弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年4月 6日

鉄砲を手放さなかった百姓たち

日本史(江戸)

著者 武井 弘一、   出版 朝日新聞出版 
 
 江戸時代の百姓は、意外にもたくさんの鉄砲を持っていたようです。害獣退治に鉄砲は欠かせなかったのでした。そして、百姓一揆には鉄砲を使わないという不文律があったといいます。これって、日本社会の不思議ですよね。
 百姓一揆のとき、鉄砲がヒトに向けて発射された例はない。武器ではなく、音をたてる鳴物として使用された。領主の側でも鉄砲は使わなかった。百姓へ向けて発砲してしまえば、たちまち支配の正当性を失ってしまうからだ。領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。うむむ、本当でしょうか、なんだか信じられない、そんな原則ですよね。
下野(しもつけ)国壬生(みぶ)藩は軍役で鉄砲80挺を出すのが決まりだったが、藩内の村から104挺もの隠し鉄砲が摘発された。軍役規定の1.3倍も鉄砲を百姓たちが不法所持していた。このように刀狩りによって日本人は丸腰になったという考えは間違っている。実際には、村々には、なお大量の武器がそのまま残されていた。刀狩の真の狙いは、百姓の帯刀を原則として禁じて身分を明確にすることにあった。そうなんですか・・・。
 鷹を数えるときは、「羽」ではなく「居」(もと)を使う。むひゃあ、ちっとも知りませんでした。こんな単位の呼び方があったんですね・・・・。
 鉄砲改めとは、幕府が村に広まっている鉄砲そのものを登録することを言う。つまり、鉄砲所持を禁止するのではない。鉄砲改めの狙いは、盗賊人が持つような、治安の悪化にもつながるような鉄砲を没収することだった。
 島原の乱のあと200年ほどは弓も鉄砲も不要になっていたと、水戸藩主の徳川斉昭が幕末のころに書いている。幕末になると、アウトローたちは、長脇差とヤリ・鉄砲をもって徘徊していた。
人宿(ひとやど)に、まだ死人でないヒトが捨てられていた。重病人を遺棄することがあたり前になっていた社会に徳川綱吉は、ヒトもふくめた生き物すべての生命を大切にすることを教諭しようとした。これが生類憐みの令なのである。また、野犬をどうするのかが、社会的な課題となっていた時代でもあった。うむむ、そういう見方もあるのですか。
 関東の耕地面積は、(20万町20万ヘクタール)から、江戸中期に70万町まで3.5倍も飛躍的に増えた。そして、鳥獣害に百姓は悩まされていた。
 享保2年から、幕府はあらゆる鳥を独占するため、鉄砲を取り締まっている。鳥が激減していた。幕府が鉄砲改めをおこなったのは、鷹場を維持・管理するため、不足していた鳥を確保することに狙いがあった。
 日本人にとっての鉄砲の意味を考え直させる本です。
(2010年6月刊。1300円+税)

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2011年4月 5日

僧兵=祈りと暴力の力

日本史(中世)

著者 衣川 仁 、  講談社選書メチエ 
 
この本を読むと、中世のお寺というのは、そこで僧侶が静かに修行していただけというものではなく、社会的な権力体であり、ときに集団的な暴力沙汰も辞さない物騒な存在であったことが分ります。何ごとも固定観念で、とらえてはいけないものなのですね。
比叡山延暦寺など、寺院は社会的な権力体として、最大級の権力基盤をそなえていた。その勢力は、寺領荘園という経済的基盤と、俗人も含みこんだかたちで拡大していた寺僧の集団によって支えられていた。
大衆は、だいしゅと読む。寺院の勢力を担う僧侶集団をさす。ときに何千人もの規模を誇っていた。
世俗的な要素を色濃くもつ中世の寺院では、ときに熾烈な内部抗争があり、延暦寺の根本中堂でも大きな騒乱が発生したことがある。
平安時代。八世紀、千人をこえる大衆が京都へ入浴し、強訴を敢行した。このうち6百人が大般若経を、2百人が仁王教を1巻ずつ持参し、残る2百人は武装していた。
大衆が行う僉議(せんぎ)では、聴衆を魅了する弁舌をそなえたリーダーシップが必要だった。 中世の寺院の意思は、座主でも僧綱でもなく、大衆の名のもとに形成されていた。
近年、僧侶になる者は、1年に2,3百人おり、その半数以上は、「邪濫の輩」(じゃらんのともがら)である。諸国の百姓(ひゃくせい。一般の人民)が、税負担を逃れようと自ら剃髪し、勝手に法服を着ている。それが年々増加し、今では人民の3分の2が僧の姿をしている。彼らの家には妻子がいて、平気で肉を食べている。うむむ、なんとなく分かりますね。
戒牒(かいちょう。受戒したことを証明する文書)を、税逃れの根拠としている。
天皇が「現神」(あきつかみ)であることのみで権威を保ち得た時代は過ぎ去り、諸神との相互関係のうちに権威を高める新たな段階にいたった。
中世寺院は、10世紀公判以降、寺院の意思として集団的に武力を行使するようになった。中世において、仏法は、他の時代に対して、恐るべき力をもっていた。
神人(じにん)、寄人(よりうど)とは、国司への負担を免除されるかわりに寺院・神社に従属した民のこと。中世の寺院や神社は、荘園住民を神人・寄人として組織することにより、その経済基盤と支配領域を拡大していった。
神人がその宗教的脅威を利用したのは、借金の取り立てだけではなかった。彼らは、都や在地社会において、大衆の手先となって神威をふるっていた。ときに都において神人がみせた神威のもっとも先鋭的なかたちが神輿(しんよ)動座である。そして、それは大衆の強訴(ごうそ)として採用された。神輿動座をともなった強訴は、11世紀末以降、頻発した。この強訴には暴力性をともなっていた。強訴では、視覚・聴覚に訴える要素が重要であった。
こうやってみてくると、平安時代って、琴の音とともに静かな時代というイメージなんか吹っ飛んでしまいますよね。それどころか、むき出しの暴力までもが横行する、荒々しい社会だったのではないかという気がしてきます。
古い寺院も、その視点で改めてのぞんでみてみましょう。
                   (2010年11月刊。1500円+税)

