弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年8月 1日

朴正熈、最後の一日

著者:趙 甲済、出版社:草思社
 「ヒトラーの最期の10日間」を思い出させる本です。独裁者の孤独な生活が描かれています。最近みた韓国映画「大統領の理髪師」を、映像という点で視覚的に想起しました。
 韓国では、最近、朴正熈を見直す動きが強まっています。その娘が野党の代表者として人気を集めているのは、その具体的なあらわれでしょう。でも、私には、野蛮な軍人であり、民主化を阻んだ独裁者としか思えません。
 朴正熈が側近の金載圭KCIA部長から宴会場で射殺される一日を詳しく描いた本です。図と写真もついていて、状況がよく分かります。朴正熈が射殺されたとき、2人の若い女性が宴会にはべっていたというのを知っていましたが、なんだかいかがわしい状況を想像していました。でも、女子大生と女優の2人はギターをもちこんで歌っただけのようです。それどころか、宴会場は車智?・青瓦台警護室長とKCIA部長の激しい応酬でトゲトゲしい雰囲気だったようです。
 1979年10月26日、朴正熈はKCIA部長に射殺された。62歳だった。この年の10月初め、金載圭の命令で、KCIAの元部長・金炯旭がパリで暗殺されていた。 
 青瓦台の本館には、職員が夕方6時に退庁したあとは。525坪の本館に大統領と2人娘のほかは、宿直当番の秘書室職員と警護官のみ。都市のなかの孤島になった。
 朴正熈の書斎兼執務室には600冊の本があったが、小説やエッセイ・詩集は一冊もない。彼は実用主義者だった。「金日成」「資本論の誤訳」などの日本語版もあった。
 その日、朴正熈の演説には、いつもの張りがなかった。独特の、鉄を叩くようなキンキンと響く声ではなく、力が少し抜ける感じだった。
 映画「シルミド」で有名になった金日成暗殺部隊の創設を命じたのは、朴正熈でした。
 朴正熈大統領と、その側近だった金桂元、金載圭、車智?の3人の元軍人は身長が164センチと小柄だった。
 車智?は傲慢、金桂元は調整力不正、金載圭は肝臓病病み。
 権威主義的な政権の核心においては、最高権力者の耳と目を独占しようとする競争が熾烈さを増す。誰よりも先に情報を提供し、権力者の公的的な先入観をつくりあげることが、この権力ゲームのやり方だ。車智?室長が影の権力者の地位を、こうしたゲームに活用していたため、秘書室長と情報部長は常に一歩出遅れた。
 車智?は佐官将校として除隊したにすぎないのに、陸軍大将出身の秘書室長と陸軍中将出身の情報部長、それもずっと年上の2人を、まるで部下のように扱った。
 朴正熈は、郷里の後輩であり、陸士の同期生であり、そして自分の庇護のもとで育ててきた金載圭を甘く見ていたのか人前で金載圭の無能力さをなじることが多々あった。
 この日の宴会では、車智?と朴正熈がまるで口裏をあわせたかのように金載圭を一方的に追いこんだ。これが決定的な要因となって、激しやすい金載圭は車智?を殺してしまおうと思いつめ、そのためには朴正熈が邪魔となった。朴正熈はあの傲慢な車智?を偏愛してきた。そして今夜も一緒になって私を追いこんでいる。許せない。金載圭の鬱屈した感情は殺意へ変わった。
 金載圭は朴正熈の射殺直前に2人の部下に警護員たちの暗殺指令を下したが、そのとき自由民主主義のために、と言っている。KCIA部長は、長期政権に対する国民の不満を確認していた。釜山での非常戒厳令事態をふまえての認識だ。
 金載圭は、まず車智?の右手首をうった。そのあと数秒して、足もとがふらついたままの姿勢で朴正熈を見下ろし、胸をうった。朴正熈は「何をしておる」と言ったまま、目を閉じ、胡座をかいたまま動かなかった。金載圭の拳銃(ワルサーPPK)はこの2発をうったあと故障して動かなくなり、金載圭はあわてた。
 金載圭の部下に倒された警護官たちは防弾ベストを装着していなかった。
 金載圭の頭のなかには、朴正熈の殺害までのスケジュールしかなく、それ以降の行動計画は何ひとつ考えていなかった。現場にいて殺害状況を目撃した2人の女性は20万ウォンの小切手をもたされて帰宅させられた。現場保全も遺体の安置も、支配確保もまったくなされていない。
 大変緊張しながら2時間かけて一気に読み通しました。緊迫した状況がよく伝わってきます。そして、このあとに登場するのが全斗煥です。軍人って、本当に嫌な人種です。昔も今も、洋の東西を問わず、人殺しと自分の栄誉しか考えていない連中ばかりですから・・・。

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