弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年4月29日

縄文土器ガイドブック

日本史(古代史)

著者  井口 直司 、 出版  新泉社

縄文土器は、なんといっても燃えあがる炎のような見事な形が印象的ですよね。ところが、この本を読むと、いえ写真もあります、いろんな形の土器があり、しかも、地域によって形状は大きく違うというのです。見て楽しいガイドブックでもあります。
 九州の縄文土器には豪快な隆起性に富んだ装飾文様は見られない。
 西日本の縄文土器は、文様が簡素化、省略化している。容器づくりの点で技術的に優れていて、これは実用性を優先させた合理的な思考による。薄く作ることに比重をおき、容器としての機能を高めることに労力をかけている。
 これに比して、東日本では技巧をこらし、精緻さを増しながら文様が発達する。東北地方の縄文土器は美と実用性とが一体化し、洗練された装飾文土器として完成する。
 関東地方の縄文土器は大陸文化の影響がもっとも伝わりにくい地域の土器群だった。日本列島ではじめて誕生した土器は、深鉢形をしていた。中期になると、浅鉢が増え、後期には、皿・注口付・壺が増えて弥生式との差が少なくなる。
 縄文時代には、茶わんや皿に類する小形の食器類の土器が存在しない。土器類であった可能性が考えられる日常雑器としての茶わんや皿が深鉢形土器とセットで普通に存在することはなかった。
 土器がまず創造され、それを使ううちに煮炊きにも使用されたのではないか。煮炊きのために土器が誕生したのではないと考えるべき。
 たくさんの写真と解説によって、楽しく縄文土器について学ぶことができました。
(2012年12月刊。2200円+税)

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2013年4月28日

バルザックと19世紀パリの食卓

ヨーロッパ

著者  アンカ・シュルシュタイン 、 出版  白水社

フランス大革命はレストランを流行させたのですね。
 「食卓」の重要性を意識していたバルサックは、偉大なる食通ではなかった。エキセントリックな「食べる人」だった。バルサックは、ほとんど食事をとらずに長時間にわたって執筆に没頭した。そして原稿を書き終えると、そのお祝いに、はかり知れぬほどのワインやカキ、肉料理やヴォライユの料理に身をゆだねた。
 バルサックは、8歳から6年間を寄宿舎で過ごした。幼い生徒にとって、食事は喜びではなく、屈辱だった。バルサックは親からプレゼントをもらえず、孤独を感じていた。寄宿舎で過ごした数年間、バルサック少年は食事のかわりに読書に情熱を傾けていた。
 バルサックは17歳で代訴人(弁護士)事務所の見習いとなった。この事務所で、バルサックは家庭内の悲喜こもごもに出会い、それが、あとで小説のネタとなった。
バルサックにとって不幸なことに、使う金額以上に稼げたことが一度もなかった。この大作家は最期まで、借金のために牢屋に入れられるのではないかと心配しながら生活していた。
バルサックは書くのが早かった。債務者たちにせつかれ、豊かな想像力に駆り立てられ、仕事に取りかかるやいなや扉を閉ざす。日に18時間も働き、2ヶ月には名作の原稿が完成していた。
創作に打ち込んでいるあいだは水しか飲まず、果物で栄養をとっていた。バルサックは、かなり濃いコーヒーを大量に飲んでいた。眠気を追い払い、自身を興奮状態に保ち想像力を増すためだった。
 バルサックは借金のためではなく、国民衛兵として使えるという義務を何度も繰り返し怠ったため、牢獄生活を余儀なくされた。
フランス大革命の前、上流階級の人々は1日に3回の食事をしていた。朝6時から8時のあいだに何か詰め込み、午後2時にディネをとり、夜9時以降に夜食をとっていた。
 これに対して、農民や職人は一日2回の食事ですませていた。夜食は、夜会や感激に行く特権階級に限られたものだった。
当時の人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むのはまれであった。
 夕食会は3時間をこえてはならなかった。さっさと片づけることがとても重要だった。
 フランスでシャンパンへの趣向が高まったのは非常に遅い。イギリスよりも、はるかに後のこと。ポンパードール夫人はシャンパンを高くし評価した女性の一人であり、彼女がワインを流行らせた。
夕食のとき、料理を次から次に給仕するのを、バルサックは好まなかった。というのも、この方式だと食べることが大好きな人々にとって、ものすごく食べることを強いるし、最初の料理で食欲が収まってしまう小食の人たちには、もっとよいものをなおざりにさせてしまう欠点があった。
 フランス大革命のころの食習慣を知ることができました。バルサックの奔放な生き方には圧倒されます。
  (2013年2月刊。2200円+税)

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2013年4月27日

動じない心

人間

著者  宮城 泰年 、 出版  講談社

京都に聖護院があることは知っていました。昔、日弁連の夏期研修に参加したとき、聖護院別荘(ホテル)に泊まったこともあります。日弁連元会長中坊公平氏の関係するお寺だと聞いていました。
 聖護院は京都にある本山修験宗。山伏の総本山。これは知りませんでした。
 白河上皇が熊野詣するときに先達をつとめた功績で聖護院を賜ったとのこと。山伏を統括し、江戸時代には本山派修験と称して、修験道の一大勢力となった。今でも、毎年、100人ほどの山伏が列をなして吉野から熊野に向かい、厳しい奥駈修行をしている。
 現在の山伏にプロは少ない。本山修験宗で200人、全教団をあわせてもプロは1000人ほど。ほとんどの山伏は、ふだんは会社員であったり。こんな在家信者が全国に1万5000人ほどいる。
 1931年(昭和6年)生まれの著者は25歳のときに山伏となった。以来、50有余年。
山伏とは、山に伏して修行する者のこと。自然の中に入ると、とりわけ山中では、五感はいやでも研ぎすまされる。黙々と歩いていると、いつのまにか雑念が消える。すると、肉体的には疲れていても、感覚は鋭敏になる。わずかな枝葉の動きや物音もたちまち目や耳に入るし、土や風が運んでくる匂いも分かる。空気の変化は肌で感じるし、ひょっとしたら言葉にならないあの妙な感覚を、第六感が察知してくれる。
 昔も今も、行者は山に入ると、「サーンゲ、サンゲ、ロッコンショウジョウ」と唱えながら歩く。掛け念仏だ。サンゲとは懺悔。この世に生を受けてから今日までの罪過を神仏の前にさらけ出すこと。ロッコンショウジョウとは、六根清浄。眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの気管を指して「六根」という。
 掛け念仏を一心不乱に唱え、足を一歩でも前へと進める。すると、いつしか身も心も掛け念仏に同化していく。このようにして掛け念仏の意味する境地へと自然に引き上げられていくのが、山の持つ力なのである。
 ひたすら歩く。全神経を足元に集中させる。みなに遅れまいと必死についていく。そうやって無心になれる。山伏の装束は買える。15万円から25万円くらいで買える。
法螺貝は大きな見だが、それにしても出る音はさらに大きい。また、山中では空気が澄み、適当な湿度があるので、音の通りがとてもよい。だから、優に5キロメートルは届く。そんなことから、法螺を吹くには、針小棒大、つまり物事を実際よりも大げさに言うという意味がある。しかし、それは決して嘘をつくことではない。
 動じない心とは何か?
 それは動かされない心であり、また自在に動ける心でもある。動じる心とは動かされる心であり、同時に自在に動けない心である。動揺や迷いは人生に付きもの。自分を動揺させているもの。迷わせているものが何か、その正体をしっかり見きわめることが大切になる。 正体のひとつは、真実を見きわめられずまどわされる心、もうひとつは我執やこだわりから道理を受け容れられない心である。
 五感が曇っていると、見るもの聞くものが正しく受けとれず、真実でないものに惑わされる。心に真実、真理の芯がなければ、空洞のまわりの堂々のめぐりとなり、果ては自分の不満や苦しみを他人や物事のせいにして避難する。
 自分を動揺させ侵す対象を心と五感を研ぎすまして正しく唱え、真実を受けいれる心をもてば、いっときの動揺であっても軸を失い、倒れることはない。軸のある心は倒れることなく、自在に動かせるのだ。
 いったん「動じない心」を獲得しても、放っておけば心の迷いやチリはすぐに積もる。ときどき掃除する必要がある。それが「六根清浄」である。山は、これにまことにふさわしい場所なのである。
 山伏の行の意義が分かりました。
(2012年12月刊。1500円+税)

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2013年4月26日

日米地位協定・入門

社会

著者  前泊 博盛 、 出版  創元社

読めば読むほど、腹の立ってくる本です。いえ、この本の著者に対してではありません。この本に書かれている内容が問題なのです。
 いったい、はたして沖縄は日本なのか。なぜ、戦後70年たっても、アメリカ軍はまだ日本にいるのか。いやいや、日本は、これで本当に独立国家なのか・・・。
 胸に手をあてて、自問自答するとき、いずれのこたえも「ノー」でしょう。残念ながら、「ノー」と答えざるをえません。でも、本当にそれでよいのかと問い返されたら、もちろんそれでいいはずはありません。バカにするんじゃない。そう言ってやりたいじゃないですか。
 アメリカが日本を守ってくれるかなどという疑念をもつこと自体、アメリカに対して失礼である。これは、外務省の内部文書に書かれているものです。驚くではありませんか。これでは、日本は文字どおりアメリカの属国ですよね。
 オスプレイは日本の上空で平均150メートルで飛ぶことが認められている。と言うことは、日本の法令で定めた150メートル以下でもオスプレイは飛べるということですよね。だって、「平均」ということは、それ以下の高度でも飛べるということですからね。これって、恐ろしいことですよね。
 そして、野田首相は「アメリカ軍にどうしろ、こうしろとは言わない」と国会で公式答弁してしまいました。情けない日本国首相です。そして、今の安倍さんは、もっとひどいです・・・。
日米地位協定とは何か?
アメリカ占領期と同じように、日本に軍隊を配備し続けるためのとり決め。日本におけるアメリカ軍の強大な権益についてのとり決め。
 1952年、日本は独立した。しかし、それは、看板だけとりかえて、実質的には軍事占領状態が継続した。
 アメリカ軍関係者は一切の入国手続を省略して自由に日本に出入りすることができる。日本にあるアメリカ軍基地に出入りするときに自由なだけでなく、基地からの出入りについても、完全にノーチェック。だから、日本政府は、日本国内にアメリカ人が何人いるか把握することができない。日本のなかにアメリカ人がいて、あるべき国境がないというのですから、日本ってまるで植民地ですよね。
 日本にいるアメリカの将兵が3千人しか移住しないのに、日本政府はアメリカに対して8千人分の移住費用を支払う。もちろん、これは税金。
広大な横田基地は首都・東京にある。そして、首都圏の上空には「横田ラプコン」といわれる巨大なアメリカ軍の管理区域がある。だから、日本の民間航空機は無理な急旋回と急上昇を余儀なくされる。
アメリカ軍将兵が犯罪をおこしたとき、公務執行妨害、横領・詐欺などについては起訴率ゼロ、まったく罪に問われていない。もっと重大犯罪であっても、常にあまりに寛大すぎる判決が出るのみ。
アメリカ軍の飛行機が日本国内で事故を起こしたとき、基本的にアメリカ軍の指揮下にあって、日本国民もアメリカ軍の命令に従われなければならない。とんでもないことですよ。こんなこと、絶対に許せません。ところが、現実には日本の司法は、政府と同じようにアメリカ軍の前にひれ伏すばかり。
 日米安保条約を解消するのは簡単なこと。終了の意思を日本政府がアメリカ政府に通告したら、1年たつと自動的に終了する。
そんなバカなことと思う人には、フィリピンとイラクの実例が紹介されています。いずれも、アメリカ軍が渋々ながら撤退していきました。フィリピンでは、アメリカ軍基地跡は経済的に大繁栄しているとのことです。同じことは沖縄でもあります。おもろ町周辺の近代な町並みは、基地跡地ですよね。
 前に末浪靖司氏の本『対米従属の正体』(高文研)を紹介しました。その後も、続報が続いていますが、有名な伊達判決をひっくり返すため、最高裁の田中耕太郎長官が駐日アメリカ大使に裁判の内情を全部バラして、指導を受けていたのでした。先日の新聞によると田中長官は当然のことをしているだけ、アメリカ大使と話すことが裁判官としての守秘義務に反するとは思っていなかったとのこと。信じられない感覚です。
そして、この本によると、同じように最高検察庁もアメリカの指導するとおりに論告していたというのです。守秘義務をふみにじり、日本の主権を裏切った司法界のリーダーたちは許せません。今からでも遅くありません。必ず資格剥奪処分をすべきだと思います。こんな人たちが愛国心をもてと若者に説いていたなんて、まるでマンガです。腹が立って仕方がありません。高血圧の人にはおすすめしませんが、日本人の必読文献だと思います
(2013年4月刊。1500円+税)