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2011年4月 4日

ファー・アウト

宇宙

著者  マイケル・ベンソン、    出版  新潮社
 
 3月11日の東日本大震災のあと、いつもはテレビを見ない私ですが、さすがに「原発」の危機もあってテレビを見続けました。津波のために人と家がみるみるうちに呑み込まれていく映像は心の奥底深く突きささりました。私自身はもちろん肉体的な被害こそありませんが、すっかり精神的なダメージを受け、危うく「出社拒否」症状に陥るところでした。毎晩、気分が悪くなり、毎朝、重たい気分のまま身支度するのです。被災者の皆さんには本当に申し訳ありませんが、たとえ実害こそ体験せずとも、遠くにいても被災した気分だけはしっかり味わわされてしまいました。
 この本は、そんな地上のこせこせした状況を吹き飛ばすつもりで、このところ毎晩、眺めた宇宙の写真集です。すごいんです。ええーっ、宇宙ってこんなにも美しく輝いているのかと驚きつつ、頁をめくっていきました。
 人間が望遠鏡や写真を通じて観察し、把握しているのは、宇宙のわずか4%にすぎない。銀河系のような比較的過密状態にあるところでも、物質は1立方センチメートルあたり原子1個という密度でしか存在しない。
 これって、とんでもなく薄い状態だと思うのですが、それを過密状態と言うだなんて、いったい宇宙ってどういう構造なんでしょうか。
オリオン大星雲は1270光年の彼方にあって、肉眼でも見える。
 赤い星、青い星、さまざまな形と色をした星と星雲が地上にみちみちています。まさに、夜空は星だらけです。昼間と同じ明るさがあってもよいはずなのに、やっぱり夜は暗いのです。なぜでしょうか・・・。
 太陽と太陽系は、銀河系の中心部から2万5000光年も外側にある。宇宙の中心を自負していた人間の地位は、ここ数百年のうちに急降下してしまった。
 銀河系は、それまではるかに大きいと考えられていたアンドロメダ銀河と同じ重量級の銀河なことが最近判明した。ただし、質量が増えてもサイズは変わらなかった。アンドロメダ銀河の直径は銀河系の2倍で、銀河系にある恒星の数が2000~4000億個であるのに対して、1兆個と算定されている。
 地球は、少なくとも500万年のあいだ、時速90万キロメートルで、泡の中を移動してきた。銀河系のなかで最古の恒星が形成されたのは1365億年前らしい。つまり、ビックバンのわずか1億年後ということになる。
 ここで「1億年後」というのを「わずか」というのは、まったくもってピンとこない表現です。でも、宇宙を論じるときには、あたり前のことなんですね・・・。
 太陽系が銀河系を公転するのに要する時間は2億2500万年から2億5000万年ほど。つまり、地球は、誕生から今日まで、銀河系の中心核を20回から25回しか回っていない。太陽は、その光の恩恵にあずかる人類が誕生してから銀河系の周回軌道をまだ1250分の1周しか回っていない。
 コペルニクスに先立つ2000年前、アリスタルコスは天体観測を重ねた結果、世界の中心は地球でないと結論づけた。そして、恒星がきわめて遠くにあるとした。これってすごいですよね。裸眼でずっと夜空を見て、天体の法則をつかんだわけですからね。
恒星の一生の大半は、主成分の水素を核融合反応でヘリウムに変化させながら輝き続けることに費やされている。
 数十億年後に水素が底をつきはじめると、燃料不足で核融合に支障が生じ、星の構造は錆びついた橋のように崩れ出す。中心核は落下する質量に圧縮され、温度が6倍以上も上昇する。高温によって拡張した外層の表面温度が低下すると、赤色巨星期が始める。星全体の直径は太陽の10倍から100倍になるが、中心核は収縮をつづけ、温度も再び上昇に転じる。やがて核融合が再開されるが、今度の燃料はヘリウムだ。
キャッツアイ星雲が紹介されています。太陽の1万倍もの明るさをもっています。丸い輪がいくつも重なったような形状をしています。
 バラ星雲は、見事なまでにバラの花の形をしています。
 太陽のような星は80億年も輝き続けるが、質量が大きすぎて300万年ほどしか生きられない星が大爆発を起こすと、後に超新星残骸を残す。
 クラゲ星雲は、まさに、海に漂うクラゲのような形状をしています。銀河系のなかでもアンドロメダは広大だ。その大きさは銀河系の2倍で、直径10万光年の銀河系に対し、アンドロメダは20万光年以上に及ぶ。そして、このアンドロメダは、銀河系に近づきつつある。ふたつの銀河系は秒速100~160キロメートルで接近しているので、いずれは衝突する。ええーっ、2つの銀河が衝突するのですか・・・?でも、ご安心ください。それは、なんと25億年後のことなのです。なんとなんと気の遠くなるほど先のことでしょう。
宇宙では、こうした銀河の衝突はよくあること。しかも、銀河が衝突したからといって、そこにある恒星や惑星が互いに衝突することはほとんどない。というのも、銀河のなかは空っぽに近い状態なので、銀河の衝突とは、雲が混ざりあったり、水の流れが合流するのに近いのだ。
 銀河団の大きさは多様で、直径が600万から3000万光年のあいだ、擁する銀河の数は50から数万、数十万におよぶ。
 銀河団は、重力結合という見えない接着剤の力でまとまっているが、それぞれの銀河は超高速なので、ダークマターがなければ、とても一緒にとどまってはいられない。
 夜空は星でいっぱい。昼間のように明るくなくても、どこもかしこも大小強弱さまざまな光にみちあふれているはずの夜空が暗いなんて、なんだか不思議な気にさせてくれる本でもあります。
 星を眺めて、しばし地上の憂き世を忘れたいものです。それにしても、東京電力は許せませんね。おっと、つい地上のことを思い出して、怒りに震えてしまいました。高価な本ですが、それだけの価値はある写真集です。
(2010年11月刊。6000円+税)
金曜日に、事務所内で恒例の花見をしました。依頼者の方々と弁護士・職員をまじえての楽しい会合です。東日本大震災があって自粛ムードが漂っているなかで、どうしようかとも考えましたが決行しました。恐らく参加者は例年より少ないだろうと心配していましたが、予想に反して、例年以上の集まり、しかも、たくさんの手づくり料理を持ち込んでいただいて、テーブルの上に乗りきれないほどでした。
来賓として地方選挙の候補者に挨拶してもらったのですが、福島原発の深刻な事態を受けて、日本の今後のエネルギー政策をどうするかが地方選挙であっても重大な争点にすべきだという指摘があって、なるほど、と思いました。「オール電化」「クリーン原発」の怖さが身にしみましたから、みんなで考えなおすときですよね。

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2011年4月 3日

クジラ・イルカ生態写真図鑑

生き物

著者  水口 博也、    出版 講談社ブルーバックス
 
 クジラとイルカの楽しい生態写真集です。天草のイルカ・ウォッチングにはまだ行っていませんので、この写真集を見て、ぜひ近いうちに行ってみたいと思いました。
 哺乳類のクジラは陸上生活から海に生活場所を戻した。海で暮らすようになって、クジラは早い時期に後肢が退化し、前肢は胸びれに形を変えた。体全体が流線形になり、最後部に水を蹴って泳ぐための力強い尾びれを発達させた。
 クジラは浅海だけではなく、中心層(水深200~1000メートル)にいるエサを求めて潜る。マッコウクジラは1時間近くも潜れる。
 クジラは血液中だけでなく、全身の筋肉にふくまれるタンパク質ミオグロビンにたっぷり酸素をためられるので、こんな長時間の潜水が可能になった。
 水中は空気に比べて、はるかに音をよく伝える。そして、水中は視界が悪い。そのため、クジラは多彩な鳴音を利用してコミュニケーションをとる。それで聴覚を発達させた。
 ザトウクジラは海面に尾びれを出すので、それで個体を識別する。クジラの観察も科学的になされているのですね。
 そして、クジラやイルカは遊ぶ動物である。イルカはサーフィンを楽しむ行動を見せる。波乗りをして遊んでいる。
 クジラとも遊ぶし、人間とも遊ぶ。自分の吐き出す息で白い泡の渦を楽しんだり、なかなかに芸術家である。海中で泡を吐き出してオキアミを集めるクジラもいる。
 人間だけが遊ぶことを楽しむ動物ではないこともよく分かる写真集・図鑑でもあります。
(2010年12月刊。1280円+税)

