弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年4月28日

歴史のなかの天皇

著者:吉田 孝、出版社:岩波新書
 「天皇」号をつかいはじめた時期が、実ははっきりしない。なんて、ちっとも知りませんでした。7世紀初の推古天皇の時代とする説と、7世紀後半の天武・持統天皇の時代とする説と二つの有力説がある。しかし、どちらもはっきりした根拠がない。えーっ、そうなんだー・・・。信じられません。
 「天皇」号は、7世紀の東アジアの国際情勢のなかで、随・唐には服属しない。冊封も受けない、という国際意識からうみ出されたものだった。平安時代以降、「天皇」号に対する関心は薄れ、むしろ「天子」号のほうが広く用いられていた。
 江戸時代の後期に「天皇」号が復活したが、一般化はしなかった。日本の君主号が正式に「天皇」と規定されたのは、明治憲法が最初であり、一般には「天子」がひろく用いられていた。中世・近世を通じて公家・武家と同じように「○○院」と呼んでいた過去の天皇を、すべて「○○天皇」とよび変えたのは、1925年(大正14年)からのこと。外交文書における「皇帝」を「天皇」と変えたのは1936年のことである。
 雄略(「天皇」)は、兄であるアナホ大王(安康)がイトコの目弱(まよわ)王に殺されると、有力な王位継承候補者を次々と殺し、最後に大王の位についた。日本において、大王の位は戦いとって得るものでした。平和な禅譲はなかったのです。
 継体王朝は、近江・越前あたりを本拠とする豪族が長い年月をかけて大和に攻め入り、大王位を奪ったというのが、学界でほぼ定説となっているのではないでしょうか。日本の天皇は、決して万世一系というものではありません。
 倭の朝廷は遣隋使をやるにしても、「倭王」に冊封することを、ねばり強く拒んでいた。朝貢はするが、冊封を受けて正式の臣下になることは拒んでいた。桓武天皇の母親である高野新笠は渡来系氏族(和・やまと氏、百済系)の出身であった。「皇別」(天皇の子孫)、「神別」(神々の子孫)に比べて、「蕃別」(渡来人の子孫)は一段低くみられていた。
 810年の「薬子(くすこ)の変」で藤原仲成が処刑されてから、1156年の保元の乱まで、天皇の裁可による死刑執行は、350年間おこなわれてなかった。これは人類史上、きわめて稀な歴史だろう。奈良時代、死刑はほとんど減刑された。
 現代日本は残念ながら、まだ死刑制度が残っています。とりあえず死刑の執行を停止すべきだというのが日弁連の提言です。私も、もっともな提案だと高く評価しています。
 江戸時代、天皇は民衆の笑いの対象になっていた。歌舞伎の天皇は、しばしば道化方は、ひげぼうぼうのどてら姿で、空腹に耐えかねて、扇動の飯を盗んで食う仕草で大いに笑わせた。
 醍醐天皇も菅原道真を太宰府に左遷したために地獄に墜ちたという話が中世に広く流布した。日本人は、昔から天皇をそれほど神様扱いしてこなかったわけです。
 実際、最近のマスコミの雅子さんいじめは度が過ぎているように思います。病気なんですから、もっと優しく見守ってあげたらいいと思うのですが、週刊誌の見出しをみていると、「わが子の入園式のため、公務ドタキャン」とか、ちょっとひど過ぎるように思います。右翼が騒がないのが不思議なほどです。

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