弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年4月27日

ヒトラー・コード

著者:H・エーベルレ、出版社:講談社
 映画「ヒトラー最期の12日間」の原作ではありません。むしろ、映画とはかなり違った状況が描かれています。たとえば、映画ではエヴァ・ブラウン(ヒトラーの長年の愛人で、自殺する直前に結婚して法的に妻となった)の妹の夫となったフェーゲラインを戦線逃亡の罪で死刑だとヒトラーは叫んでいました。この本では、逆に、ヒトラーは妻のためにフェーゲラインをなんとか赦してやろうとするが、側近から諫められる姿が紹介されています。
 この本は、映画にも出てくるヒトラーの最側近2人をソ連軍が逮捕し、スターリンの命令でヒトラー最期の日々を再現したものです。スターリンの都合の悪いところは大胆にカットされてはいますが、それをさておいてもヒトラー最期の日々が、500頁もの大作として詳細に明らかにされています。なかなかに読みごたえのある本でしたので、私は3日間ほど持ちまわって、ようやく読了しました。ドイツの若手学者による詳細な注釈があって、歴史的事実を正確に知ることのできるところも魅力的です。
 ヒトラーは1945年4月30日午後3時半ころ、ベルリンにある首相官邸地下壕でピストル自殺した。エヴァ・ブラウンはそばで青酸カリを飲んで自殺した。ヒトラーは赤軍の手に落ちたら、檻に入れられてモスクワの赤の広場に運ばれ、怒り狂った群衆の手にかかってリンチされる。このような恐ろしい強迫観念に囚われていた。
 スターリンは、ヒトラーが死んだことをなかなか信じられず、不安になっていった。そこで、スターリンは1945年末に、ソ連の内務人民委員部(NKVD)に首相官邸地下壕でのヒトラー最期の日々を再現し、ヒトラーの死を最終的に証明せよと命じた。この報告書「ヒトラーの書」は1949年12月29日にスターリンに渡された。この本は、それを翻訳したものです。
 ヒトラーには、愛人がいた。若い姪のニッキーだ。ところが、ニッキーは1932年に自殺した。ヒトラーには子どもがいなかったため、性的不能者ではないかという噂もありますが、そうではなかったようです。
 1937年9月、ヒトラー・ドイツ軍の演習場にヒトラー、ムッソリーニと一緒にイギリス軍参謀総長デヴェレル元帥が肩を並べて立った。イギリス参謀本部の代表者がヒトラーのゲストとして、この演習に参加したということは、イギリスがドイツ国防軍の再建と軍備増強を認めたのみならず、それを好意的にみていることの証明だった。イギリスは、このようにして世界に対する過ちを犯した。いやー、本当にひどい過ちですよね。チェンバレンのヒトラー宥和政策と同じ誤ちです。
 1941年12月。モスクワを目前に足踏みしていたドイツ軍の東部戦線の戦況に関するヒトラー御前の作戦会議は大いに荒れた。ヒトラーは叫び、拳でテーブルを叩いて、将軍たちを無能だと非難した。このようなシーンは映画に何度も出てきました。
 その結果、武装SSとドイツ国防軍の対立は激化した。SS兵は国防軍をこう言って非難した。あいつらには真に突撃精神が欠けている。机上の空論しか言わない。国防軍将校のほうからも不平の声があがった。自分たちよりSS部隊のほうが装備も兵器も優れている。おまけに、あいつらは軍部でも特別な地位にある。要するに、どちらの陣営も相手の方が優遇されていると非難しあっていたのです。
 ところが、1941年12月7日、日本が真珠湾でアメリカ艦隊を奇襲したので、ヒトラーの総統本部に活気がよみがえり、モスクワとレニングラードでの敗北は忘れ去られた。そうだったんですか。日本軍が無謀には真珠湾攻撃を始めたとき、ヒトラー・ドイツ軍は既に行きづまっていたのですね・・・。ヒトラーは、1941年12月11日にアメリカ合衆国へ宣戦布告した。このとき、アメリカ参戦のもたらす影響を事前に研究させることもなかった。
 1942年5月、ドイツの実業家たちが軍需産業での労働力不足の解消を求めると、ヒトラーは、ロシア兵捕虜とロシアから連行してきた一般住民を労働力として提供することを約束した。