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2011年4月 2日

認知症と長寿社会

人間

著者 信濃毎日新聞取材班、  出版  講談社現代新書
 
 世界で類のない速さで、日本の高齢化は進んでいる。65歳以上の高齢者は2872万人、人口の22.8%。この10年間で750万人、6.1ポイントも増えた。私たち団塊世代もやがて、その仲間に入ります。そのなかで静かに増えているのが認知症。200万人の患者がいる。いずれ、日本人の3人に1人は高齢者で、その9人に1人が認知症だという。
最近、政変というか革命の起きたエジプトでは25歳以下の人が全人口の過半数を占めるということです。恐らく、人々は長生きできないということなのでしょうね。なぜ、なのでしょうか・・・・?
 養護老人ホームが「特養化」している。2000年に介護保険制度が導入されて、様相が一変した。特養への入所が、行政の介入する「措置」から、施設と個人の「契約」が基本となったので、入所希望が急増した。特養は満杯になって、移れなくなった。
 厚生省(当時)は1999年、省令で、介護施設での身体拘束は「緊急やむを得ぬ場合」を除いて、原則禁止とした。ところが精神保健福祉法は、精神病床での必要な場合の拘束や隔離を認めている。法的にも拘束の認められた精神病床は、今、症状の激しい認知症患者の受け皿になりつつある。
 アメリカでは、65歳以上の12%、85歳以上の半数が認知症で、このうち80%がアルツハイマー病とされている。アメリカのアルツハイマー病患者は53万人で、死亡原因の
7位。2000年から2006年までに死者は46%も増加した。
 認知症ほど、さみしい病気はない。人買うも顔つきも変わってしまう。
認知症を社会全体で考えようという地方紙の77回にわたった連載ルポルタージュです。とても考えられた力作でした。癌より認知症の方が怖いのかもしれませんね・・・・。
(2010年11月刊。760円+税)

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2011年4月 1日

「偽りの二大政党」

社会

著者  中西 輝政・篠原 文也、    出版 PHP研究所
 
 保守派の論客として名高い著者の対談集です。賛同できないところも多々あるのですが、そのとおりだと思うところも多いので、以下、あくまでも我田引水で紹介します。
 みんなの党の躍進も、「平成政治の大崩落」と呼ぶ“改革”現象の一つ。
マスコミの責任は大きい。国民全体がメディアに踊らされている。マスコミに踊らされて、有権者がフラストレーションの「はけ口」を探し求め、政権運営能力がない政党に分不相応な力を与えることで政党政治の基本構造を動揺させ、ついには日本の屋台骨まで崩落させてしまう。
 消費税10%にしても、民主党と自民党の両方が同じ主張をしている。年金、社会福祉政策についても、この両党はカレーライスとライスカレー程度の差しかない。
 民主党と自民党に本質的な違いしかなく、かつての自民党内の派閥の違い程度の「相違」しかないことは、昔も今も明白です。ところが、マスコミは両党を別のことを主張している政党かのような無理を押し通しています。カレーライスとライスカレーに違いなんてないのですからね。マスコミもごまかしてはいけません。
 小沢一郎の選挙手法は、どこまでも昔の自民党のやり方だ。上半身では民主党を装いながら、下半身では古い自民党のDNAを引き継いでいる。
 小選挙区制は、空気に流させやすい日本人には向かない選挙制度だ。もし政治の安定を望むのなら、小選挙区制をやめる勇気をもつべきだ。
国民のフラストレーションは議会政治の否定という議論が出てくるまでにたまっている。国会に雑多な勢力があるのは、現実の日本社会を反映した、政治にとって自然なこと。中選挙区制時代のほうが、民意が忠実に反映されて、国民の選挙結果に対する満足度も高かった。人々は、社会勢力が政治の議席数に忠実に反映されているとき、日本の民主主義が機能していると感じる。
 政治交代からわずか1年あまりで、これほど「無能」「偽善」「腐敗」をワンセットで披瀝したような党は、とうてい政権の主体になりえない。
 民主党は、いまだに政党ではなく、「選挙互助会」にすぎない。普天間飛行場の問題であれほど迷走したのも、党内に非武装中立派から、憲法改正派、そのなかには核武装派まで抱えて政策の収拾が難しかったからだ。民主党は政党の体をなしていない。民主党は選挙への執着が党員を結びつける「唯一の紐帯」になっている。
 なぜ民主党に網領がないのか。それは、政治理念や基本政策について詰めた議論をすると、党がまとまらないからだ。
 有権者のメディアでの信頼度は7割あるが、情報の信頼性は新聞が優る。ただ、影響を受けるのは、逆にテレビの影響が大きい。面白さではテレビに負けても、思考を促す奥行きの深さということになると、テレビは新聞にかなわない。
 テレビだけ見ていても、いわば洗脳されているようなもので、世の中の真相は分からないですよね。とくに福島原発事故の報道はひどいものです。テレビを見てても、さっぱり事態の真相は分かりませんよね。
 小選挙区制をやめ、みんな比例代表制にしてしまったら、日本の国会ももう少しまともに議論するようになると私は思いますし、期待しています。
 今回の東日本大震災によって民主党政権は自民党を取り込もうと必死です。似た者同士し、もともと派閥ほどの違いしかありませんので、「大連立」はありうるのでしょうね。それにしても、少数政党の言論もきちんと保障してほしいものです。国民のなかに「雑多な」意見が現にあるのですから、二大政党制は根本的におかしいと思います。
(2011年1月刊。1500円+税)

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2011年4月30日

パタゴニアを行く

世界

著者   野村 哲也、 出版   中公新書
 
 パタゴニアとは南アメリカ大陸の最南端にある地方です。
 自然の豊かな写真に魅了されますが、住んでいるのはほとんど白人。つまり、先住民は絶滅させられたわけです。虐殺だけでなく、白人が持ち込んだ病気に抵抗力がなかったようです。
背の高い(男性180センチ、女性170センチ)先住民は、巨人伝説を生み出しました。混血によって美人も多いようです。
 それにしても豊かな海産物、そして果物も豊富です。
富士山によく似た山もあります。
 お城の山と呼ばれる山は面白い変わった峰を抱いています。
 海に出ると、クジラ・ウォッチングも出来ます。クジラたちが潮吹きをすると、卵をたくさん食べたあとのオナラの匂いを立てることを知りました。たまらない臭さのようです。
 ペンギンもあちこちいます。ペンギンはリーダーのいない動物。誰が偉いという感覚がない。みんな平等に泳ぎまわる。
 夜になると、満天の星空が手にとれるような近さで迫ってきます。
 15年間にわたって世界中を旅した著者が一番気に入っているというパタゴニアの素晴らしさがよく伝わってくる写真集です。
(2011年1月刊。940円+税)

