弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年2月23日

名をこそ惜しめ

著者:津本 陽、出版社:文芸春秋
 硫黄島、魂の記録と銘打った本です。日本軍が玉砕したとされていたとき、実は、まだ日本兵1万人が地底に掘った坑道や洞窟などに生き残っていました。大本営が降伏を呼びかけていたら助かったのではないかという指摘がなされています。本当に胸の痛む思いがしました。
 敵弾で戦死したのは3割で、6割は自殺したとみられています。なぜか。出れば殺されると思ったから。誰からか。アメリカ軍からではない。上官または同僚から殺されるという心配が一番頭にあったのだ。うーん、そうだったのですね・・・。可哀想です。
 硫黄島は、面積20平方キロの火山島。東京北区と同じ広さ。島には自然に湧き出る水はまったくなく、すべて天水でまかなう。地面の温度は50℃。
 日本軍の将兵が体力を消耗するのは、下痢による。1日10回ぐらいなら健常者。寝こんだ患者は1日に30回、40回と下痢する。それでも生きているのは、一日に水筒一杯 の硫黄と塩分のまじった水と、日に三度の重湯のおかげ。風土病であるアメーバ赤痢も流行していた。病人は、2万人いる日本軍全体の2割、絶えず4000名はいた。
 日本軍のトップ栗林中将は、妻へ送った手紙に、こう書いています。
 私はまもなく死ぬ。あなたはその事実を納得しなければならない。遺骨も故郷に戻らないだろう。それは承知のうえだ。私の魂は、あなたと子どもらの中に住むことになる。
 硫黄島に上陸したアメリカ軍は、海兵隊が3個師団、7万5000。そのほか、あわせて11万。飛行機は1000機。大変な物量作戦ですが、それでも日本軍は全滅していなかったのです。地下にもぐらのような生活をして耐えていました。
 栗林中将は、アメリカ軍が来る前、硫黄島に視察に来た大本営陸軍作戦部真田少将に対して次のように言ったそうです。
 サイパン玉砕の戦訓にかんがみ、このうえ、わが国が無駄な損害をかさねないよう、すみやかに和戦の方途を講じられるよう、大本営に対して具申していただきたい。
 もちろん、そのような具申はされず、日本軍は無駄な損害をかさねていったわけです。
 栗林中将は、バンザイ攻撃をいっさいせず、最後の一兵まで戦わせ、一人十殺をなし遂げさせようと思いきわめていた。そうするよりほかに、眼前に迫っている滅亡を甘受する意味を見つけ出すことはできない。自分を抹殺しにくる者を、一人でも多く死出の道連にするのだ。
 有名な摺鉢山の頂上に星条旗が立った写真は1945年2月23日のこと。ところが、翌24日未明、日章旗にかわった。夜があけると、また星条旗が立つ。4日目の26日未明、ついに日章旗は見られなくなった。うーん、そうだったのですか・・・。日本軍も最後まで粘り強くたたかったのですね。アメリカ側の本も読みましたが、3日目まで山頂の旗が入れかわったというのは初耳でした。
 アメリカ兵が日本軍将校の自決する様子を見ていました。次のように紹介されています。
 将校は一枚の写真をポケットから取りだし、見ながらなにかつぶやき、その写真に幾度となく頭を下げては涙を拭っていた。彼は頭を下げたのち、胸のポケットに写真を入れ、大声でフサコ、トシヤスと幾度も絶叫したのち、アメリカの戦車兵が壕内を焼き払っている火焔のなかに飛びこんだ。
 本当にむごく、痛ましい光景です。将校も「天皇陛下バンザイ」を叫んで死んでいったのではないのですね。
 硫黄島には、いまも1万2000体をこえる日本軍将兵の遺体が埋まったままだそうです。なぜなのでしょう。本当に、日本っていう国は冷たい国ですね。靖国神社への公式参拝には熱心でも、遺骨の収集にお金をかけることはしないのですね。それでいて、英霊の顕彰なんていう小泉首相は許せません。もちろん、無謀な戦争に国民をひっぱっていった当時の日本支配層は、もっと許せませんが・・・。

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