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2013年4月25日

アフガン侵攻 1979-89

ロシア

著者  ロドリク・ブレースウェート 、 出版  白水社

ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
 アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
 アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
 1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
 狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
 1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
 1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
 ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
 タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
 ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
 軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
 アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
 ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
 ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
 1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
 ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
 カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
 このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
 ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
 だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
 ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
 ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
 ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
 ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)

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2013年4月24日

神と語って夢ならず

日本史(江戸)

著者  松本 侑子 、 出版  光文社

江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

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2013年4月23日

中華民族・抗日戦争史

中国

著者  王 秀金・郭 徳宏 、 出版  八朔社

日中戦争(1931年~1945年)を中国側から見た通史です。770頁あまりの大作ですが、日中戦争の全体像を把握するためには欠かせない貴重な歴史書として、じっくり通読しました。
 日本側から見た日中戦争の通史は読んだことがありますが、中国側からのものは初めてです。しかも、中国共産党軍のみならず、蒋介石(国民党)軍もきちんと評価しているところがすごい本です。個々の先頭における中国軍の将兵の英雄的な戦いも、名前をあげて紹介しています。
 1931年9月に起きた柳条湖事件は、日本軍が仕掛けたものでした。第三中隊の河本末守中尉が部下の兵士を率いて満鉄線を爆破した。そして、上司に対して中国軍が鉄道を爆破し、激戦中と報告した。上司の川嶋大尉は驚いた振りをして、すぐに上級に報告し、派兵支援をもとめた。ところがこのあと、南京の国民政府の不抵抗政策によって20万近い軍は戦わず撤退したため、大きな地域が速やかに日本軍に陥落した。
 1931年9月、上海の埠頭労働者3万5000人が大ストライキを決行し、日本の対中侵略に抗議し、日本船舶の積み下ろし、貨物運搬を拒否し、船舶を動きとれないようにした。
 1932年1月、第一次上海事変。関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐は、「外国の目がわずらわしい。上海で事を起こせ」という電報を打った。中国軍は、装備の劣る7万の兵力で、装備のすぐれた8万の日本軍と33日間も戦い、日本軍に司令官の度重なる交代を余儀なくさせた。
 1934年3月、溥儀の強い要求によって、満州国は満州帝国と改称され、皇帝となった。そして、日本軍は、広くアヘン栽培を誘引し、多くの良田が麻薬農地に変わった。日本侵略者が土地を奪った主要な目的は、東北への移民を準備することだった。
 1936年12月、西安事件が発生した。蒋介石は、「我々のもっとも近い敵は共産党であり、危害がもっとも差し迫っている。日本は我々から離れており、危害はなお緩やかである」と演説していた(10月27日)。
 そして、12月4日、蒋介石は張学良に対して、「紅軍を徹底的に処理し、根本的に解決する」よう命令した。これに対して張学良は全国人民の利益を重んじるよう蒋介石に要望した。西安事変に接して、多くの人々は抗日には賛成したが、張学良の行動が内戦を大きくすることを恐れて、不支持を表明した。そして、蒋介石の回復を要求した。張学良は事前に中国共産党と協議していなかった。共産党代表の周恩来らは西安に到着し、張学良と協議した。
 張学良は、西安事変を平和的に解決する中国共産党の方針を理解すると、国家・民族の大局を個人的恩讐の上に置く共産党の大義を深く理解し、心から敬服した。
 周恩来は、張学良と宋子兄弟の同席のもと、蒋介石と会見した。そして内戦の停止、共同抗日こそが唯一の活路であると語った。こうして、14日間にわたった西安事変は平和的に解決され、国共再合作に向かった。
国民党は、ドイツから大量の要塞用重砲を購入し、ドイツ軍事顧問団の援助を得て、1933年から全面的にすすめた。
 1937年7月、盧溝橋で全面的な中国侵略戦争がついに勃発した。
 1937年8月、中国共産党は、中国紅軍を国民革命軍第八路軍に改編し、朱徳、彭徳懐を正副総指揮に任命した。
国民党は対日不抵抗政策をとった。しかし、受身の内戦防御戦では、効果的に敵(日本軍)を殲滅することはできず、戦略的持久を実現することは難しかった。国民党は、大地主・大資本か階級の利益を代表していたので、人民の抗戦を利用しながら、人民の力が抗戦の中で強大になるのを恐れていた。
 毛沢東は持久戦論を提起した。抗日戦争は持久戦であり、速決線ではない。日本の強さは、日本が小国であり、退歩的で、援助が少ないなど不利な要素に寄って減殺されている。中国の弱さは、大国であり、進歩しており、援助が多いなど有利な要素によって補充されていると説いた。
 1937年9月、中国紅軍は平型関で日本軍を大破した。中国紅軍は、山地の一本の狭い道路が延々と続く場所で待ち伏せた。平型関の待ち伏せ改撃は日本軍に壊滅的打撃を与え、死者1000余人、日動車100余台などを破壊した。平型関の戦いは、人路軍の抗戦における最初の勝利であり、全国の抗戦における初めての奇襲戦による勝利であった。これによって共産党と八路軍の声望は一挙に高まった。
 1937年8月、日本軍は上海侵略を開始した(上海会戦)。9月中旬までに日本軍は兵力10万人以上となった。さらに、10月初旬までに20万人に達した。10月中旬、中国軍は勇猛果敢にもちこたえ、すでに上海会戦は2ヶ月も続いていた。そして、ついに、11月中旬、中国軍が撤退した。日本軍は10個師団20万人の兵力を投入し、中国守備軍は70個師、70万人を投入した。日本軍の死傷者は4万人、中国軍は30万人近い死傷者を出した。
引き続いて南京防衛戦が戦われた。中国軍の南京撤退後、日本軍による大虐殺が始まった。このとき、安全区内には、29万人もの難民がいた。
 1938年3月から4月にかけての台児荘の戦役で、中国軍は2万人の死傷者を出しながらも日本軍を殲滅し、大勝利を得た。
 4月からの徐州会戦は日中の双方が数千万の兵力を投入し、5ヶ月間も戦った。
 1938年の夏から秋にかけては、武漢会戦そして広州の戦いが展開した。
 この武漢会戦中には、ソ連の中国支援志願航空隊が対日作戦で協力した。武漢防衛戦争での15ヶ月の戦いによって、日本軍の戦略的進攻は停止してしまった。「速戦即決」で中国の領土を占領する計画が決定的に破綻した。
 1938年10月、日本軍は武漢を占領した。日本国民は驚喜したが、つかの間の喜びでしかなかった。
 1940年8月、八路軍は主要鉄道・自動車道路を総攻撃する戦いを開始した。参加した部隊が105個団(連隊)であったことから、百団大戦と呼ばれる規模が最大で持続時間がもっとも長かった進攻戦役であった。百団大戦、日本軍北支那方面軍の「囚籠政策」に深刻な攻撃を与え、日本軍は「華北に対し再認識すべき」との驚きの声を上げた。
 日本軍は内部で、教訓を総括し、共産党と八路軍に対する情報活動を強化し、華北における共産党軍を作戦の焦点とする指導思想をさらに明確にした。
 百団大戦の勝利は、全国の徹底抗戦の信念を鼓舞し、強化した。百団大戦の勝利は共産党と八路軍の威信を高めた。しかし、同時に巨大な犠牲も払わされた。八路軍と抗日根拠地の補給能力の限度をこえていた。疲労も甚だしかった。
 しかし、国民党の妥協的傾向を克服するうえで、重要な役割を果たした。日本軍の「三光政策」は1940年冬に下達された。その目的は八路軍と八路軍の根拠地を殲滅することにあった。
 中国軍は、麻雀戦、地下道戦、地雷戦、襲撃破壊戦、水上遊撃戦、武装工作隊などの人民戦争を展開した。
中国人が強大な侵略者である日本軍といかに戦ったかが詳細に記述されています。実は、私の父も中国へ2等兵として出兵しています。不幸中の幸い、マラリアにかかって内地に送還されて、戦病死を免れました。その中国での戦闘状況の推移を中国側からみたものですので、大変勉強になりました。
 日中戦争の実情を知りたい日本人なら、ぜひ読むべき本としておすすめします。
(2012年12月刊。8900円+税)

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2013年4月22日

犬とぼくの微妙な関係

生き物

著者  日高 敏隆 、 出版  青土社

適応度増大のためにとるべき戦略は、オスとメスとではまったく逆である。メスはオスに迫られても、すぐには応じない場合がほとんどである。知らん顔をしてみたり、逃げたり、明からさまに拒んだりする。複数のオスに近づかれると、メスはその中からどれかを選ぶ。
 メスは対称的な体をもつオスを選ぶ。対称的なオスを美しいと思うからではない。身体がより対称的な個体は、極端に非対称になっている個体より遺伝的にしっかりしたところがあることになる。そこでメスは、体つきの対称性を手がかりにして、そのようにしっかりしたオスを選ぶのだろう。
母親にとってかわいいのは子どもではなく、子どもがもっている自分の遺伝子なのだ。つまり、母親があらゆる苦労を身の危険もいとわずに子育てに努力を傾けるのは、子どものことを思ってではなく、あくまで自分の適応度増大というまったく母親の利己的な動機によるものなのだ。
 ワシ・タカ類は、卵を二つうみ、ヒナがかえる。そして、第一のヒナが無事に大きくなると、第一のヒナは二番目のヒナを殺してしまう。そして、親はそれを見て見ぬふりをする。
 これは、第一子が無事に育たないときの「保険」として第二卵をうんでおくことによる。第一子が第二子を殺せるくらい頑丈に育ったら、保険はもう要らない。そこで、第一子の食物を確保するために、第二子は第一子に殺させる。うむむ、自然の摂理はよく出来ていますね。
 性があることによって、動物は、単に遺伝子を混ぜあわせて多様性をつくりだせるだけでなく、偶然に生じてくる突然変異を急速に集積して有利な特徴をもつ個体を次々に生じることができる。これは性の存在のもたらす大きな利益である。
 ツバメは、渡るときには夫婦別々に飛んでくるようで、たいていオスが先に帰ってくる。そして、前の年に巣をかけた場所を覚えていて、結局は夫婦とも同じ地域に戻る。前年と同じペアで巣づくりを始める。しかし、旅先や旅の途中で不幸にあうものもいるので、半分ほど。
 ツバメが人家を好むのは、巣やひなに悪さをするスズメが来ないから。人の出入りが多い家や店ほどツバメがよく巣をかけるのは、そのため。店が繁盛しているからツバメが来る。
 コウモリは、鳥はなく、モグラとかハムスターに近い哺乳類だ。巣ではなく、赤ちゃんを産み、乳を飲ませて育てる。そして、コウモリは鳥よりも上手に空を飛ぶ。
猫も実は、人間に深く依存している。絶えず人間の動きを気にしている。その状況が猫にとって実に幸せなのである。猫はまず視覚によって世界を認知する。嗅覚はその次である。猫は視覚もすぐれている。
 たくさんの生き物について、語られている面白い本でした。さすがは動物学者です。
(2013年1月刊。1900円+税)