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2011年4月29日

日本のロマネ・コンティはなぜ「まずい」のか

ヨーロッパ

著者   渡辺 順子、 出版   幻冬舎ルネッサンス新書
 
 去年夏にフランスはブルゴーニュ地方へ出かけ、ロマネ・コンティのブドウ畑を見学してきましたので読んだ本です。
 ワインはボトルの大きさに比例して価値も価格も上がっていく。なぜなら、ボトルが大きければ大きいほど、ワインはゆっくり、かつじっくりと熟成し、生命が長くなるからだ。しかも、生産者は、品質のある年にしか大きいボトルを造らない。だから、通常のボトルに比べて味も格別である。ワインの大きいボトルは、希少価値も高いためオークションに出ると、ワインコレクターは競って手に入れたがる。
 ロマネ・コンティを飲むなら、ワインを愛する人たちと喜びを分かちあいながら、最高のシチュエーションで飲みたいもの。どうせ高いだけで、そんなにうまくはないだろうという気持ちで飲むのとでは、当然のことながら味わいもちがってくる。飲む側がワインに敬意を持ち、万全の態勢でのぞんではじめて、その本当の魅力を見せてくれる。
これは、まさしくそのとおりだと私も思います。ロマネ・コンティこそ飲んだことはありません。(ぜひ一度は飲んでみたいと思っています)が、やはり、レストランでこのワインは造り手がこんな人で、いつもの年よりこんなに味わい深いですよという講釈(能書き)を聞いていると、そうか、そんなに美味しいワインなのか、ありがたくいただこうという気になり、いつも以上に美味しくいただけるのです。食べ物も飲み物も、やっぱり雰囲気と、見た目が大切です。
 ロマネ・コンティは1年に6000本しか生産されない。12本入りの箱だと、わずか500ケースでしかない。だから、初めの卸価格が20万円ほどだとしても、流通階段で何倍も値上がりしていく。日本ではネットで買うと1本100万円というのですから、驚きです。
 ところで、ロマネ・コンティはラベルがシンプルで偽造しやすく、高価で売れるため、もっともフェイク(にせもの)がつくられている銘柄である。
 うひゃあ、ロマネ・コンティと思って飲んだら、そうじゃなかったということもあるのですね。そしたら、それを飲んだら当然、まずいと不満を言う人も出てくるでしょうね。
 ワインのオークションに参加できない人が事前に入札するのをアブセンティという。オークションでの売れ行きは、写真の出来ばえに大きく左右される。年代もののワインなら、できるだけホコリを積もらせたまま撮影し、古さが際立つようにするなど、万全の注意を払う。
 プレミアムワインとは、ロマネ・コンティのような高いワインのこと。それに対して、カルトワインとは、主としてアメリカはカリフォルニアのナパ・ヴァレーつくられている高品質かつ高付加価値のワインのこと。カルトワインなるものがあることを私は初めて知りました。
 カリフォルニア・ワインもフランスに負けないような高品質のワインを輩出しているようです。まあ、しかし、なんといっても、ワインは、かの地フランスで、ゆっくり休暇をとって、仕事に追われない日々のなかで味わうのが一番です。日本で、仕事のあいまに、あくせくしながら飲むものではありませんよね。
 それはともかく、日本女性がこの分野でも活躍していることを知って、その姿には頭が下がります。
(2011年2月刊。838円+税)

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2011年4月28日

花ならば花咲かん

日本史(江戸)

著者    中村 彰彦 、 出版   PHP研究者
 
 福島はフクシマとして世界的に有名になってしまいました。全部うれしいことではありませんが、この本を読むと会津藩の人々ってたいしたものだと感嘆させられます。
今は原発事故でまき散らされた放射能の被害で大変なわけですが、いずれフェニックス(不死鳥)のように、よみがえってくれることを大いに期待しています。それにしても、東京電力と原子力安全・保安院の杜撰さは絶対に許せません。「絶対安全」だなんて大嘘をよくもついていたものです。日本社会を目茶苦茶にしたのですから、取締役以上の責任者は懲戒解雇にすべきでしょう。退職金なんて支給したら許しませんよ。
会津清酒、会津人参、会津漆器、本郷焼といった地場産業の改良と振興が、すべて田中三郎兵衛という会津藩大老の発想から生まれたというのは珍しい例である。江戸時代中期、天明の大飢饉などに苦しみながらも会津藩を立て直し復興させていった、奉行、家老そして大老となる田中三郎兵衛玄宰(はるなか)の一生を見事に描き切った小説です。さすがは作家です。私は2日間、ずっとずっとこの本にかかりっきりで読みふけってしまいました。おかげで頭の中は、すっかり江戸模様、それも会津藩仕様になっていました。
会津藩家老、大老職にあること26年、寛政の改革を指導し、最大57万両に達していた借入金のうち50万両以上の返済に成功し、あまたの地場産業を興し、藩士の子孫教育のための日新館を軌道に乗せた。そして田中玄宰に対しては明治以降も各界で顕彰していった。うひゃあーっ、これってすごいことですよね。
明治31年、全国漆器・漆生産府県連合進会は賞状を授与した。
明治41年、東京帝国大学の山川健次郎総長はエッセイのなかで次のように書いた。
「玄宰は大胆で果断に富み、勇気あふれて、しかも一方にはきわめて細心、かつ用意周到であった。私は偉大な人物と言うをはばからない。会津の今日あるもまったくこの人のためで、もしこの人がなかったならば、会津はどうなっていたか分からない」
 大正4年、大正天皇は即位の大典のとき、玄宰を征五従に叙した。
 会津の酒造業者は、会津清酒のうちの最高品質の大吟醸酒を「玄宰」と命名した。そして、いま、会津若松市では「NPO法人はるなか」が活発に活動している。
 そのような人物を、その出生から死に至るまで、実に生き生きと描き出す作家の筆力に感嘆しながら、至福のひとときを過ごすことができました。私と同世代の著者ですが、これまでも『天保暴れ奉行』、『名君の碑』、『知恵伊豆に聞け』、『われに千里の思いあり』などを読み、感嘆・驚嘆してきましたが、また、ここに一つ増えました。
(2011年3月刊。1900円+税)

