弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年9月20日

蟻の兵隊

日本史(現代史)

著者:池谷 豊、出版社:新潮社
 敗戦したあとも中国に残って、毛沢東の率いる中国紅軍と3年半も戦っていた日本兵の集団がいたなんて、ちっとも知りませんでした。
 中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵2600人は、中国国民党系軍閥の部隊に編入され、戦後なおも3年8ヶ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人あまりが戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国できたのは昭和30年前後のこと。帰国したとき、これら元日本兵は逃亡兵の扱いを受けた。日本政府は、残留将兵たちが自らの意思で残留し、勝手に戦争を続けたとみなし、戦後補償を拒否した。
 2001年5月、元残留将兵ら13人が軍人恩給の支給を求めて国を訴える裁判を起こした。しかし、一審判決で敗訴した。日本って、ホント、むごい国ですよね。
 中国国民党系の軍閥の首領は閻錫山(えんしゃくざん)。彼は、1904年、21歳のときに日本へ留学し、陸軍士官学校に入学した。閻は孫文の中国革命同盟会に加盟し、弘前の連隊に勤務するなどした。5年間の日本留学を終えて中国に戻ると、山西省で大隊長級の軍人となった。そして、次第に力を蓄え、山西省に独立王国のようなものを築くにいたった。そこで、蒋介石は、閻錫山の軍隊と八路軍とを戦わせ、双方の弱体化を狙った。閻にとって、八路軍と衝突するのは蒋介石を利することになる。それを悟った閻は、日本軍と手を結ぶことにした。
 昭和20年の終戦時、日本の北支派遣軍第一軍は5万9000人いた。そのうち、閻は1万5000人を残留させ、自軍に編入することを試みた。名目は「鉄道修理工作部隊」とした。第一軍当局は、閻の要請を受け入れ、現地除隊の手続きをとらないことにした。現地除隊してしまえば、好きこのんで残留する将兵が誰もいなくなるからである。
 ところが、南京にある支那派遣軍総司令部から派遣された参謀が、山西省で軍の命令に反して勝手に日本兵の一部が残留しようとしているのを知り、妨害した。その結果、動揺が生じて、1万5000人の予定が残留者は2600人にまで激減した。
 日本兵の残留工作にあたった軍幹部の認識は次のようなものだった。
 蒋介石の国民党軍は、正規軍400万、地方部隊200万で、合計600万の大軍があった。これにアメリカが46億ドルの兵器を提供した。B29機、戦車、重砲、自動銃、火炎放射器、通信機。これに対する中国共産党軍は90万。兵器は蒋介石軍や日本軍から取り上げたもの。だから、1年か1年半で、人民解放軍を撃滅できる。
 ところが、八路軍は、徐向前の率いる20万の大軍、そして、猛将といわれた賀竜の率いる10万の大軍が進攻しており、山西省は陸の孤島になりつつあった。
 日本軍は山西軍を教育するだけでいい、直接の戦闘には加わらなくてよいという約束はたちまち反故にされ、早くも戦死傷者が出た。それまでは「逃げる八路軍」の体験しかなかった日本の将兵は、人海戦術で正面から戦いを挑んでくる共産党軍の存在を初めて知った。
 装備も士気も劣る山西軍との共同戦線なので、日本軍は必然的に最前線に立たされることになった。そこで、八路軍は、むしろ残留日本軍を標的に戦闘を仕掛けてきた。
 そんななか、中国残留をすすめていた山岡参謀長が帰国し、澄田第一軍司令官も日本に帰国した。澄田は帰国する前、次のように訓示した。
 祖国日本の復興のためにがんばれ。自分は閻将軍と台湾に行き、日本に帰ったら、必ず2万の救援軍を連れて帰ってくる。
 日本から2万の義勇兵を連れて中国に戻ることを約束したというのです。なんということでしょう・・・。この澄田元司令官は昭和54年に89歳で天寿をまっとうし、昭和29年9月に勲一等旭日大緩章をもらっています。まだ山西省で残留日本将兵が死闘をくり広げているころになります。
 軍隊そして軍人の無責任さには、ほとほと呆れてしまいます。
(2007年7月刊。1400円+税)

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