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2013年4月21日

古代天皇家の婚姻戦略

日本史(古代史)

著者  荒木 敏夫 、 出版  吉川弘文館

倭王権の婚姻の特質として、閉鎖的であることが言える。婚姻相手を近親に求める近親婚が盛行していた。
 その理由として、母系を通じて他氏族へ血統が流出しない閉鎖的な血縁集団が形成できること、豪族層から外戚として介入を受けない。自立した王家が確立できることがあげられている。
 日本古代の婚姻は異母兄弟姉妹間の婚姻は許されており、その実例は多い。内親王以下、四世王までの王族女性は臣下との婚姻の途が閉ざされていた。厳禁されていたのである。
絶体大王が手白髪と婚姻したが、大王になる前のヲホド王を一地方豪族とみると、王族女性と臣下の婚姻を示す。唯一の例となる。
大王のキサキやミコ、ヒメミコたちは大王と同居している場合は希であり、通常はそれぞれの居住空間である「ミヤ(宮)」に住んでいた。
 蘇我稲目は、戦時下の略奪によって倭国に来た二人の高麗の女性を「妻」とした。蘇我氏の婚姻の相手は列島内に限定されていなかった。倭国・日本にも、中国・百済・高句麗・新羅・伽耶などと同様に、国際婚姻が存在していた。
桓武天皇は、婚姻関係を結ぶ氏族を広くしており、9氏族からキサキを迎えている。藤原氏の南家・北家・武家・京家の四家からキサキを迎えている。
 桓武天皇の母は百済系和氏であった。桓武天皇自身も、百済王氏から、百済王教仁・百済王貞香、百済王教法の3人を入内させている。
 日本における王済王氏の存在は、天皇が元百済王族の者を臣下においていることを日常的に示すことで、天皇が東アジアの小帝国の君主であることを国内外に向けてアピールするうえで好都合の存在であり、象徴的な機能を果たしていた。
 古代天皇家の実体を改めて考えさせられました。
(2013年1月刊。1700円+税)

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2013年4月20日

大牟田と与論島

社会

著者  堀 円治 、 出版  有明新報社

三池炭鉱のあった福岡県大牟田市には沖縄に近い与論島からの移住者の2世・3世が今もたくさん住んでいます。
 93歳になる著者は、世論2世です。その長男は私と同級生ですので、世論3世ということになります。1世は、与論島から集団移住してきて石炭の積み込み作業員をしていました。
 残念ながら、私はまだ与論島に行ったことはありません。奄美大島よりも沖縄本島に近い小さな島です。
 鹿児島空港からプロペラ機で1時間20分。丸いカタツムリに似た形をしている。河川はなく、サンゴ礁が風化した粘土質の土壌。与論島にとってもっとも怖いのは、台風という名の定期便であり、干ばつである。台風で農作物が全滅するとソテツの実で命をつなぐ。ソテツは猛毒なので、毒消し作業が必要である。
 干ばつのため餓死者が出るなか、明治32年から34年まで、3次にわたって合計750人が戸長を先頭に長崎県口之津へ移住した。当時の島の人口は7000人。家族を含めると島民の2割近い1200人が移住した。
 そして、明治43年、有明海を渡って、大牟田へ再移住した。石炭の積み込み作業に従事する。
 現在の三井港倶楽部の北側に三川分教場が置かれ、与論島移住者の子どもが学んだ。そして、昭和11年、川尻小学校に転入した。
 今も、大牟田には与論会があり、与論島との交流も続いているのです。
 堀さん、元気で、さらに長生きしてくださいね。
(2013年2月刊。1715円+税)

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2013年4月19日

ブラックボックス

社会

著者  篠田 節子 、 出版  朝日新聞出版

恐怖の食卓。サラダ工場のパートタイマー、野菜生産者、学校給食の栄養士は何を見たのか?
 食と環境の崩壊連鎖をあぶりだす、渾身の大型長編サスペンス。この本のオビに書かれているコピーです。週刊朝日に連載されていたとのこと。たしかに野菜を人工的に栽培するなんて、実は危険そのものなんですよね。完全管理型施設栽培のシステムなんて・・・。
太陽の光、土、緑の三点セットをありがたがるのは、農を知らない都会人や、高級住宅地に住んで市民農園を耕している趣味人の発想だ。
露地栽培では、それこそ食っていける農業なんて無理。そうなんですよね。私もちょっとばかり趣味人の野菜づくりをしています。それでも、農業を粗末にしたら生きていけませんよ。ですから、TPPなんて絶対反対です。なんでもお金を出せば買えるというものでは決してありません。額に汗する地道な努力こそ必要です。
 カット野菜。カットした野菜の洗浄殺菌には、次亜塩素酸ソーダを使う。切った野菜をそこに浸けたあと、水道水で洗浄し、さらに鮮度保持剤であるPH調整剤すなわちアスコルビン酸に浸け込む。そのカット野菜を盛りつけてサラダとする。
完全制御型ハイテク農場のなかでは、無数のバクテリアの生息する土は一切使わずセラミックがスポンジなど、作物ごとに異なる人口素材に肥料分を溶け込ませた溶液を用いて、作物がつくられる。空調装置を使い、外気は導入しないので、空気中の雑菌も入らない。考えられる限り、もっとも衛生的な環境でつくられる。無菌状態であるから、病気やムシも寄せつけない。だから、農薬はいらない。異物混入はありえず、出荷の段階で枯葉などが取り除かれるから、下ごしらえもいらない。
 しかし、どれほど厳重な衛生管理をされ、無菌状態で運ばれてきた野菜であっても、カットされた瞬間から、傷みは生じる。切り口から変色し、腐敗がはじまる。
 労働集約型のハイテク農場は地元の雇用創出をうながし、地域の活性化に貢献するはずだった。しかし、現実には地元の人間は働いていない。働いているのは法律で定められた最低賃金をはるかに下回る。研修手当で、事実上の労働をしている外国人ばかりだ。
 研修生のほとんど、アジアから来ていて、日本人はごく少ない。無菌・無農薬でつくられた野菜の味はすかすか。だから、得体の知れないアミノ酸やら合成ビタミンの微粒子をぶっかけられる。
読んでいくうちに、読めば読むほど怖くなる食物の話でした。それでも、今日もマック、ケンタの店も大盛況です。本当に私たちはこれでいいのでしょうか・・・。
(2013年1月刊。2100円+税)

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2013年4月18日

メドベージェフvsプーチン

ロシア

著者  木村 汎 、 出版  藤原書店

現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
 プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
 ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
 メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
 プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
 メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
 プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
 メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
 ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
 ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
 プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
 現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
 プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
 大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)

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2013年4月17日

権力vs調査報道

社会

著者  高田昌幸・小里純 、 出版  旬報社

たまにある新聞のスクープは、時の日本社会に大変なショックを与えるものです。最近は、そんな報道がめっきり少なくなりました。それどことか、安倍首相がマスコミ(新聞、テレビ)のトップ(社長ほか)と、そして編集部長クラスまで個別に高級レストランなどで2時間も会食していることが曝露されました。日本のマスコミが、ますます権力機構の一員と化しつつあるようで残念です。でも、第一線の記者まで、すべてがそうではないでしょうから、その自浄努力にひたすら期待するばかりです。
 今から20年前、朝日新聞の広告年間収入は2000億円あった。読売新聞は1500億円。読売1000万部、朝日800万部の時代に朝日の広告単価が読売より非常に高いことから逆転現象がおきていた。それが、ついに朝日は逆転され、苦境に陥っている。
ニュースソースの秘匿とオフレコは守る。これは二大原則である。ニュースソースの対象が自ら名乗ったとしても、それにあわせて認めるようなことはしない。アメリカの有名な記者(ボブ・ウッドワード)がそれを破ったが、許されないこと。
 取材するときに録音するのは当然。了解をとらず、隠してテープを取っても非難されるべきことではない。私も弁護士として、隠しどり録音をいつも勧めています。問題になるのは内容だけなのです。
日本の朝日新聞に限らず、アメリカでも調査報道はまったく衰退している。
 ネット広告は紙の広告の10分1しかない。広告収入が200億円だと、記者が2000人いたら、人件費で全部消えてしまう。
 貴重な資料を入手したときにはコピーをそのまま発表することはない。文書の汚れ、染み、書き込みがあったら、情報源が特定されてしまう。だから、入手した文書の打ち直しは必須。文字の欠け文字ずれがあれば、そこから特定できる。入手して発表するまでに8年かかることもある。
 調査報道に欠かせないものは人間力。自分の興味本位だけで調査報道するのは、とても危険なこと。報道の質を上げていくためには、質問力の向上が絶対に欠かせない。本当は分かっていないことを見抜く力。それが調査報道のスタートである。
 私は活字大好き人間ですから、ネットよりも新聞を愛好したいのです。その意味でも、調査報道の健闘に期待しているところです。
(2012年10月刊。2000円+税)
 春らんまんの候です。わが家の庭のチューリップ500本は全開状態を少し過ぎたところです。私個人のブログで写真を大公開しています。ぜひ眺いてみてください。色も形もとりどりのチューリップが、心をなごましてくれます。
 このところ、娘から全身にお灸をしてもらっています。アッチッチというほどの熱さなのですが、翌朝の目覚めが何とも言えず爽快です。身体に気力がみなぎり、頭が冴えわたった気分です。血行がよくなるのでしょうか。お灸さまさまです。