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2011年4月27日

サイゴン・ハートブレーク・ホテル

アジア

著者   平敷  安常、 出版   講談社
 
 私の学生時代はアメリカによるベトナム侵略戦争反対を叫ぶ日々でもありました。同世代のアメリカの若者が、あのブッシュ(息子)もクリントンも徴兵の対象となりましたが、二人ともベトナムには行かずにすませました。しかし、ベトナムの人々は逃げようがなく、戦わざるをえませんでした。だから、大変な犠牲者を出しています。私は今でも、ベトナム戦争はアメリカの帝国主義という誤った政策のために起こされた無用な侵略戦争だったと考えています。このベトナム侵略戦争でトクしたのはアメリカの軍需産業と、それに結びついた支配層だけだったのではないでしょうか。
 ベトナム侵略戦争の実態を報道するため、たくさんの日本人記者がベトナムに渡り、果敢に取材活動をして、多くの有能な記者が生命を落としました。著者は、同僚として、それらの亡くなった記者をふくめて、当時を思い起こし、現在を記しています。
 PTSDの治療法は難しい。薬や手術ではなかなか治せない病で、家族や仲間と協力して精神治療を受ける。過去の思い出や忌まわしい記憶の世界に一人で閉じ籠もってはいけない。その悲しい、苦しい、心を痛めている記憶を皆で分けあうことも治療法の一つだ。自分が経験した戦争を克明に回想し、記録していくことで、ベトナム戦争症候群を治していく。なーるほど、そうなんですね。
 男は一生のうちで三つのことを成し遂げなければならない。一本の木を植え、一軒の家を建て、一冊の本を書け。たくさんの本を書いてきた私ですが、実は、まだ一冊の本を書いたという達成感はありません。でも、目下、それに挑戦中です。
 ベトナムにいる日本人記者の優れた報道姿勢やその能力は、アメリカやヨーロッパから来た記者たちから一目置かれていた。質の点で高いと言われていた。
1975年4月29日。サイゴン陥落の前日、サイゴンにあるビルの狭い屋上にアメリカ軍のヘリコプターが着き、非常階段を上り詰めた多くの人々が救助される有名な写真がある。これはアメリカ大使館の屋上から脱出するシーンという説明だったが、実は大使館ではなく、CIAのスタッフや家族の住む宿舎となっている建物だった。一度流れたクレジットの訂正は容易なことではない。
 ベトナム戦争がベトナム人民にとってアメリカによる侵略戦争であったからには、国を愛する人々がスパイになるのも当然のことです。アメリカ軍とその同盟軍としてのベトナム軍に多くのスパイが存在し、活動していました。解放区の村の賢い子どもが送り込まれて南ベトナム空軍のパイロットになり、ついには大統領官邸に爆弾を落としたという実話も紹介されています。そして、日本人記者に協力していた人のなかにもスパイが何人もいたようです。
ベトナム戦争の現実を知るため、私も、学生のころ必死で新聞を読み、本にあたりました。そのころ読んだベトナム関係の本は今も全部手元に残していますが、段ボール箱には収まらないほどです。
そのころ現役で活動した記者だったみなさんが引退しつつあるなかで、貴重な記録となっている本です。
(2010年12月刊。2600円+税)

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2011年4月26日

沖縄決戦

日本史

著者  新里 堅進    、 出版  クリエイティブマノ   
 
 丸ごと戦場となった沖縄の凄惨な地上戦のイメージがひしひしと伝わってくる劇画です。本土防衛の捨て石とされた沖縄地上戦の顛末の全体像が迫真の画で明らかにされています。現実は、もっと悲惨だったのでしょうが、ここに描かれた絵だけでも、もう十分ですと悲鳴をあげたくなります。
平和な島、日本軍に絶対の信頼を置いていた沖縄の人々が、ある日突然、アメリカ空軍の大規模な空襲にあい、逃げまどいます。そして、アメリカ軍の上陸作戦の前には、とてつもない数の軍艦による艦砲射撃によって地上の市街地は壊滅させられてしまいます。やがて、上陸したアメリカ軍と地下に潜んでいた日本軍との死闘が始まります。
前に紹介しました『シュガーローフの戦い』(光人社)の凄まじい戦闘状況も描かれています。戦史をなるべく忠実に再現しようとした著者の努力によって、沖縄地上戦のすさまじさを十二分に実感できます。それにしても、軍隊とは何を守るものなのかを改めて考えさせられます。
何の武器も持たない住民が逃げまどうなか、それを楯にして軍隊が移動していきます。そして、逃げこめる洞窟が一つしかないとき、軍隊は情容赦もなく、先に入った住民を追い出してしまうのです。
「おまえらを守るために戦っているのだから、出て行け」というのです。おかしな理屈ですが、銃剣とともに迫られたら住民は従うほかありません。
また、沖縄方言で話していると、アメリカ軍のスパイだと疑われて銃殺されたり、アメリカ軍に投降しようとすると裏切りものとして背後から射殺されたり、日本軍の暴虐非道ぶりは目に余るものがあります。
そして、抵抗なく上陸し、すっかり安心して進軍していたアメリカ兵も、内陸部にさしかかったとき日本軍の頑強な抵抗を受けると、たちまち総崩れし、兵士たちのなかに発狂する者が続出するのでした。
姫百合部隊の活躍の場面も紹介されています。大きな地下の穴蔵生活のなかで、どんなにか苦しく、つらい生活だったことでしょう。もっともっと長生きして、人生を楽しみたかったことでしょう。青春まっただなかだった彼女らのつらい日々も偲ばれます。
日頃はマンガ本から遠ざかっている私ですが、心揺さぶられるマンガ本でした。一読を強くおすすめします。ノーモア沖縄、ノーモア戦争を改めて叫びたくなりました。
(2004年1月刊。2136円+税)

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2011年4月25日

最新脳科学でわかった五感の驚異

著者   ローレンス・D・ローゼンブラム 、 出版  講談社
 
 びっくりすることがたくさん。脳は大人になったら死滅するだけ。そんな常識が次々にひっくり返されています。
脳は経験によって、その仕組みや構成が変わりうる。かつては特定の知覚能力だけを司ると考えられていた脳の領域が、異なる知覚機能をその感覚内でも別の感覚にまたがっても割り当て直す潜在能力があることが分かった。
ということは、私のように還暦を過ぎても、まだ脳は可塑性があるということです。逆に、いくら若くても、あきらめていたら、脳は固定してしまって、役に立たないものになる危険もあるということではないでしょうか・・・。飽くなき知的好奇心こそ人間の、人間たる所以なのですよね。
 盲目の男性がマウンテンバイクで山中をツーリングしているというのです。うひゃあ、と思いました。そして、信号音つき野球ボールをつかって、攻守ともに正確にプレーする盲目のチームがたくさんあります。もちろん、選手は皆、目が見えないか、目隠しを着用しているのです。選手は、音のおかげで一瞬先を聞きとっています。
足音を聞くだけで、その人の性格が分かる。ええーっ、そうなんですか。気をつけましょう。
 犬は1秒間に6回の早さでにおいを嗅ぐ。人間は1秒にひと嗅ぎする。人間は2つの鼻の穴を通ってくるにおいを比べることで、においの所在を確認している。なーるほど。
 たとえば、不動産業者は家の展示会をしているとき、クッキーを焼いて、家のぬくもり感や居心地の良さを演出する。なるほど、なるほど、よく分かります。
 アリは、ほかのアリが脅かされているにおいを感じると、たちまちちりぢりになる。ハツカネズミは、自分が食べられそうになった場所に不安のにおいを残すことで、天敵の居場所を知らせあっている。ふむふむ、そういうことをしているのですね。
 魅力的な顔は、左右の釣り合いがとれている。魅力的であり続けるコツは、学び続けること。好奇心を失わず、なんでも学ぶこと。学ぼうというその意気込みが、人を輝かせる。それが美しさだ。
妊娠の可能期間中の女性は左右のバランスのとれた男性のにおいを好む。男性は、妊娠可能期の女性の体臭を好む。うひゃあ、そうなんですか。
左右のバランスがあまり良くない動物は、正常よりも発育速度が鈍く、寿命は短い。そして、繁殖力も弱い。左右のバランスが悪いと、遺伝子的にも、肉体的、精神的にも劣り、認知能力や知能指数も低いことが予想される。むむむ、そうなんですか・・・。
 食べ物や飲み物の品質についての予想が、そのおいしさの度合いを左右する。質の良いワインだと思って飲んでいるときのほうが安物だといわれて同じワインを飲んでいるときよりも、快感に関わる脳の領域がはるかに活性化する。上等のワインを飲んでいると思うことで、そのワインの実際の質にかかわらず、この快感領域の活動を高めることがある。脳の快感領域に関する限り、私たちは払った(つもりの)額にみあったものを実際、確実に得ている。ソムリエがひと口飲んだとき脳にまず見られるのは、味覚と嗅覚の情報が集まる領域の活性化だ。ソムリエは、ワインの味と香りを表現するための概念理解力と言語能力が豊かに発達している。なにかを味わうことは、におい、感触、見た目、そして音に至るまでの無数の影響による、味は予想や知識にも左右される。
 低い声のほうが高い声よりも分かりやすい。女性や子どもより、男性の声のほうが理解しやすい。手で触ると、顔の表情もほぼ正確に認識できる。
 知覚のなかで、これほど多くの情報がこれほど素早く伝わるのは、人の顔をおいてほかにはない。顔を見れば、その人の素性、性別、感情状態、意図、遺伝的健全さ、生殖能力、そして言葉によるメッセージすら、たちまち分かる。
 顔は、ある特殊な方法で知覚され、そのために特殊な戦略と脳の仕組みが使われている。70歳になるころには、その人の顔写真を見るだけで、その人がどんな感情を招いて生きてきたのか、知らない人でも読みとれる。この年齢になるころには、顔は、ある感情をほかの感情よりもうまく伝えられるようになっている。理由は簡単、実践を積んできたからだ。顔の皮膚の下は、50種類あまりの異なる筋肉の集まりで出来ていて、そうした筋肉が身体中でもっとも複雑な配列で関連しあっている。しかも、筋肉のつねで、鍛えれば鍛えるほど、よく動くようになる。つまり、ほほえむ回数が多い人ほど、顔で喜びを表しやすくなる。これは年齢(とし)をとるにしたがって、とくにあてはまる。人柄と表情癖が顔をつくっていく。たしかに、そうだと、私も思います。
人の印象は顔を10分の1秒も見ただけで決まる。そして、人は、自分の顔の特徴に似たところのある人をパートナーに選ぶ。これは、教養、食べ物、環境、性格がその二人のあいだで似かよっているからだ。
  人間の五感のすばらしさを改めて感じました
(2011年2月刊。3150円+税)

