弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2004年10月 1日

江戸という幻景

著者:渡辺京二、出版社:弦書房
 江戸時代に関わる本はかなり読んできたため、すっかり雰囲気もつかんでいた気になっていましたが、この本を読んで、まだとんでもない、まだまだ、ちっとも分かっていないことを知ってがく然としました。江戸時代の人々がどのように考え、どのように生きていたのか、とてつもなく奥の深いものがあることを思い知らされる本です。すごく知的重樹を受けました。
 江戸時代の末期に日本にやって来た欧米人は、当時の日本人の陽気さ、無邪気さ、人なつこさ、こだわりのなさに深い印象を受けた。礼儀正しさと親切はもちろん感動的だったが、社会全体にみなぎる親和感と、何より人びとの心の垣根の低いことに彼らは魅せられた。人々は好奇心にみちあふれ、貴重な知識を求めるにきわめて真剣だった。
 江戸の人びとは、ことに触れて赤児のような純真きわまりない感情を流露する人々であった。旅先で病人を見かけると、決してそのままにしておかなかった。道中で事情のありそうな者を見かけると、決まって声をかけ、わが家に連れ帰ったりもした。
 幕末に来日した外国人は一様に日本人の宗教心の薄さ、とくに武士階級の無神論に注目している。ところが、彼らは相当な迷信家でもあった。
 仕事は決して労役ではなく、生命活動そのものだった。家業は近代でいう職業ではなく、運命が与えたその人の存在形態であって、家業に精を出すのは生命活動そのものにほかならなかった。うまくゆかなければ直ちに離婚して、何度でも結婚をやり直せばよいというのが江戸時代の婚姻常識だった。女にしても、貞女二夫にまみえずなとということはなかった。
 江戸時代の人びとは、何かにつけて、月、雲、花、鳥の声、虫の音を楽しむ心の持ち主だった。町人は武士という身分に対して、あまり恐れいっていなかった。武士とは町人にとって、一定の限界内で挑戦可能な存在であり、また、挑戦し甲斐のある存在でもあった。
 文政年間にオランダ出島の商館にいたフィッセルは、日本の裁判の厳しさについて、次のように述べている。「その厳しさは、社会のあらゆる階級に対して平等である。裁判は、もっとも厳格なる清潔さと公平さをもって行われると推量されるだけの理由はあると言える」
 安永年間に同じくオランダ出島にあったツェンベリも、「日本のように法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない」と指摘している。恐らく彼らは、法を犯した大名や役人が確実に処罰される点を平等とか、身分に左右されないと表現した。
 裁判手続は、いかにも面倒なものだった。しかし、それでも人びとは  続として出訴した。公事(くじ、裁判のこと)のため滞在する人のための公事宿は安永年間に198軒あった。公事はやり甲斐があった。大人数が朝早くから評定所に詰めかけて、居る場所もないほどだった。裁判官は調停(和解)で事件を落着させようと必死で努力し、落着後は、心を開いて心境を述べていた。
 ウッソー、ホントなの・・・。世の中は、まさに知らないことだらけです。

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