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2013年4月16日

蒋介石の外交戦略と日中戦争

中国

著者  家近 亮子 、 出版  岩波書店

国民政府は、日本の政界の動向にきわめて敏感であった。日本の選挙の結果は必ず国民党の機関紙に掲載された。蒋介石が日本の政治家のなかでもっとも期待し、信頼していたのは犬養毅だった。犬養は孫文の革命に援助を与え、蒋介石とも蒋の日本留学時代から親密な関係にあった。
 蒋介石は、中国において自分ほどの日本通はいないという自負を抱いていた。蒋介石は日本語に堪能だった。東京の振武学校に留学し、新潟の高田連帯に入隊した。
 1927年秋の40日におよぶ日本旅行まで、蒋はひんぱんに日本を訪れ、温泉に入り、日本食を好み、多くの知人・友人と交流していた。日中戦争期でも、蒋介石は国家としての日本国を敵としたが、決して日本人を敵とすることはなかった。
 蒋介石は、軍部の台頭は日本政治の一時的歪みであり、日本の天皇は決定権がなく、責任は軍閥にあるという主張を捨てることはなかった。日本政界に犬養毅がいる限り、軍部の台頭は押さえられるという強い信頼を寄せていた。
 1923年8月、蒋介石は訪ソの旅に出発する。帰国までの4ヶ月のあいだ、蒋介石はロシア語を学び、マルクスの著作を読んだ。そして訪ソのあいだに蒋介石はソ連人嫌いになった。社会主義革命に対する潜在的不信感は訪ソによって深まっていった。
蒋介石は宋美齢との再婚を宋家の資金援助を背景として自らの力で国民革命を完成させ、国民政府内での権力を確立しようと企図した。
 1935年、蒋介石は行政院長になると重要ポストに側近を起用して権力基盤を固めていった。そして、外交権の中央外交部への集中、実質的には蒋介石個人への集中を図っていった。
 汪精衛は蒋介石より4歳年上、胡漢民は8才年上であった。二人とも広東省の知識階級の出身でともに科拳に合格し、日本の法政大学に留学し、密接な関係にあった。
 彼らは蒋介石の軍事力を必要としたが、蒋介石が個人独裁をおこなう事には強い拒否反応を示し、集団で反蒋運動を起こしていった。
 蒋介石は、来たる日本との戦争に備えて、四川を防衛の要とする体制の準備を1935年半ばから本格化していた。蒋介石はイタリアから精力的に魚雷快艇を購入し、長江に配備していた。このため、日中戦争の勃発後、日本海軍の遡江攻撃を阻み、「不可能」とさせるほどであった。
 1936年12月、西安事件が起きた。蒋介石は張学良軍に包囲・幽閉された。このとき、蒋介石は死を覚悟し、遺言を書いていた。12月24日、張学良と周恩来とのあいだに「一致抗日」の協定が成立し、蒋介石は解放された。そのかげには妻・宋美齢の活躍があった。そのため蒋介石は、命をかけて自分を救出してきた美齢に、その後、深い信頼を寄せた。
 1937年11月、蒋介石は国民政府の首都を南京から重慶に移転した。蒋介石は、南京で徹底抗戦をおこなえばマドリードのように長期戦になり、共産党勢力が拡大することになると怖れていた。蒋介石は、日本との戦争を持久戦に持ち込めば必ずや国際世論を見方にできると信じていたため、最終的には勝利できると予測していた。そのため、一時的に撤退し、南京を日本軍の手に落としても、それは共産党の手に落とすよりは取り戻しやすいと判断したのだった。
 1938年の徐州会戦は互角の戦いとなった。徐州において、蒋介石はドイツ人軍事顧問の戦術である堅固な要塞づくりに専念した。日本軍は、空から中国軍へ「猛爆」を加えた。海軍航空隊70機による徐州大空襲が勝敗を決定づけた。ドイツ人軍事顧問国は1938年6月、ヒトラーの命令によって帰国していった。蒋介石は、フランスとソ連へ軍事顧問の派遣を要請した。
 1938年5月ころ、蒋介石は毛沢東と同じく持久戦論を展開していた。
1938年、蒋介石は、ソ連、イギリス、フランスに対して援助を得るため、新彊や雲南の利権を自ら譲る密約を結んだ。これは、あとで中国に矛盾をもたらし、蒋介石を苦しめた。
 1938年に発表された日本の近衛声明によって蒋介石は次第に追いつめられ、中国内部で孤立化していった。日本は、日本との戦争を望まず、中国の共産化および蒋介石の個人独裁化に危機感をもつ中国人達に接近し、国民政府から離脱させ、内部崩壊を図るという「以華制華」政策を露骨に推進していった。
 1939年1月、共産党は重慶に正式に中共中央南方局を設立し、周恩来を中心に国民政府への参加を積極的におこなった。この時期、共産党は公的に蒋介石支持を表明した。
 1940年7月、日本に第二次近衛内閣が設立した。このとき蒋介石は、「近衛は本当に虚名だけで、決断ができず、八方美人で中心となる思想もなければ、闘争の経験もなく、とうてい持久力もない。近衛には定見がない」と手厳しく見ていた。
 1940年9月、日独伊の三国同盟は、日米開戦を悲願とし、そこに向けての努力をたゆまなくおこなってきた蒋介石にとって願ってもかえられないほどの政治的効果をもたらした。
 蒋介石は、1943年の日米開戦と同時に抗日戦争の勝利を確信し、具体的な戦後構想を提起した。
 1944年、ソ連とイギリスは共産党とともに蒋介石と国民政府に対するネガティブ・キャンペーンをはり、蒋介石を独裁者として批判していく。蒋介石と連合軍との矛盾拡大に反して、欧米各国における毛沢東の評価は次第に上がっていった。
 蒋介石は抗日戦中、一度も日本国民を敵とする発言はしなかった。それどころか、常に深い同情の念を見せていた。
 1945年8月15日、蒋介石は自らラジオのスピーカーに向かった。「我々は報復してはならず、まして敵国の無辜の人民に汚染を加えてはならない。彼らが自ら誤りと罪悪から脱出できるように・・・我々は慈愛をもって接する」必要があると説いた。
 日本国民は終戦と同時に「無辜の民」として、長年侵略してきた中国の総司令から戦争責任を「免責」されたのである。蒋介石にとって、それはあくまでも自らが大陸中国の支配を維持するための戦略であった。
対日戦争より共産党撲滅に狂奔していたとされる蒋介石について、その戦略を解明した本です。なるほど、こういう見方が必要だったのかと目を見開かされました。
(2012年10月刊。2800円+税)

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2013年4月15日

「野生動物」飼育読本

生き物

著者  横山雅司・なんばきび 、 出版  彩図社

猛獣をペットのように家庭で飼うことは不可能だということをよくよく分からせる本です。ですから、いわばパロディー本です。
 でも、現実に、アメリカでは大金持ちが自宅でトラを飼い、日本でも若い女性が自分のマンションでヘビを飼ったりしています。他人の迷惑を考えない人には困りますよね。
 日本人が飼っているイヌは1193万頭、飼いネコは960万匹。日本人の6人に1人がイヌかネコを飼っている。なぜか。人間が動物から癒しをもらっているからではないか。
自宅でチンパンジーを飼うのは許されない。自宅を霊長類研究所にしたら可能になる。ただし、施設の建設費は7億円、学者を雇う人件費は年に4000万円、チンパンジーの購入価格は最大8000万円、そして年間36万円の食費がかかる。すごいですね。
チンパンジーは賢いし、実は性質が非常に凶暴で、サルの肉が大好物。チンパンジーが興奮して暴れはじめたら死を覚悟するしかない。ええーっ、本当ですか・・・。
 コアラを飼うとしたら、新鮮なユーカリの葉を確保するのが大変。東京の多摩動物園では、コアラ3頭のエサ代として年に6300万円もかかっている。
ゾウは人工的な環境ではきわめて繁殖しにくい動物でほとんど増えていない。ゾウは知能と記憶力がすぐれ、人間の顔を覚えることができる。
 ペンギンのうち日本ではフンボルトペンギンは繁殖に成功し、数を増やしている。
米国全土に7000頭ものトラが飼われている。アメリカには、ペット用のトラを育てるブリーダーが存在する。
 わが家の庭にもモグラがいます。生きているモグラを見たことはありませんが、死んで干からびたモグラは見たことがあります。
 モグラは鳥獣保護法によって、一般人が勝手にとるのは違法である。ええーっ、そうなんですか・・・。
 モグラが農作物を食べて荒らすことはない。誤解がある。モグラは肉食性で、ミミズや昆虫を食べる。モグラは半日何も食べないと餓死してしまう。モグラは、1日で自分の体重と同じ量のエサを食べる。モグラはトンネル状の壁が身体に触れていないと不安になる性質がある。だから、パイプですみかをつくるときには、必ずトンネル状の構造にする必要がある。
 人間が野生の生き物を飼うのが難しいことが実によく分かる本です。
(2013年2月刊。912円+税)

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2013年4月14日

患者も医療者も幸せになる医療をめざして

人間

出版  患者の権利法を作る会 

昨年11月のシンポジウムが冊子になっています。つまみ喰い的に、いくつか内容を紹介します。
 アメリカの州の中にはアイムソーリー法というのを定めている州がある。そうです。そう言えば、アメリカでは交通事故にあったとき、決して日本の「すみません」という感覚で「アイムソーリー」と言ってはいけないそうだと聞いたことがあります。「アイムソーリー」と言うと、自分に非があることを認めたことになって、あとで不利になるというのです。でも、共感を表明するのと過失を認めるのでは違いますよね、ですから、アメリカでも、アイムソーリーと言ったからといって過失を認めたことにはならない。そのことを州法で定めたというのです。そんな法律がなければ、アイムソーリーとは簡単に言えないということでもあります。悪い結果に対して、素直に残念だ、申し訳ないと言えるようにしようという動きです。いいことです。
 患者や遺族が病院・医師を相手として訴訟を起こす理由は三つある。ひとつは、病状の急激な変化、また死亡に至る経緯が不自然であり、その不信感を払拭する説明がなかったとき。二つ目は、病状説明が二転三転するとき。三つめは、事故後の対応があまりにも不誠実または閉鎖的なとき。そうなんですよね。まったくそのとおりだと思います。
 患者・遺族側は、事故が起きたら、隠蔽することなく全てを正直に公開してほしい。この点も、まったく同感です。
最後に、患者の権利法を定めようというとき、そこには患者の権利だけが書かれていると誤解されていることが多いと指摘されています。もちろん、患者の権利だけでなく責務についても触れられていますし、それ以外に「共に」「関係者みんなで」とあるのです。
 お互いにまだまだ知るべきことが多いように改めて思いました。
(2013年3月刊。非売品)

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2013年4月13日

司法(警察)

著者  香納 諒一 、 出版  角川春樹事務所

現在(いま)を生きる意味を問う警察小説の誕生。これは本のオビにあるコピーです。
 著者の警察小説を初めて読みました。警察内部の人事の葛藤が描かれているのはほかの警察小説と同じです。やはり、どろどろした人間模様がないと単なる犯人探しの推理小説になってしまいます。この本を読みながら高村薫の『マークスの山』そして佐々木譲の『警官の血』を思い出しました。
 私と同世代の学生運動はなやかりしころの男女が登場してくるのです。私とは違って過激派のセクト活動家です。そこに、警察官が潜入捜査する話が登場します。要するにスパイです。これは本当にたくさんいたようです。それを体験した人の告白本もあります。ただ、所在をくらますため、地下に潜ったときハウスキーパーの女性の話まで出てきました。戦前の共産党員の地下活動にはあったようですが、戦後1960年代に本当にあったのでしょうか。私には信じられない話です。そんなことしなくても同棲自体は珍しくなかったわけですので・・・。
 警察署長はキャリア組。キャリアが「責任を持ちます」という類の言葉を口にしても、それを決して信じられない。このことはノンキャリアの警察官ならばだれでも知っている。
 キャリア組は自分の成績を上げるためなら何でもするし、責任回避もすごくうまいということですね。
 警察内部で非行を見たとき、バカ正直にそれを問題とすると、必ず報復があり左遷される。カラ領収書づくりが問題になったとき、そのことは明らかとなりましたね。
 政治家が登場し、地元の土建業者が利権をあさっているなかで、古い白骨死体が工事現場で発見されます。そこに居合わせたのが認知症の老婆。はたして両者に関連性があるのか・・・。
 筋書きはあちらこちらに飛んでいき、やがて一つに収束していきます。
(2013年1月刊。1800円+税)