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2011年4月24日

ラッコ

生き物

著者   久保 敬親 、 出版   新日本出版社
 
 野生のラッコの可愛いらしい写真が満載の写真絵本です。
 ラッコって、もともとの日本では見ることができなかった動物なんですね。昔からいるものとばかり思っていました。ところが、最近になって、北海道東部の海岸近くに現れるようになったのです。
岸辺に近い海でプカプカと気持ちよさそうに2頭のラッコが仲良く浮かんでいます。つぶらな黒い瞳が魅力的です。そして小さな身体を柔軟に丸めてしまいます。鼻はぺしゃんこの三角形です。
 コンブの海で、あおむけになって寝っころがります。ラッコの足(後ろ足)は、ひれ状になっていて、泳ぐのに最適の形をしている。そして前足は肉が厚くて、爪の出し入れが自由に出来るので、食べ物を持ったり、岩に登ったりもできる。
 ラッコの下毛(したげ)は、密にはえていて、あいだに空気の層をつくっていて体温を保つことができる。
 ラッコの大好物はウニ。カニもホタテも大好き。ええーっ、それじゃあ人間の食べ物をとってしまうんじゃない。ラッコの敵は人間かも・・・。そう思いました。実際、しなやかで、質のよい毛皮を持つラッコは人間からどんどん殺され、絶滅が心配されていたほどです。
海辺に浮かぶラッコを現地で見たくなる楽しい写真絵本です。
 この本の著者は、たくさんの写真集を発刊していて、実は我が家に何冊もあるのでした。『エゾヒグマ』(山とう渓谷社)、『大雪山の動物たち』『キタキツネとの出会い』『シマリスの四季』(以上、新日本出版社)です。どれも、動物たちの、大自然のなかで伸び伸び、そして生き生きと躍動感あふれる素晴らしい写真です。見るだけで心あたたまる写真を、いつも本当にありがとうございます。
(2010年6月刊。1500円+税)

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2011年4月23日

逆渡り

日本史

著者   長谷川 卓 、 出版   毎日新聞社
 
 ときは戦国の世。ところは、上杉憲政と対峙する甲斐の武田晴信軍のぶつかるあたり。
 主人公は四三(しそう)衆の一員。四三衆とは、5、6年おきに山を渡る渡りの民のこと。四三とは北斗の七ツ星のこと。この星を目印として渡ることから、自らを四三衆と名乗っていた。四三衆の山の者の役割は、戦うことではない。傷兵らの傷の手当と救出、重臣に限定されるが、戦場からの遺体の搬出。山の者は薬草などに詳しく、里者よりも金創の治療に長けているからだ。
多くの場合、武将が山の者を駆り出すのは輸送のため。山の者に支払われる金の粒や砂金は、蓄えとして貴重であるうえ、塩や米にも換えやすい。四三衆は、断る理由がない限り、仕事を受けた。
 戦場で手傷を負った者を見つけたときは、傷口を縫うが、薬草(蓬の葉)を貼り、布でしばる。だが、縫うか薬草で間に合う程度の傷の者は少なく、ほとんどの者は少なく、ほとんどの者は見殺しにするか、せいぜい縛って血止めをするのが関の山だった。
 逆渡(さかわた)り。生きるために渡るのに対し、仲間との再会を期さず、死に向かって一人で渡ることを、山の者は逆渡りと言った。
 四三衆では、60を迎えた者の次の渡りに加えず、隠れ里に留め置く。いわば、捨てられるのだ。
 うひゃあー・・・。60歳になったら山のなかに一人置いてけぼりになるのですか・・・。いやはや、まだ、60歳なんて、死ぬる年齢ではありませんよね。早すぎる棄老です。許せません。
 山の民の壮絶な生きざまが活写されています。作者の想像力のすごさには脱帽します。
(2011年2月刊。1500円+税)

