弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年9月12日

アフリカ発見

著者:藤田みどり、出版社:岩波書店
 日本におけるアフリカ像の変遷というサブタイトルがついています。アフリカ「発見」とあり、発見にはカギカッコがついています。私は、この本を織田信長の側近にアフリカ黒人がいたことを紹介しているとの書評を見て買いました。なんと、あの本能寺の変のとき、信長と最後をともにしたらしいというのです・・・。
 黒人という言葉には、白人と違って差別のニュアンスがあります。でも、ここでは、あえて黒人という言葉をつかわせてもらいます。日本の文献にはじめて黒人が登場するのは「信長公記」だそうです。
 きりしたん国より黒坊主(くろぼうず)参り候。年の齢(ころ)26、7と見えたり。全身の黒きこと、牛の如し。この男、健やかに、器量なり。しかも、強力なこと、十人並以上(少し原文を変えてあります)。
 イタリア人巡察師ヴァリニャーノは従者として1人の黒人を連れていた。信長は噂を聞いて自分自身の目で確かめようと、本能寺に呼びつけた。黒人の肌の色が自然であって人工でないことが信じられなかった信長は、黒人に着物を脱がせ、その場で洗わせた。しかし、黒人の皮膚は白くなるどころか一層黒くなった。
 ヴァリニャーノにとって予想外だったのは、信長があまりにも黒人を気に入ったため、献上物に加えて、その黒人を手放さなければならなかったこと。
 この黒人は、モザンビーク生まれのアフリカ黒人であった。もとは喜望峰周辺の住人である。少しではあるが日本語を話し、多少の芸もできた。身長6尺2分。名前を彌助といった。彌助は本能寺で戦い、信長の死後に、信忠のいる二条城へ駆けつけ、最後まで果敢に戦った。光秀は殺さないでよいとした。しかし、その後の消息は不明である。
 豊臣秀吉も、肥前名護屋城でポルトガル人の連れてきたアフリカ黒人に会っている。あちらこちらに飛びはねる踊りで、爆笑の渦につつまれたという。
 安土桃山時代にある程度の人数の黒坊が日本にいたことは、南蛮屏風のなかに数多くの黒人が描かれていることで分かる。
 ところで、このころポルトガル国内に多数の日本人奴隷がいたといいます。ええーっと驚きました。ザビエルが鹿児島に到着した頃(1949年)、多くの日本人が奴隷として海外に売り渡されていたのです。ちっとも知りませんでした。ポルトガル人が、日本人を男は労働者として、女は売春婦として輸出していたのです。
 龍造寺隆信と有馬晴信との戦さでも1人のアフリカ黒人が有馬陣営の大砲の砲手として活躍して有馬側に勝利をもたらしたというのです。これまた大変おどろきました。
 世の中って、本当に知らないことって多いんですね。

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