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2013年4月12日

原発はやっぱり割に合わない

社会

著者  大島 堅一 、 出版  東洋経済新報社

福島第一原発事故の特徴は、長期にわたって収束できずにいること。政府の「収束」宣言にもかかわらず、実際には、「収束」にはほど遠い。
 福島原発事故は、これまでとはまったく次元の異なる事故である。放射能の放出量が非常に多かったことが一つの特徴。長期的影響が問題になっているセシウム137でみると、広島原爆の168倍も出ている。
 福島原発事故の直後、NHKや民法は、原子力に批判的な専門家をニュース番組に登場させることはなかった。安全は保たれているとか、メルトダウンは絶対に起きないと繰り返し解説していた。
 危険性をいたずらにあおるべきではないという。しかし、このような事故が起きて危険性を軽視することのほうが、国民の安全確保観点からは正しくない。最悪の事態を想定し、これを国民に周知したうえで、最善を尽くすというのが原発事故の対策の基本だ。
 4号機の使用済み燃料プールが壊れ、放射能が放出され、他の使用済み燃料プールが連鎖的に壊れていったとき、強制移転地域は原発から半径170キロメートルとなる。そして、半径250キロメートルまで、移転が認められる。福島第一原発から皇居までは225キロメートルなので、首都圏がすっぽりふくまれる。つまり、日本壊滅の事態だ。これほど深刻な事故であったことを少なくない日本人が忘れている。慣れてしまうのは恐ろしいことだ。
 フランスも原発大国だが、フランスの地盤は安定していて、日本のような地震国ではない。政府も当初は原発は危険だというのを知っていた。しかし、「原子力は安全だ」と繰り返し言っているうちに、自分たちも信じ込んでしまった。原発の安全性について異論をゆるさない雰囲気があった。
 原発の建設には10年とか20年とか長い期間を要する。そして、原発は火力発電所がないと建てることができない。総括原価方式という料金体系は、一般の企業ではありえない。電力会社は、事業にかかわるすべての費用と「事業報酬」をあらかじめ電気料金のなかに組み込んでしまっている。
 大口の電力消費者向けには別の発電事業者と競合しているため、統括原価方式は使われていない。
 原子力だけが特別枠の優遇措置を受けている。政策費用を加えると、原子力は10.25円になる。これに対して火力は9.91円、水力は3.91円でしかない。つまり、政策費用を含めると、原子力はもっとも高い電源なのである。事故が起きる前からそうだった。そして、使用済核燃料の再処理費用は莫大である。
 たった数十年でためた核廃棄物を10万年先までの将来世代に押しつけてよいとは思えない。まことに同感です。こんなに無責任なことはないでしょう。
 電力会社は、九州電力をふくめて、電源として原発が必要だというより、自らの損を避けるために原発にしがみついている。
 こんなことって、許されるものではありませんよね。原発はやっぱり必要だという声がまだぞろじわりと増えつつあるようです。事態の深刻さをもっと私たちは認識すべきだと思います。ベトナムそしてトルコへ原発を輸出する動きがすすんでいます。とんでもないことです。
(2013年1月刊。1600円+税)

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2013年4月11日

誤解だらけの沖縄・米軍基地

社会

著者  尾良 朝博 、 出版  旬報社

アメリカ軍のオスプレイが日本国内を我が物顔に飛びまわっています。日本ってアメリカ軍の占領下にあるようなものだと実感させられます。このオスプレイの傍若無人ぶりに右翼・保守層の人々が怒らないのが、私には不思議でなりません。彼らの「愛国心」なるものは一体どこに消えてしまったのでしょうか・・・。それとも、アメリカのいいなりになるような国を愛せとでも言うのでしょうか。
 沖縄にいるアメリカ軍の主体は海兵隊である。海兵隊は海岸から上陸作戦をおこない、後続の大部隊のために陣地を確保する、切り込み部隊である。
 海兵隊が上陸作戦をするにはヘリ空母などの強襲場陸艦隊で移動する必要がある。しかし、実は、沖縄にはそんなものはない。佐世保のアメリカ海軍基地を母港としている。海兵隊が出撃するときには、長崎から船が到着するのを待ち、それから物資や兵員、ヘリコプターなどを詰めこんで出発する。仮に朝鮮半島で紛争が起きたとき、船は長崎から沖縄に南下し、再び朝鮮半島へ向けて北上することになる。
 これでは、沖縄は地理的に不可欠とは言えない。だから、なぜ沖縄にアメリカ軍基地が集中しているのかという問いかけへの正しい答えは、アメリカ軍が求めているからではなく、日本政府がそう望んでいるからだということ。
 つまり、海兵隊を沖縄に駐留させる必然性はない。本土に移転させるには政治的コストがかかりすぎるから、というのが沖縄基地問題の本質だ。
普天間飛行場は、那覇市から車で20分ほどのところという良好な立地条件にある。そして480ヘクタールの広さがある。そこで働いている日本人従業員はわずか200人。これを民間活用したら、よほど地域経済のためになる。沖縄県議会議員事務局の試算によると、沖縄にあるアメリカ軍基地の全部が日本に返還されたとき、現在の雇用3万5000人が9万5000人になる。そして、商業や農業に活用することによる経済効果は9155億円に上るという。今より2.2倍の経済効果がある。
私も、何度も沖縄には行きましたが、アメリカ軍基地がなくなったら沖縄の経済は飛躍的に発展することを実感しました。なにしろ、町のド真ん中を広大なアメリカ軍基地が占めているのです。これほどの無駄はありません。現にフィリピンがアメリカ軍基地をなくしたあと、大きく経済発展させています。日本もぜひフィリピンと同じ独立国として、そうしたいものです。
沖縄にいるアメリカ軍兵隊はそもそも時代遅れの存在でしかない。
 1950年の朝鮮戦争のときのような海兵隊による上陸作戦というのは今では考えられないことは明らかです。
 現に、沖縄には、かつて2つの歩兵連隊があったけれど、今では第四海兵連隊だけしかいない。海兵隊のほうからも、沖縄は、もはや魅力を失っているという声があがっている。沖縄タイムスの論説委員、社会部長をつとめた著者の指摘はまことにごもっともだと思いました。
(2012年11月刊。1200円+税)

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2013年4月10日

生活保護とあたし

社会

著者  和久井 みちる 、 出版  あけび書房

先日、身近に起きたことです。生活保護を受けて生活している人が、お昼にうどん屋に入って350円のうどんを食べました。すると、それを近所の人が見ていて、保護課に電話したのです。「保護を受けているくせに、外食なんかして、ぜいたくだ」。そこで、保護課は、その通報を受けて本人に電話して注意をしました。ええーっ、生活保護を受けていたら、350円のうどんも食べてはいけないだなんて・・・。
 保護課に通報した人は年金生活者ではなかったでしょうか。毎日、苦しい生活を余儀なくされている年金受給者は、つい生活保護を受けて生活している人を妬みがちになるのです。弱い者同士がいがみあう世の中になっています。不幸の限りです。
日本はアメリカに次いで世界で二番目に大金持ちの多い国ですが、同じように貧しい人が、どんどん増えている現実があります。この本は、そんな生活保護を受けて生活してる人の実感をこめたレポートです。著者は2007年から3年半のあいだ、生活保護を受けていました。
2007年ころに16万人の生活保護利用者だったのが、2012年11月には212万人と50万人以上も増えている。生活保護利用者は怠け者ではない。生活保護制度は人間をダメにするものでもない。
 著者は、この2つを本を通じて強調しています。私もまったく同感です。生活保護は、日本社会のセーフティーネットとして、これからも十分に有効活用されるべきものです。
 生活保護を申請しようとすると、「水際(みずぎわ)作戦」に直面する。要するに、生活保護を受けられるはずなのに、申請書がなかなかもらえないということ。申請書を書くときには、役所のフロアから一般の人には見えない奥の小部屋に招かれる。そして、福祉事務所には警察官OBが配置されるようになった。つまり、不正受給をチェックしようということです。
 知人から、お米や野菜をもらったときにも、それを「収入」として記入しなくてはいけない。
 ま、まさか・・・という、本当の話です。これでは、生活保護利用者はフツーの社会生活を送れないことになってしまいます。そして、それは「自立」を促すという趣旨にも反しますよね。
生活保護世帯のうちの母子世帯は、8割以上が働いている。「不正受給」は、支給額の0.4%にすぎない。国会議員の「不正」献金とは桁違いでしかないのに、マスコミはすぐに針小棒大に報道する。ひどいものです。
生活保護を申請して需給が決まるまでの2週間に、70頁に及ぶ調査の記録がある。これまた、税金のムダづかいのようなものですよね。
生活保護利用者が病院で治療を受けるときには、保険証がなく、「医療券」を示す。
 同じく、薬をもらうときには、「調剤券」が必要となる。生活保護利用者は、特別な場合を除いて、指定医療機関にしか受診できない。自由に選ぶことは許されない。
 生活保護利用者のなかには、子どものころに親と別れたり、施設で育ったりして、家庭の台所の風景を記憶しておらず、調理の場面をほとんど経験せずに育ってきた人も少なくない。
 ホームレス状態の人や、生活が困窮している人が食べているものは、とにかく空腹を紛らわすことが第一なので、ご飯や麺類といった炭水化物が多い。そのとき、魚や野菜をバランスよくとるような、望ましい食生活はとうていとれない。そうすると、高血圧とか高血糖になってしまう。つまり、極端にかたよった食生活になる。ぜいたくしているから、糖尿病になるのではない。
 生活保護利用者は孤独な人が本当に多い。そして、いろんな事情をかかえている。そして、自己肯定感が抑制されている。そのうえ、ケースワーカーから「恋愛禁止」を言い渡された人までいる。
 生活保護利用者の「年収」分が国会議員の1ヶ月の報酬(140万円)である。そんな議員が、「生活保護利用者はぜいたくだ」なんてほえるのですから、世の中は間違っていますよね。
 生活保護を受けるのは国民の当然の権利です。もっと大らかに受けいれたいものです。そして、生活保護を削減したら最低賃金やら年金にも悪影響を及ぼすのです。
 底辺の人同士が足をひっぱりあうことのない世の中にしたいものだと、この本を読みながらつくづく思いました。
(2012年12月刊。1400円+税)