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2011年4月22日

国家対巨大銀行

アメリカ

著者  サイモン・ジョンソン、ジェームズ・クワック、 出版  ダイヤモンド社
 
 アメリカ人は寡頭制などというものは、よその国で起きることだと考えたがる。アメリカの政治は世界でもっとも進んでいるかもしれない。だが、寡頭制のほうも、もっとも巧妙である。
 1998年にアメリカの金融業界でもっともホットだったのは、デリバティブ取引である。トレーダーとセールスマンは、顧客の「身ぐるみを剥がした」ことを自慢しあっていた。この連中がやっていたのは、顧客には理解できない複雑な商品を仕組んで売ること。それが少しも顧客のためにならなくても、ウォール街の大手銀行は誘惑に勝てなかった。首尾よく規制が回避されると、金融業界は利ざやを確保するためにますます複雑なデリバティブを発明していった。
巨大で強力な銀行は、一段と巨大で強力になって危機からよみがえった。アメリカの巨大銀行は巨大化する一方だ。1983年に全米最大手だったシティバンクの総資産は
1140億ドルで、アメリカのGDPの3.2%に相当した。2007年には、このシティバンクの対GDP比を銀行9行が上回っている。2009年には、バンカメの総資産はGDPの16.4%、JPモルガン・チェースは14.7%、シティグループは12.9%に達していた。
2008年の潤汰で生き残った大銀行は、以前にも増して強大になっている。バンカメは、2009年9月に2兆3000億ドルの資産規模になった。2009年6月の時点で、アメリカの銀行によるデリバティブ契約の95%をわずか5行で扱っている。2009年上半期にゴールドマン・サックスは、給与として114億ドル一人あたり75万ドルを準備した。大変な超高給とりたちです。
韓国の危機は、1990年代に起きた新興市場危機の典型だと言える。有力者とコネをもつ大企業が低利の借り入れで急速に勢力を拡大した。資本主義経済で企業の無責任な行動を防ぐはずの力は働かず、株主は強い発言権をもつ創業者に対しては、ほとんど無力だった。貸し手は、主要財閥の重要性から考えて政府が破綻を容認するはずがないとの前提で、無節操に貸した。民間部内と政府は癒着しており、財閥に恐れるものは何もなかった。
 クリントン政権でもブッシュ政権でも、ウォール街からたくさんの大物が政府の主要ポストに就いている。多くのゴールドマンOBが財務省の顧問をつとめた。ウォール街とワシントンの間にある回転ドアは、金融業界の大物を政府の主要ポストに就ける役割を果たしただけではない。大物銀行経営者と政府高官の間に個人的なつながりができ、その太いパイプを通じてウォール街の価値観を政治の場に吹き込むことが可能になった。
 国内で最も有力な投資銀行の元共同会長が財務長官に就任したという事実自体が政権はウォール街に友好的だというシグナルを発信していた。
この20年間というもの、ウォール街の友人仲間は、日の当たるところで堂々と行動することができた。なぜなら、ウォール街の価値観が、ワシントンで、ニューヨークで、そしてヨーロッパの主要都市でも、政治エリートから熱狂的な支持を得ていたからだ。
過去20年間で、一般市民の目から見ても金融は変わった。あまり信用されない退屈な職業から、現代アメリカ経済を支える輝かしい主役へと変身した。
一流大学や業界紙やシンクタンクや政治の中枢では、金融業界はアメリカン・ドリームに残された最後の希望の星だった。一生懸命に働き、万人を豊かにするような新しい商品を開発し、そして自分も大金持ちになる、そんな夢だ。
アメリカ連邦政府は、サブプライムローンを規制しなかったばかりか、先頭に立って旗振りをした。2000年代には、頭のいい大学生が大金を稼げると現実的に期待できるのは、投資銀行かヘッジファンドに就職することだった。
住宅バブルの崩壊によって、2008年8月までに110万の雇用失われた。その後の1年で、さらに580万人が職を失い、経済成長率はマイナス4%にまで落ち込んだ。失業率は2009年10月に10.2%となった。本来の労働力人口の6人に1人が失業している。
正しい解決策ははっきりしている。大きくてつぶされないような金融機関をつくらないこと、既にできているものは分割することだ。メガバンクの解体・分割なしに健全な経済運営は不可能なのだ。
日本でも巨大銀行の横暴さには目にあまるものがあります。なんでもアメリカ礼賛、アメリカの悪いところまで真似するようでは困ります。町にある身近な信用金庫やJAが成り立つような金融行政であってほしいものです。
(2011年1月刊。1800円+税)

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2011年4月21日

ヘルファイヤー・クラブ

ヨーロッパ

著者   イーヴリン・ロード、 出版   東洋書林
 
 ヘルファイヤー・クラブとは、地獄(ヘル)の業火(ファイアー)という意味です。18世紀のイギリス社会にいくつもあった秘密クラブです。
 ヘルファイヤー・クラブには三つの構成要素があった。すべてのクラブは社会や教会が教える道徳や倫理を否定し、社会に対して集団的に破壊活動をおこなった。彼らは深夜、面白半分に罪のない通行人を襲った。第二に宗教に対する嘲笑的態度であり、第三に、セックスに眈溺した。会員は常に男性であり、若くて有閑階級の出身者だった。
 ロンドンの人口は、1700年に57万5千人(イギリスの総人口の7%)、1750年には67万5千人(同11%)。毎年7千人もの人々がロンドンに流入していた。
ヘルファイヤー・クラブは、宗教に対してますます懐疑的になっていった社会を如実に示すものであった。クラブ会員の多くは、ヨーロッパのグランド・ツアーに行ったことがあった。グランド・ツアーはヨーロッパの宮廷、飾り棚、珍品、結婚式、宴会、葬儀などをできるだけ見ようとするもの。グランド・ツアーは、送り出す一家にとってお金のかかるものだった。たいていの家が望んだのは、教育の仕上げであり、洗練と経験を得させしめることだった。多くの旅先が、ローマ・カトリックの国々という危険があった。ローマ法王に謁見することが普通だったが、カトリック教徒なら法王の履物に接吻しなければいけないところ、お辞儀をするだけで良かった。
 イギリス人は、イタリアでは夫も妻も浮気をすることにひどく驚いた。上流階級では、夫も妻も、愛人をつくっても表向きはプラトニックな関係だとしておけば許されることになっていた。そりゃあ、驚きますよね。でも、これはフランスでも同じでしたよね。
18世紀のイギリスでは、セックスはペンで生計を立てようとする作家やジャーナリストにとって格好の話題であり、性的に露骨な本がますます多く出版されるようになった。
女性は父権制社会がつくった規制によって現状にとめおかれ、その枠組みから外れることは許されなかった。男性は愛人を囲い、売春宿で快楽をむさぼることに呵責を感じなかった。性的に露骨な本を購入できたのは、それらを書斎やクラブに隠しもっていられるきわめて裕福な人々だけだった。「わいせつ本」は、ヘルファイヤー・クラブの会員のように、国会に議席を有しており、国法を制定したり、執行したりする権威ある人々、すなわち上流階級の人々の特権だった。
イギリスの都市における売春は頭痛の種で、街頭で誰の目にもつくものだった。
イギリスでは1837年に住民登録が確立させると、人生の大事な出生、結婚、死亡は、もはや教会の専売事項ではなくなった。
1840年代には国の調査委員会による国勢調査や労働者階級の状況についての調査が繰り返し実施された。これによって労働者の生活はいい方向に変わった。
18世紀のイギリス社会が分析されている本です。宗教のもつマイナス面が指摘されています。先日、アメリカのキリスト教会の牧師がコーランを焼き捨て、それに怒ったイスラム教徒の人々が国連機関を襲撃するという事件が発生しました。この牧師(神父でしたか・・・?)は博愛精神を身につけていないわけですが、アメリカ社会がそんな人を事実上容認しているというのは恐ろしいことです。やはり、世の中にはやってはいけないことが多々あるわけです。みんな違って、みんないいという金子みすずの精神は宗教の世界でも生かされなければ嘘でしょう。
(2010年8月刊。3600円+税)
静岡にある浜岡原発を直ちに廃止すべきだと毎日新聞に大きな見出しのコラム記事がのっていました。たしかにそうですよね。福島原発の大事故でも恐ろしいことですが、東海大地震が予測されているときに、「絶対安全」の神話が崩れてしまったからには即刻、手を打つべきでしょう。無為無策で手をこまねいていて、東京が住めなくなったら、日本はどうなりますか・・・。
日本人は、今もっと怒り、声を上げるべきではないでしょうか。あきらめてはいけません。投票率が5割を切るなんて、子孫のことを考えたら、許されませんよ。声かけあい、励ましあって、政府と電力会社を激しく監視すべきだと思います。

