京(京橋区、下谷区)の小学校の卒業式である。式手順まで記録されているのは明治19年(1886年)12月の開智学校の卒業式である。明治10年代来から20年にかけての卒業証書授与式は、運動会と並んで、地域の参観者を集める二大学校行事であった。
 さまざまな教育内容の公開を含んだ卒業式は、住民にとって、学校にとっても重要なイベントだった。娯楽と啓蒙の要素を備えた盛大な卒業式は、人々が心待ちにするような行事であった。
明治25年(1892年)から小学校は、全国的に4月1日始まりと統一された。
 明治20年代前半には、どの小学校でも卒業式は自校での単独開催となっていた。卒業式には教育幻灯会がつきものだった。
 明治20年代半ばをすぎると、卒業式の多様性は急速に失われ、娯楽と啓蒙の要素は排除された。そして、式は短くなった。明治30年代前後には全国的に式次第が定型化した。
 明治末(1910年ころ)には、生徒が主体とした卒業式もあった。生徒を式場の真中に並べた。
生徒を主体とする卒業式が当然だと思いますし、実際にも、ずっとやられてきました。ところが、最近では卒業生は単なる客体でしかない儀式に化しています。こんなのおかしいと私は思います。もっと自由にのびのびやりましょうよ。自由なパーティー形式でいいではありませんか。お祝いなんですから・・・。
(2013年3月刊。1600円+税)

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