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2013年4月 9日

「国防軍」、私の懸念

社会

著者  柳澤協二・小池清彦ほか 、 出版  かもがわ出版

安倍首相は日本を戦争する国にしようとしています。とんでもないことです。ところが、大手メディアはそれを無批判に報道するばかりです。また、橋下徹・石原慎太郎の維新の会は、それをあおり立てています。本当に恐ろしい状況が生まれています。
 そんなとき、本書は、そんなことで日本は一体どうなるのか、強い警鐘を鳴り響かせています。わずか80頁ほどの軽いブックレットですが、ずしりとした重味を感じました。
 柳澤協二氏は東大法学部を出て、キャリア組の官僚として防衛庁で運用局長そして防衛研究所長をつとめ、2009年まで内閣官房副長官補でした。安全保障担当です。その柳澤氏が憲法改正の危険性を論じています。
 ポピュリストは、自分よりも強烈なポピュリストとはうまくいかない。安倍政権について、今回の選挙で自民党が圧勝したと言っても、投票率(60%)と得票率(小選挙区で43%)で見れば、国民の支持率は25%にすぎない。
 安倍政権にとって、もっとも頭の痛い問題は、むしろアメリカかもしれない。財政削減を迫られるアメリカにとって、中国との軍事衝突は、もっとも避けたい悪夢のシナリオだ。少なくとも、アメリカは、尖閣諸島のためにアメリカの兵隊を死なせるようなことは考えない。同盟というのは、美しい友情物語ではなく、冷徹な国益の手段なのである。
 小池清彦氏も東大法学部卒です。防衛庁に入って、防衛研究長になったあと、今は新潟県加茂市長です。
防衛省設置法を改正して、防衛参事官制度とは、文官である防衛参事官が防衛の重要事項に参画し、各局の局長を兼ねるという制度である。政治が軍事をしっかりと統制するシビリアンコントロールのかなめであった。
 内局と統幕・陸・海・空幕は、それぞれが独立していなければ、内局によるコントロールは成り立たない。ところが、内局と統幕・陸・海・空幕を統合するということは、内局が制服自衛官によって乗っ取られることを意味する。実質的に力をもつのは、自衛官の局次長である。
 作戦・運用について内局の関与がなくなり、大臣に直結した統合幕官僚長に、もし田母神氏のような人物が就任したとき、どのような事態となるだろうか。そうなったら、統合幕官僚長の天下だ。制服組は、大臣の言うことなんて聞かない。いとも簡単にクーデターを起こせる。
憲法9条がある故に日本は海外派兵させられることがなかった。結局、本格的な海外派兵をやらされずに今日まで至っているのは、平和憲法9条があるおかげだ。戦争を放棄して、国際紛争を解決する手段としては陸海空軍を持たないと書いてあることが大切なのである。
 国防軍をもつということは、名前が変わるというだけですむことではなく、自衛隊員を危険にさらすことになる。自衛隊が国防軍になれば、アメリカ軍と同じように犠牲者を出す海外派兵を要求される。そうすると、国防軍に猛烈な戦死者が出る。そんな軍隊に入る人はいないので、国防軍を維持するためには、徴兵制を導入するしかなくなる。
 今の自衛隊員は、人道的な扱いを受けている。しかし、徴兵制になったら昔の帝国陸海軍と同じように、リンチ、私的制裁が横行するようになる。
 国防軍から除隊になった人たちは、暴力社会を肯定する人間となって世の中に出てくることになる。そして、世の中全体が暴力組織化しかねない。
 これまで、日本は軍事面でアメリカのために最大限のことをしてきた。その最たるものが対潜兵力である。対潜哨戒機であるP3Cは100機も保有し、そのほか対潜ヘリをたくさんもっている。こうしてアメリカに次ぐ世界第二の対潜航空兵力をつくりあげた。それに加えて、水上艦と潜水艦の強力な対潜兵力がある。
 安倍首相は戦後レジーム(体制)から脱却すると言う。それでは、戦後レジームとは何なのか。それは、平和主義・民主主義、そして地方分権のこと。安倍首相の言う戦後レジームからの脱却とは、平和主義をやめ、民主主義をやめ、それから地方分権をやめるということ。
 これって本当に恐ろしいことですよね。大マスコミはまったくそんな報道をしません。残念です。いま、広く読まれてほしい本です。
(2013年3月刊。900円+税)
 日曜日、庭にアスパラガスが6本ほど大きく伸びていました。さっそく食卓へ。電子レンジで1分あたため、春の味をかみしめました。午後から娘が近くの山にタケノコ堀りに行って持ち帰ったタケノコをアルミホイルに包んで、オーブンで焼きました。刺身でも食べられそうな、ほっこりした素敵な味わいでした。春らんまんです。

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2013年4月 8日

シロアリ

生き物

著者  松浦 健二 、 出版  岩波科学ライブラリー

シロアリがゴキブリだったなんて、おどろきです。シロアリとアリとは、全然ちがう昆虫らしいのです。ええーっ、と思わずのけぞってしまいました。
 アリとシロアリは分類上は、まったくちがった昆虫だ。アリはミツバチなどハチに近いのに対して、シロアリはゴキブリに近い。アリは翅をなくしたハチであり、シロアリは社会性を高度に発達させたゴキブリ。食べているのも、体の形も、成長の仕方だって、まったく違う。さらには、オスとメスの役割や遺伝子の伝わり方まで、社会の仕組みが大きく異なる。
 シロアリ目は7つの科に分けられ、知られているもので3000種いる。もっと研究がすすむと5000種になるだろう。地球上のシロアリを全部足しあわせると、なんと24京匹になる。アリは全部で1京匹なので、シロアリははるかに多い。
 シロアリの巣には、王と王女が存在する。ハチ目のワーカーはすべてメスで構成されている。シロアリのコロニーでは、ワーカーや兵アリも基本的にオスとメスの両方で構成されている。アリの社会は女性社会、シロアリの社会は男女共同参画社会である。
 シロアリは不完全変態の昆虫であり、孵化した幼虫はすでに立派なシロアリの形をしている。シロアリの社会は、カワイイ幼虫たちの社会である。王と女王を除けば、巣の構成員はワーカーも兵アリもみんな幼虫なのである、
 ヤマトシロアリのコロニーで最大のものは、一匹の王に対して、670匹の女王を保有していた。創設王はコロニーの終焉まで長生きする。女王のほうは比較的早期に二次女王に入れ替わる。
 創設女王は単為生殖で分身を産み、それから後継の女王にすることで、自分の死後も遺伝的には生前と同様に次世代に遺伝子を残す。しかし、女王の分身は二次女王のみで、ワーカーや羽アリは通常の有性生殖、つまり女王と王との交配によって産まれている。つまり、女王は単為生殖と有性生殖を適材適所で使い分けしており、その両方の利点をいかしている。
移動しないキノコシロアリ属の女王は、1日に2万から8万個もの卵を産む。移動するヤマトシロアリの女王は1匹で、産むのは1日あたり25個ほどでしかない。若い二次女王が分化したあと、高齢の創設女王は、その役目を終え、生きながらワーカーに食べられ、子どもたちの栄養となって消えていく。
 しかし、食べられていく女王に苦痛の色はない。その表情は死ぬべきときに死ねる喜びに満ちている。分身を残したあとは、むしろ速やかに死んで二次女王に産卵を委ねたほうが自分自身にとっても多くの遺伝子を残せることになる。この時点では、彼女にとって迷うことなく死こそが適応的であり、まさに至上の喜びなのだ。
 ええーっ、これって本当でしょうか・・・。単なる偽った感情移入にすぎないのではありませんか・・・。いや、それにしても、見事なものですね。
野外の巨大コロニーの王は、どんなに短くも30年以上は生きているだろう。
 これまた、すごい長命ですね。シロアリのことを少し知って、大いにトクした気分になりました。でも、住んでいる家に入ってこられては困る生き物ですよね。わが家もシロアリ予防策を講じています。
(2013年2月刊。1500円+税)

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2013年4月 7日

伊東マンショ

日本史(戦国)

著者  マンショを語る会 、 出版  鉱脈社

宮崎で生まれた少年が、戦国時代にはるばるスペインそしてローマに渡って教皇に面会したのでした。その天正少年遣欧使節団の首席をつとめたのが伊東マンショです。昨年は、伊東マンショが長崎で亡くなって400年という記念の年でした。
 慶応17年(1612年)11月に43歳で亡くなったのでした。
 マンショは、今の西都市で生まれました。日向国を治めていた伊東氏の重臣の子どもです。ところが、日向の伊東氏は南に薩摩の島津氏、北に豊後の大友氏にはさまれ、島津軍に攻めこまれて大友を頼って落ちのびていったのでした。そして、頼みの大友軍が島津軍に大敗してしまったのです。
 天正10年(1582年)2月、遣欧少年使節は長崎を出発した。首席の伊東マンショ、干々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチーノの4人。いずれも13か14歳の少年たち。引率者はヴァリヤーノら3人。随員2人。この9人がポルトガル商人の帆船でマカオに向かった。マカオに10ヵ月間滞在して、ラテン語、ローマ字の学習、何より楽器演奏に励んだ。
 ポルトガル領のインド・ゴアについたのは、長崎を出て1年9ヵ月後。そのあと、アフリカ南端の喜望峰を通過して、セントヘレナ島に上陸します。200年後にナポレオンが幽閉された島です。
 ポルトガルのリスボンに着いたのは長崎を出て2年半後の1584年(天正12年)8月のこと。10月にマドリードに入り、スペイン国王フェリーペ2世と会見。使節一行は着物姿。日本語で挨拶。大友・有島・大村の三大名の書状を、同行した日本人修道士が読みあげた。
 1585年(天正13年)3月、ローマで法王グレゴリオ13世の謁見式に参加した。総勢2000人の大行列だったというのですから、大変な見物でしたね。
 このとき、日本から織田信長の「安土城屏風絵」も進呈したようです。残念なことに紛失して、所在が分からなくなっているそうです。
 4人の少年使節の熱狂的な報道が当時の新聞に絵入りで報道されていたというのです。金モールの洋装のりりしい青年4人の絵が載っています。
 ところが、天正18年(1590年)7月、4人が8年5ヵ月後に日本に戻ったとき、日本はすっかり変わっていたのでした。
 それでも、少年たちは豊臣秀吉に京都の聚楽第で面会しています。
 マンショたちは、印刷機を持ち帰ってきました。ローマ字による本の印刷もすすみました。ところが、キリシタン禁教となり、苦難のなかでマンショは病死してしまったのでした。
 ところが、マンショの死んだ慶長17年(1612年)は、徳川幕府のキリシタン弾圧が強化された年だったのです。残酷な拷問を受けなかったのが、まだ幸いだったかもしれません。
中浦ジュリアンは1633年に穴吊りという過酷な刑で処刑されました。64歳でした。原マルチーノは、マカオに流され、そこで1629年に病死しました。
 島原の乱が起きたのは、その何年か後の1637年のことです。
(2012年8月刊。619円+税)

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2013年4月 6日

深い疵(きず)