 1942年秋、ヒトラーの総統本部の戦勝気分はすっかり消え失せていた。ヒトラーは将官たちとのつきあいを完全にやめ、昼食はひとり執務室でとった。夜は葬送音楽のレコードをかけさせた。極度に神経質になり、壁にハエが一匹とまっただけで激怒した。まるで重病人のように土気色の顔、げっそりした頬、目の下が腫れあがり、陰鬱な表情を浮かべた。
 1943年2月、スターリングラードでのドイツ軍壊滅はヒトラーに大打撃を与えた。主治医に興奮剤を注射してもらわないと、ヒトラーはもう耐えられなかった。主治医は1日おきに朝食後ヒトラーに注射をうった。神経性の腸痙攣も起きた。何日もベッドから起きあがれないことがあった。何にでも毒が入っているのではないかと疑い、調理に使う水の検査も命じた。爪をかみ、耳や首筋を血の出るほど、かきむしった。不眠症に悩み、ありとあらゆる睡眠薬を飲んだ。息苦しいので寝室に酸素ボンベをおき、一日に何度も酸素を吸入した。ベッドは電気毛布と電気クッションで暖めた。
 ヒトラーは、ガス室の動向に興味をもっていた。移動ガス室(トラック)をつかうよう直々に命令した。やっぱりユダヤ人殺害そしてソ連兵捕虜大虐殺の張本人だったのです。
 ヒトラーは高官夫人と女性秘書たちと昼食をとった。たわいのない話に花が咲いた。戦争とその恐怖のことは一言も出なかった。女性のファッションと、戦争が女性に強いる苦労が話題だった。そうやって精神のバランスをとろうとしたのでしょうね。
 ヒトラーは、自分が喫した敗北はすべて将軍たちのせいだと言い張った。しかし、将軍たちに責任をとらせることはなかった。ところが、将校たちに対しては敗北主義をとったとして、情け容赦もなく死刑判決が下され、ヒトラーはためらわずサインしていった。
 この本では、クルクス進攻作戦、アルデンヌの戦いについても詳しく紹介され、ヒトラーがいかに期待していたかが明らかにされています。
 ヒトラーの腸痙攣は、ヒトラーが菜食主義であり、運動不足であったこと、主治医が興奮剤を頻繁に処方したため、腸内菌群が死滅したことによるとコメントされています。
 1943年12月、ヒトラーの腰はいっそう曲がり、左手の震えが激しくなった。頭髪はじわじわと白くなった。食事のとき、グラスになみなみと注いだブランデーを一気に飲み干した。もともとヒトラーはアルコールの臭いが嫌いだった。ところが、今や、昼食そして夕食のたびに、かなりの量のブランデーやコニャックを飲んだ。ヒトラーは食事を楽しむということはまったくなかったようです。いかにも人間として狭量ですよね。
 1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件のとき、ヒトラーが助かったのは、爆発の瞬間、ヒトラーが上半身をテーブルの上に乗り出して、東部戦線の地図に見入っていたので、頑丈な木材でできたテーブル板が爆発の衝撃を受けとめてくれたから。
 このクーデター計画に関連して逮捕された人数は7000人をこえ、うち4980人が殺害された。参謀本部などの60人の将校が死刑判決を受けた。
 1945年2月末、ヒトラーは声帯の手術を受けた。しょっちゅう金切り声をあげたため、声帯に穴が開いてしまったから。
 このころから、ヒトラーは、エヴァ・ブラウンと女性秘書たちとだけ食事をともにした。映画にも、そのわびしい情景が描かれていました。ヒトラーは不眠症に悩んでいたので、女性たちは午前5時、6時ころまで付きあわなければいけなかった。老けこみ、くたびれた様子で、髪は白くなり、腰はひどく曲がり、足を引きずるようにして歩いた。
 異常に神経質で落ち着きがなく、ますます怒りっぽくなり、しばしば矛盾した決断を下した。右目も痛みはじめた。ヒトラーは覚せい剤ペルビチンの依存症だと思われています。
 ヒトラーがエヴァ・ブラウンと結婚したとき、歩くのもやっとだった。顔は血の気を失い、視線は落ち着きなく、さまよっていた。服もしわくちゃ。エヴァ・ブラウンも眠れぬ夜が続いたため、顔色が悪かった。濃紺のシルクのワンピースを着ていた。
 映画は、あまりにもヒトラーを美化していたような気がします。この本をじっくり読んで、その実像をとらえなおすことができたと思いました。ずっしりと迫る重たい本です。読みごたえがありました。

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