弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年4月 2日

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか

社会

著者   増田 俊也  、 出版  新潮社 

 子どものころテレビでプロレス番組を見慣れていた私にとって、すごく衝撃を受けた本でした。
 なにしろ正義の味方、カッコいいヒーローと思っていた力道山が実はとんでもない悪者だったなんて・・・・。しかも、プロレス試合は真剣勝負なんていうものではなく、あらかじめ筋書きの決まったショー番組でしかなかったというのです。うへーっ、そ、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
 そして、力道山がプロレス試合で勝った木村政彦なる柔道家は実のところ日本柔道史上、最強の柔術家だったというのです。さらには、ブラジルに渡って、ブラジル人と死闘のあげく勝って現地の日系人の威信を高めたということでした。
 戦後の日本で、まったく私の知らない世界がそこにはありました。上下2段組で、700頁に近い大作ですが、丹念な取材で、迫力もあり、読みやすい本でした。といっても、私は、珍しく何日もかけて楽しみながら我を忘れて読みふけりました。みなさんも、アナザーワールドへどうぞ・・・・。
 柔道史上、最強は間違いなく木村政彦。戦前戦中そして戦後を通じて15年間、不敗のまま引退し、木村の前に木村なく、木村の後に木村なしと謳われた。
 いま、日本の柔道人口は激減して、20万人ほど。世界には2000万人とか3000万人。国際柔道連盟には200カ国が加盟している。
 木村政彦は、1日10時間をこえる驚異的な練習量を続けた、強さを希求する精神性だ。
講道館柔道の歴史で化物のように強い選手が4人いた。木村政彦、ヘーシンク、ルスカそして山下康裕。このなかで、もっとも強かったのは木村政彦だ。スピードと技がずば抜けている。誰がやっても相手にならない。
 試合は、木村相手に何分立っていられるのかのタイムを競うだけのものだった。とにかく技が速い。神技だ。全盛時代の木村先輩には誰もかなわない。ヘーシンクもルスカも
3分ともたなかっただろう。
ところが、この木村は30歳のとき(昭和23年)7段になってからは、昇段していない。昭和25年にプロ柔道家になったからだ。
 昭和29年12月22日、37歳の木村は、プロレス選手権試合で力道山の騙まし討ちにあって、不敗の柔道王が全国民の前で血を吐いてKOされた。木村は大恥をかかされた。
 私は当時6歳ですから、もちろんこのテレビ番組は見ていません。だって、我が家に当時、テレビはありませんでしたから。
 このころ、街頭ののテレビでプロレスが中継されるときには、道路が目もくらむほどの大観衆で埋まっていました。その状況が写真で示されています。
プロレスに勝敗はなく、あるのはリングという舞台の上の演技だけ。その舞台で力道山は台本を投げ捨て、台本どおりに演ずる木村を不意打ちで襲った。
 木村は、力道山の背信行為を許せないと思い、短刀を懐にもち力道山を刺し殺そうと付け狙った。しかし、木村は、その怒りを胸に抱えたまま、苦しみながら後半生を75歳まで生きた。その後半生は、まさに生き地獄だった。力道山のつかった有名な空手チョップに実は破壊力はない。手刀で打つように観客に見せ、当たる寸前に手首を返して手の平ないし手の甲で相手の胸を叩き、大きな音を立てる見せ技だ。
 力道山は、客の気持ちをとらえることに、非常に長けていた。
 力道山の身近にいた者は、みな、その人間性を否定する。人間として何一ついいところのない人だった。力道山に可愛がられていたジャイアント馬場はこう言う。
 レスラーになってからの力道山は、肉食魚のように権力者や金づるに食らいつき、あらゆる欲望を満たしていた。
 力道山は、戦争が終わる十両時代までは素直だった。しかし、終戦(日本敗戦)後、解放の日から力道山は内面で変わった。力道山の戦後は、先輩も師匠もなく、周囲の者を踏み台にして、自分の野心だけを満足させていった。
 空手チョップは力道山がうみ出したものではない。木村の方が先だった。
しかし、力道山は、東声会の町井久之(鄭建永)との強力な絆があったし、山口組の田岡一雄の援助も受けていた。大野伴睦、河野一郎、中川一郎、社会党の浅沼稲次郎も支援していた。右翼の大物・児玉誉士夫のバックもあった。
第二次世界大戦が終わるまで、柔道は講道館の他に二つあった。武徳会は古流柔術各流派の大家が集まり、反講道館で結束していた。
もうひとつは、高専柔道。高とは戦前の旧制高校、専は同じく旧制の専門学校をさす。
したがって、現在の高専とは違う。現在の柔道の寝技技術は、そのほとんどが高専柔道で開発され、後に武徳会や講道館の体力がある柔道家たちが真似して吸収し、現在に至っている。
木村政彦は、1917年(大正6年)に熊本市川尻に生まれた。
全盛期の木村の裸は写真でみて分かるようにゴリラそっくり。肩や胸の筋肉は大きく太く、腰が細く引き締まっている。右肩幅は、左肩よりかなり長い。
 腕立て伏せ1000回を日課としていた。握力を測ろうとすると握力計は壊れた。握力は
200キロをこえていた。
木村は、だます柔道からの脱却に必要なものを考えた。達した結論は、強く柔らかい腰だった。強い腰があれば相手のパワーに崩されない。柔らかな腰があれば、相手の思わぬ動きにバランスを崩されない。
 木村は、乱取りだけで90時間やった。睡眠時間は3時間。戦前の全盛時代の木村は、勝つのに2分を要したことがない。
攻撃だけが木村柔道ではない。木村は勝負にこだわった。勝ちに対する執念があった。
 試合前の調整法は細かい。試合の3日前に爪を切る。短すぎるとそこから力が逃げる。爪に及ぼす力といえどムダにはできない。そして入浴しない。湯冷めして体調を崩す恐れがあるし、体から脂肪分が抜け、筋肉がほぐれすぎて気怠くなるからだ。
木村は戦前の天覧試合で優勝し、戦後はアメリカ軍の将兵に柔道を教えた。
木村は拓大で柔道を教えるようになった。そして、1993年4月18日に亡くなった。
 すごい本です。資料収集を始めて、連載が終わるまで18年。4年間にわたっての長期連載が一冊の部厚い本になったのでした。
 少しでも柔道とプロレスに関心のある人には強く一読をおすすめします。感動の大作です。人間って、ここまで自分を鍛えられるのですね・・・・。

(2012年1月刊。2600円+税)

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