ドイツ

著者  ネレ・ノイハウス 、 出版  創元推理文庫

本の扉にあらすじが紹介されています。推理小説ですから、ネタバレは許されませんが、以下は扉にあるものですから許されるでしょう。
 ドイツ、2007年春、ホロコーストを生き残り、アメリカで大統領顧問をつとめた著名なユダヤ人の老人が射殺された。凶器は第二次大戦記の拳銃で、現場に「16145」という数字が残されていた。しかし、司法解剖の結果、遺体の入れずみから、被害者がナチスの武装親衛隊員だったという驚愕の事実が判明する。そして、第二、第三の殺人が発生、被害者らの隠された過去を探り、犯行に及んだのは何者なのか。
刑事オリヴァーとピアは幾多の難局に直面しつつも、凄然な連続殺人の真相を追い続ける。ドイツ本国で累計200万部を突破した警察小説シリーズ・開幕!
 ドイツには今もネオ・ナチがうごめいているようです。でも、日本だって同じようなものですよね。安倍首相なんて、戦前の日本への回帰を臆面もなく言いたてていますので、ドイツを批判する資格もありません。
 それにしても、ナチス親衛隊員が戦後、ユダヤ人になりすましていたなんて、信じられません。そして、残虐な殺人劇が続いていくのです。
 警察内部の人間模様も描かれていますが、やはり本筋はナチス・ドイツの残党が今なおドイツ国内でうごめいていることにあります。
 読ませるドイツの推理小説でした。
(2012年7月刊。1200円+税)

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2013年4月 5日

「弁護士研修ノート」

司法

著者  原 和良 、 出版  レクシスネクシス・ジャパン

宇都宮健児・日弁連前会長がオビに「若手弁護士にとっての必読文献である」と書いていますが、まったく同感です。 私も、「法律事務所を10倍活性化する法」という小冊子を書いていますが、著者の問題意識と業務についての提起に全面的に賛同します。
 ぜひ、若手だけでなく中堅弁護士に読んでもらいたいものです。それにしても、東京で幅広く活躍している著者が、九州は佐賀県出身というのに驚きました。ひき続き東京でがんばってくださいね。著者は、私より二廻りも年下になります(47期)。
 人の人生に重大な影響を与える怖さを十分に自覚していないと、本当の意味で言い弁護士にはなれない。若いときには、専門用語を並べて質問を蹴散らしたり、必死になりがちだ。依頼者は、なかなか本質的なところを話さない。そこを聞き出して、隠された真の利益と相談すべき事項にたどり着くことこそ、本当の弁護士なのだ。
 相談数が減っているなか、弁護士もマーケティングを勉強する必要性はますます重要になっている。自分を指名して選んでくれる顧客・紹介者を増やすこと。そのリピーターを増やすことが弁護士としての安定的成功のゴールデンルールである。このことは今も昔も変わらない。これは、まったくそのとおりです。そして、そのうえに、やるべきことがあります。
 受任した事件の解決を通じて依頼者に喜んでもらうこと、この弁護士だったら自分の大切な人がトラブルに巻き込まれたときに紹介したいと思ってもらえるような事件処理を積み重ねるしかない。
依頼者の感情や思いに耳を傾けて聴くことが何より重要なこと。「あなたの気持ちは理解できます」という共感は必要。しかし、同化してはいけない。弁護士は解決のためのプロフェッショナルだから。だからといって、事件が解決したときに、一緒に喜びを共有することは大切なこと。
 共感しながらも、同時に法律的に意味のある事実と情報を抽出し、分析していくのが弁護士の仕事なのだ。本当に、そのとおりですね。
弁護団に加入するなどして、同業者のネットワークに参加し、常に自分を客観的に見ることのできる環境、自分の間違いを指摘してくれる環境、迷った時に相談できる環境をつくっておく必要がある。
大切なことは、お金もうけを目的にして仕事をしないこと。もうかりそうかどうかだけで事件を見ていると、いつまでたってもいい仕事はできない。いい仕事をした結果として、お金は後から勝手についてくる。
なかなか勝手についてきてくれないのがお金です。それでも、たしかに自分でいい仕事だと思うことをしていると、なんとなくお金はまわっていくものです。
リスクの説明は、求められたらしなければいけない。しかし、必要なリスクをとらなければ、権利を実現することはできない。リスクの説明は最悪の事態(リスク)を理解したうえで、相談者、依頼者も弁護士も最良の結果を目ざして一緒に事件に取り組むためにするものである。依頼者に、この弁護士じゃなきゃいや、という気持ちになってもらうこと。これは恋愛と同じだ。うーむ、なるほど・・・。
 損害賠償請求事件を担当する時には、本来、お金で換算できないものを扱っていることを常に忘れないことが大切だ。
 苦肉の策としてお金で保障することによって、被害者や遺族が前向きに人生を生きていこうというように、生きる力を持てるようにサポートしていくのが弁護士だ。弁護士は、裁判や交渉をふくむ事件処理業務のプロデューサーである。
訴状はできるだけシンプルなものにする。一度読んだら、言いたいことがスーっと頭に入れる文章を目ざす。弁護士にとって、準備書面とは、裁判官に書くラブレターのようなものである。
陳述書は、打合せ前に内容の8割はできあがっていなければいけない。弁護士が聴きとり作成するものである以上、陳述書は依頼者の表現を超えるものでなければならない。弁護士が手を加え、あるいは下書きをすることを通じて、その人の思いを120%汲み上げた書面・文章にしたい。そして、証拠として信用性の高い、説得力のある陳述書にしなければならない。
今までと同じような仕事を、同じようなやり方でやっていたら、この厳しい世の中を弁護士は生きていけない。時代の求める法律家に変化していく努力を積み重ねていく必要があるし、そこに活路が開かれる。まったく同感です。
人が解決できないストレスを代わりに引き受けるのが弁護士の仕事。ストレスフルな仕事である。だから、悩みを共有できる仲間をたくさんつくっておく必要がある。
休むのも仕事、遊ぶのも仕事。こんな割り切りが大切だ。
実務的、実践的にとても大切なことが200頁あまりでコンパクトにまとまった貴重な本です。あえて注文をつけると、法テラスの活用をもっと強調していいのではないかと思いましたし、本のタイトルがあまりに地味すぎて、せっかくのいい内容が損をしていると思いました。
 若手弁護士にとって必読文献だというのにまったく異存ありません。とってもいい本です。ご一読を強くおすすめします。
(2013年3月刊。1600円+税)

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2013年4月 4日

ワルシャワ・ゲットー日記

ヨーロッパ

著者  ハイム・A・カプラン 、 出版  風行社

ナチス・ドイツ軍が1939年9月、ポーランドに侵攻し、ワルシャワにゲットーをつくって大勢のユダヤ人を狭い地域に押し込めました。そのなかに生きていた教師がつけていた3年間(1942年8月)の日記が紹介された本です。
 著者は、強制収容所で亡くなっていますが、この日記は奇跡的に他人の手に渡って保存されたのでした。その後、ゲットー蜂起があり、またワルシャワ蜂起もあるわけですが狭いゲットーに押し込められ、ナチスから残虐な仕打ちを受けている日々の様子が刻明に紹介されています。
 全能の神よ、あなたは、ポーランド、ユダヤ民族の末裔を死滅させようとされているのですか?
 この問いに神は、どう答えたのでしょうか。私には、とうてい理解できません。
 純朴な老婆が毎日私に尋ねる。「どうして世界は黙しているのか。もうイスラエルに神はいないのか」
 ユダヤ人の逮捕が止むことなく続く。いつ自分の番が来るのか、誰にも分からない。そのため、誰の心の中も恐怖でいっぱいだ。
 逮捕されるのは、とりわけ知識人であるが、必ずしも有名人とは限らない。むしろ、誰であれ歓迎される。監獄の檻は、罪もなく捕まえられた若い弁護士や医師であふれている。
 ナチズムは、二つの顔をもっている。彼らは、誰かから利益を引き出すことが必要なときには、従順さを装い、偽善的に振る舞う。しかし、その一方で、人間性を踏みにじる強靱な残忍さを持ち、もっとも基本的な人間的感情に対して無情に徹することができる。
 従服者どもがポーランドのユダヤ人の本性と強靱さを見誤ったのは幸運だった。彼らのこの間違いが、我々を今日まで生き延びさせてきた。我々は論理的に考えれば、すでに死に絶え、自然の法則によれば完全に絶滅しているはずだった。
 我々の間から自殺者がほとんどでないというのは、とりわけ注目に値する。誰が何と言おうと、恐ろしい惨禍の中で生き続けようとする、この生への意志は、何かは分からないが、ある隠された力の発露であろう。これは、驚くべき無情の力であり、我々ユダヤ民族のなかでも、もっともよく組織された共同体だけに恵みを与えられたものである。
 我々は裸のまま取り残された。しかし、この秘密の力がある限り、我々は希望を捨てない。この強靱な力は、ポーランドのユダヤ人に固有のものであり、生きることを命じる永遠の伝統に根ざしている。
50万人もの大集団が狭い地域に押し込められ、詰め込まれた。
 かつての平和な時代には、ポテトは貧乏人の食べ物だった。今はどうか。地下室にポテトを貯め込んでいる者は、誰もがうらやむ幸福者なのである。ゲットーには、この食べ物のほかになにもない。
ゲットーの境界を越えて密輸は日に日に増加する。これは、ユダヤ人とアーリア人の双方にとって、何千人もの人々の職業になった。そして、両者は協力関係を結び、アーリア人地区からユダヤ人のゲットーへと食料を密輸する。ナチスでさえも、これに関与することがある。総統の兵士は、主人の言葉には従わず、金銭を懐に収めて、見て見ぬふりをする。
密輸は、壁にできたあらゆる穴や裂け目を使って行われる。あるいは境界線上の建物の地下にトンネルを掘って・・・。アーリア人専用の市街電車に乗務する車掌は、密輸品がいっぱい詰めこまれた袋を車両の中に隠しもって稼ぐ。
 ユダヤ人の子弟は、ナチの目を盗みながら学んでいる。奥まった部屋にテーブルを置き、子どもたちはその周りに座って学んでいる。
我々は生き延びられるだろうか。あらゆる者の心を占めているのは、このことである。そして、信仰深き者の答えは、決まって「神のみぞ知る」である。このような時代には、信じることに優る救済の道はない。
奇妙なことに、病弱な者は健康を回復し、頑健な者は病気に倒れ、死んでいく。とりわけ天が味方するのは女性である。連れ合いがなくなった後も彼女らは生き延びる。
 この日記は、私の命であり、友人、盟友である。この日記がなければ、私は死んだも同然だ。私は、その中にもっとも心の奥底にある思いと感情を注ぎ込み、日記は私に慰めを与えてくれる。この日記を書き続けることで、精神的安らぎが得られる。
 ゲットーの中には、遊興の施設があり、毎晩、入りきれないほどの賑わいである。
 豪華なカフェに入り込んだ者は、驚きのあまり息を呑むことだろう。ぜいたくな衣服に身を包み、音楽を楽しみ、パイやコーヒーを味わう大勢の者がいる。奥の部屋ではオーケストラが音楽を奏で、さらに奥まった部屋では、トランプの遊技場がある。ゲットーには少なからぬ劇場があり、連日満員の盛況である。陳腐な寄席演芸が演じられている。
 ゲットーでは、餓死は日常茶飯事である。生と死を分かつのは、髪の毛一本ほどの違いでしかない。
ユダヤ人教師の思索の深さを如実に示している本です。同時にゲットー生活の様々な状況も伝えてくれます。オーケストラとか満員の劇場とか、ゲットーのなかにそんなものがあったなど、驚かされますね。
(2007年6月刊。2300円+税)

