弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年5月 2日

夏目金之助、ロンドンに狂せり

著者:末延芳晴、出版社:青土社
 下の娘が今春、大学生になりました。大学生への読書のすすめのなかで、夏目漱石をあげている学者が何人かいて、漱石って、今でも日本の若者にとって必読文献なんだなと、自覚させられました。もちろん、私も高校生のとき、また大学に入ってからも漱石はかなり読みましたよ・・・。
 この本は、漱石がロンドンに留学したころを取りあげています。漱石はロンドンでノイローゼに陥り、知人から「ついに狂った」と言われたほどでした。
 漱石がロンドンに着いたのは1900年(明治33年)10月28日。今から105年ほど前のことです。33歳でした。イギリスが南アフリカで戦い(ボーア戦争)、その義勇兵の帰還を歓迎する大パレードがくり広げられているさなかのことです。
 漱石は単身イギリスに渡りました。妻の鏡子24歳は日本に残しました。鏡子は早起きが大の苦手。朝、夫が出勤してもまだ目が覚めなかったそうです。その鏡子は熊本の白川に投身自殺を図ってもいます。
 漱石はイギリスに渡る前、人間は外見が大事だという考えから、東京・銀座の森村組で最高級のスーツを新調しました。
 漱石は、巧みな英会話を披露できるほどの能力はありました。決して英語が話せなかったというわけではありません。ただ、キリスト教には警戒し、入信はしませんでした。キリスト教に疑いをもっていたからです。
 漱石の顔には、あばたが残っていて、本人もかなり気にしていたようです。心のトラウマだったと指摘されています。あばたに起因する屈辱感があったというのです。
 ところで、漱石は、初期の漢文体から最後の完全言文一致まで、一番過激に文体を変えていった作家といってよい、とされています。こんなこと、はじめて知りました。
 当時、ロンドン在住の日本人は、駐英公使もふくめて30人ほどしかいませんでした。
 日本人は部屋代の支払いがよく、きれいに生活しているので、ロンドンの家主から歓迎される存在でした。漱石もロンドンでの留学生活をはじめて半年間ほどは、それなりに楽しんでいました。ところが、そのあとは下宿に引きこもりがちになりました。文部省給費留学生として、支給される学費があまりに少なかったため、外出や付きあいを控えざるをえなかったのです。下宿籠城主義だと自称しました。
 帝大英文学科卒業という肩書きをもっていた漱石は、ロンドンで、それがいかに空虚なものにすぎないか十分に自覚していました。ところが、その後、神経衰弱に陥って下宿から一歩も外に出れなくなったのです。
 漱石をもう一度読んで、ついでに青春の日々を自分のなかによみがえらせたい、そう思いました。

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