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2013年4月 3日

橋下主義・解体新書

社会

著者  二宮 厚美 、 出版  高文研

胸のすく痛快な本です。胸の内にわだかまっていたモヤモヤが吹きとんでしまい、すっきりした気分になれました。
 新書と言っても、新書版ではありません。フツーに350頁もある本です。それでも、そうだ、そうだよねと、大いに拍手しながら、ずんずん頁をめくっていき、あっというまに読み終えました。
 著者の話も何回か聞いたことがありますが、この本と同じく明快です。すっかり白髪ですので、ずい分と年長だと思っていましたが、なんと私と同じ団塊世代でした。
 これから「橋下主義」は明きの黄昏時(たそがれどき)のように、急速に日没・落日に向かう。一つのイデオロギーとしての橋下主義が現実的意味をもちはじめてから、すでに5年がたった。日の出のときは、すでに過去のことである。2012年12月の総選挙での日本維新の会の躍進は、夕焼けのようなもので、斜陽期の輝きにすぎない。
橋下主義は、よきにつけ悪しにつけ、橋下個人のカリスマ性を求心力にしたものである。
 橋下は、まず大阪において、メディアの活用・劇場型政治、各種パフォーマンス、街頭演説、過激発言、選挙合戦などを繰り返し、匿名の特定多数に対するカリスマ性をものにした。
 だが、カリスマ性に依拠した独裁主義は、しょせんは一時的なものであり、少数の限られた集団内において通用するものにすぎない。
橋下と石原が手を結んだが、独裁思考の者同士は、決して同志的結束の関係を結ぶことはできない。
 橋下は、自ら「僕は近くの人にはまったく支持されない。分かっている」と語る。
 カリスマ性を生かさなければならないが、同時に殺しもしなければならない。これが橋下主義に固有な内在的矛盾である。橋下主義は、この内在的矛盾によって滅びる。
 橋下は2008年に大阪府知事になる前は、せいぜいTV会のちんぴらタレントに過ぎなかった。昔からブタもおだてりゃ木に登るというが、橋下はメディア世評のおだてに乗って、いまではすっかり政治家気どりで、国会にまでのぼりつめようとしている。
 しかし、橋下は選挙権を得て知事になるまでの20年近く、半分も投票所に足を運んでいない。知事選に出るまで、政治にそれほど関心をもたず、まして本気になって政治家になろうなどとは思ってもいなかった。未熟ではあっても、己の主張や活動には社会的責任をとる。これが職業的政治家に求められる最低限の要件である。これが橋下には、まったく欠けている。
 橋下に際立った個性は、何よりも競争第一主義、競争至上主義的な体質である。
 橋下は幼いころからの体験を通じて「人生、万事カネ次第」の処世訓を身につけた。
橋下徹と一緒になって大阪市職員の思想調査を実施した野村修也弁護士もひどいものです。弁護士の面汚しですよね。
 日本のメディアは、橋下に翻弄されている。開き直った強気の詭弁を有能のあらわれと錯覚している。
橋下は、年金がもらえるのは80歳から、それまでは、おのれの稼ぎと蓄えで生きていけという。これが維新八策の年金政策である。
 うひゃあ、これはひどい。許せません。ところが、この中味を知らずに手を叩いて橋下を持ち上げている人のなんと多いことでしょう。
 橋下主義とは、競争主義と独裁主義。そしてきわめて野蛮な急進的かつ反動的な新自由主義路線である。
 メディアがなぜ橋下の手玉にとられ翻弄されているのか。それはメディア自身がゲームの世界に取り込まれているからである。
橋下は、いま憲法改正をあおりたてています。安倍政権を右側から突き上げ、憲法改正へと突っ走らせようとしています。とんでもない政治集団です。その化けの皮をはぐ本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2013年3月刊。2800円+税)

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2013年4月 2日

原発と憲法9条

社会

著者  小出 裕章 、 出版  遊絲社

明快です。とても分かりやすくて、驚いてしまいました。原発について、少しは分かっているつもりでしたが、この本を読んで、本当に頭がすっきりしました。さすがに専門家は違います。それも「原発ムラ」と長年たたかってきた気骨ある学者ですので、明瞭そのものです。あざやかというほかないほどの明快さなのです。
 原子力は安全ではない。少なくとも都会では引き受けられない巨大な危険を抱えている。そのことを原子力ムラが知っていたからこそ、原子力発電所は過疎地につくった。
そして、原子力は安価でもない。現在進行形の事故処理は膨大なものになるのだから、安価なはずがない。
核分裂反応というのは、はじめから爆弾向けの現象だった。核分裂反応がもっている性質が、いちばん開花して、爆弾となった。
広島に落とされた原爆はウランで出来ていた。長崎に落とされた原爆はプルトニウムで出来ていた。プルトニウムという物質は、この世界にはひとつもない。一グラムもない。そういう物質である。
 石油は、残りはあと30年しかないとずっと言われ続けてきた。今も言われている。しかし、これからもそう言われるだろうということは石油は実は、まだまだあるということ。
 日本は「もんじゅ」にすでに1兆円もの大金を投入している。すなわち捨てているのだ。
 日本が現に持っているプルトニウムで長崎型の原爆が実に4000発もつくれる。日本が原子力をどうしてもあきらめない本当の理由は、核兵器をつくることにある。核兵器をつくるには、プルトニウムが必要になるからである。
 同じ言葉を、日本がやるときには原子力開発と呼び、イランがやると核開発という。これはマスコミの情報操作の一つである。
 原子力に反対する根本の理由は、自分だけがよくて危険だけを他人に押しつける社会が許さないから。電力を使うのは都会なのに、原子力発電所は都会にはつくらない。そして、原子力発電所で働く労働者は本当に底辺で苦しむ労働者が多い。
 わずか200頁の本ですが、たたかう団塊世代(私と同世代なのです)の著者から大いなる勇気をいただきました。ご一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1400円+税)

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2013年4月 1日

サボり上手な動物たち

生き物

著者  佐藤 克文・森阪 匡通 、 出版  岩波科学ライブラリー

野生動物たちは、適当にサボっている。しかし、よくよく考えてみれば、このやり方こそ、厳しい自然環境で生き抜いていく動物たちの本気の姿なのである。
 イルカやクジラは、野生でもかなり遊んでいる。ザトウクジラを滑り台にして遊んでいたのが目撃されている。
 ペンギンは、潜水を開始する前に、深いところまで潜るか浅く潜るかを決め、それに応じて吸い込む空気量を調節している。ペンギンは浮力を利用して水面に浮上している。
 小笠原などの静かな海ではイルカは周波数が高く、複雑で音の大きさは小さい。それに対して、海のうるさい天草では鳴き音が低くて単調で、音量は大きい。水中では、同じ温度なら、1秒間に音は1500メートルも進む。つまり、水中は音が非常に速く、効率よく伝わる環境にある。だから、水中の動物の多くは、音を使ってコミュニケーションをとる。実は、海の中は、「音の世界」なのである。
 イルカの音を調べると、イルカの「見て」いるものが分かる。
 ペンギンやアザラシにカメラを装着して、野生での実際の生活を見ることができるようになりました。超小型・軽量カメラがそれを可能にしたのです。それによって、海中の動物の生態がどんどん分かりつつあるのです。
 この本は、それを写真とともに伝えてくれます。こんな科学・技術の発達を知るのは楽しいことです。
(2013年2月刊。1500円+税)

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2013年4月30日

アメリカの国防政策

アメリカ

著者  福田 毅 、 出版  昭和堂

アメリカの国防政策の継続性を考慮するうえで避けては通れないのが、ベトナム戦争の影響である。科学技術信仰や戦争の合理化といった傾向は、ベトナム戦争にも明確に見出すことができる、ベトナム戦争後には、二度と第三世界の泥沼の内戦には関与すべきではないという風潮が強まり、米軍は戦略の焦点をソ連との大規模通常戦争へと回帰させた。この結果、技術重視や非対称戦の忌避という傾向が助長された。冷戦後に顕著となった米兵死傷者に対するアメリカの敏感さも、ベトナム戦争の影響によるところが大きい。
 アメリカ軍は、アフガニスタとイラクでは迅速な「レジーム・チェンジ」(政権変更)に成功した。しかし、政権打倒後の治安維持には失敗し、軍事における革命(RMA)の限界が露呈された。
 冷戦後のアメリカの軍事的優越は、その経済力に大きく依存している。
 兵員1人あたりにして、アメリカはヨーロッパ装備庁(EDA)参加国の5倍の金額を装備調達と研究開発に費やしている。先端軍事技術の領域で、ヨーロッパ諸国がアメリカに太刀打ちできない一因はここにある。アメリカが兵士1人あたりに投入する資金の額は、年を追うごとに増大している。
アメリカ軍の最大の特徴は、遠隔地への兵力投射能力にある。
 アメリカ軍と他の軍隊との最大の相違点は、兵力を海外に無期限に展開し、作戦を継続する能力にある。この能力の核心は、戦闘部隊の迅速な展開能力、グローバルな基地ネットワーク、大量の物資を調達し前線部隊に輸送する兵站能力があげられる。
 「招かれた帝国」という言葉が示唆するように、アメリカ軍の前方展開を望んだのは、アメリカよりも、むしろヨーロッパ諸国や日本であった。
ベトナム戦争と異なり、1991年1月に始まったイラクとの湾岸戦争(砂漠の嵐作戦)は、典型的な正規戦であり、この戦いにアメリカ軍は圧倒的な兵力を投入して勝利した。アメリカ軍内に存在していた非正規戦や限定戦争を軽視あるいは嫌悪する風潮は、湾岸戦争後に強化された。そして、兵器のハイテク化の重要性が再確認された。
 湾岸戦争の成功によって、航空作戦の可能性に対する楽観的見解が広まった。アメリカは「世界の警察官になることはできない」が、唯一の大国として世界に関与し続けるとブッシュ政権は断言した。
 クリントン政権は、ソマリアでの失敗の責任を国連に転嫁しようとした。クリントンがブッシュと異なるのは、アメリカ軍の優位を維持しつつも、国防費をさらに削減することは可能だと主張した点にある。
 ワインバーガーもパウエルと同じく、アメリカ兵の命はきわめて重視していたが、他国民の命の保護を強調することはあまりなかった。
 1993年ハイチや1994年のルワンダで軍事介入をアメリカに躊躇させたのは、1993年のソマリアの記憶であった。ボスニアの内戦でも、アメリカは地上戦への関与を避けた。
 1990年代後半になると、アメリカ軍の海外展開能力が低下しつつあるのではないかとの懸念が広まった。主として二つの要因による。第一は、同盟国や友好国がアメリカ軍への基地提供を拒むケースが増加したこと。第二に敵対的勢力がアメリカ軍の接近を拒否する能力を向上させつつあること。
 アメリカ軍の位置づけの経過を系統的にたどることのできる本です。それにしても、戦後68年たってもアメリ軍基地が国内いたるところにあって、それを不思議と思わない日本人って変ですよね。これで本当に独立国なのでしょうか。そして、右翼・保守の人々がこんな日本国を愛せと押しつけるのって、何なんでしょうか。不思議でなりませんね。この本は大変な労作だと思いました。
(2011年6月刊。3800円+税)

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