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2011年4月20日

後水尾天皇

日本史(江戸)

著者  熊倉  功夫     、 出版  中公文庫   
 
 徳川家康に立てつきながら長生きした天皇(上皇)についての本です。ゴミズノオテンノウとゴミノオテンノウの二通りの読み方があります。この本は、宮内庁にならって、ゴミズノオとよびます。
 生まれたのは、秀吉時代。千利休の切腹は、「下克上の精神」を凍結するための冷酷な宣言だった。秀吉が利休に切腹を命じたのは秀吉の心に利休がつくった茶の湯を否定しようとする気持ちがあったから。秀吉にとって、利休の茶の湯は魅力と危険をふくんだ数寄(すき)であった。利休は、茶の湯において下克上の精神をつらぬこうとする。その自由なふるまいは、「天下人」として秀吉の立場からすると許容しがたいものであった。
 徳川家康は、公家と武家を分離し、武家の官位は朝廷とは別に幕府において定めることを禁裏へ申し入れた。当時、権力の座から離れた天皇への権限といっても、もはや実質的な意味をもつものではなかった。権威の象徴としての官名、位階、称号授与の権限と年号制定権が主たるものだった。
 1615年(元和元年)7月、徳川家康は、大阪夏の陣の直後、対朝廷政策の仕上げとして禁中ならびに公家中諸法度を発した。これは禁裏に対して法制を発布した画期的なものだった。公家方は政治介入を禁じられ、幕府の公家支配を明文化した。そして、そのなかで天皇のつとめは芸能であるとされた。そのなかでも、学問を第一とせよ、とされていた。
 和歌の道こそ、天皇のもっともたしなむべき道である。天皇のつとめとしての芸能とは、現在の芸能とかいうのとは根本的に違っていると言えた。芸能とは、教養として心得ておくべき知識の総体をさす言葉である。天皇が文化面での最高権威であり、文化そのものの体現者である。そして、後水尾天皇こそ、歴代の天皇のなかで、この禁中ならびに公家中諸法度の規定をもっともよく体現した天皇であった。
 徳川家康の願いは、武家の娘が皇后となり、その皇子が天皇となって外戚の地位につくというものだった。徳川氏の女を入内(じゅだい)させるのは家康の悲願だった。
後水尾天皇の二条城行幸は記念すべきものだった。将軍私邸への行幸は、このあと江戸時代を通じて、ついに行われることがなかった。次に天皇が禁中を出たのは江戸幕府が崩壊したときだった。中世以来、幕府が天皇の権威を行幸というかたちで受けとめ、支配のテコとするパターンは、この後水尾天皇の行幸をもって終わった。それ以後、幕府は天皇の権威を必要としないほどの強大な権力をつくりあげていく。
行幸は、天皇の権威を広めるよりも、幕府への権力を誇示するところに目的があった。目を驚かす玉座など諸々の装束の金銀のデザインは、文字どおり黄金の世の現出を象徴するものだった。天皇の膳具はすべて黄金で彩られた。
 この寛永行幸をとおして、人々は、新しい時代の見事さ、そして、その頂点にある幕府の重さを思い知ったのだ。
 天皇は、鍼や灸のような身体を傷つける治療を受けることは古来できないことになっていた。後水尾天皇に腫れ物があっても、在位中は治療を受けられない。だから灸治を施すためには譲位させざるをえない。しかし、実は、まれに天皇に灸治が許される先例はあった。そこで、譲位やむないというのが公家衆の大勢だった。ただ、女帝への譲位は幕府は歓迎しなかった。当然のことながら、女帝は一代でその血統が絶える。徳川氏の血が皇統に入らない。
家光の乳母である江戸の局(つぼね、お福)を天皇に面会をさせようとした。このため天皇は不快だった。朝儀復興という天皇の念願が無位無官の女性の参内によって破られることになるからだ。結局、面会できたこの女性は、後に春日の局と称した。
 江戸時代の中期以降、朝廷から諸方面への貸付金は巨額にのぼり、その利子収入は朝廷の重要な収入源となっていた。
後水尾天皇は譲位したあと歌の道に精進した。2千首の歌が伝わっている。83歳で亡くなるまで、後水尾院は37人にのぼる子どもの父親となった。
学問と花を愛した天皇(上皇)の様子がうかがえる本です。ただ、冒頭に石田三成が家康の邸へ逃げ込んだと記述されていますが、これは現在では否定されていると思います。それというのも、この本は1982年に刊行されたものの復刊ですので、仕方ないことでしょう。江戸時代初期の天皇の実態が分かる本として紹介します。
(2010年10月刊。933円+税)

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2011年4月19日

暗殺国家ロシア

ロシア

著者    福田 ますみ 、 出版   新潮社
 
 この本を読むと、アメリカと同じように、ロシアっていう国も人が簡単に殺されてしまう恐ろしい国だとつくづく思います。
 ロシアのテレビは報道統制がすすんで、犯罪を通してロシア社会の病巣を抉り出す報道は、今のテレビ界ではほとんど出来なくなっている。テレビで批判できない組織や人物のリストがどんどん増えていっている。
 ロシアでは、今、ジャーナリストたちが次々に襲われている。ロシアでは、ジャーナリストの身辺を脅かす襲撃事件が年間80~90件起こっている。プーチンが大統領に就任した2000年から2009年までに、120人のジャーナリストが不慮の死を遂げた。このうち70%、84人が殺害された。自分のジャーナリスト活動が原因で、殺されたと推測できるのは、さらにそのうちの48人。この48人の殺害のほとんどは、嘱在殺人と思われるが、首謀者も実行犯も逮捕されたのはほとんどない。
 ソ連時代、いわゆる反体制派は厳しい弾圧に晒された。投獄され、精神病院に放り込まれ、国内流刑や国外追放された。とはいえ、スターリン独裁下は別として、その後、処刑された者はいない。ところが、現代の体制批判者は裁判によらず、白昼の街頭でいきなり射殺される。うひゃあ、こ、こわいですね。
 エリツィンを民主主義者だと信じたのは、どこのどいつだったのだと自己嫌悪に陥るというのか、現在のロシア人の大方の心理である。あの流血騒ぎは、単なる権力闘争でしかなかったことを疑う者もいない。
 地方のローカル紙や全国紙の地方支局のジャーナリストの方が、より危険だ。地方の権力者を批判すれば、狭い限られた地域の中で反響が大きいから、それだけダイレクトにリアクションが返ってくる。ロシアでは、地方の権力者のなかには、自身がマフィアの親玉だったり、そうでなくとも犯罪者集団と密接につながりを持つ人物がうようよいる。彼らは法に訴えるなどという、まどろっこしいことはしない。殺し屋を雇い、記事を書いたジャーナリストの殺害を企てる。
ロシアでは、有力者は政権内部や治安機関に大きなコネクションを持ち、莫大な賄賂を払っているため、めったなことでは逮捕されない。これは公然の秘密だ。
 また、有力なギャング団も、治安機関や有力者と内通していることが多く、組織を一網打尽にするのは至難の業だ。
 ロシアでは、白昼、首都のど真ん中で政治家や実業家などが、車に仕掛けられた爆弾で爆殺されたり、銃弾で体を蜂の巣のように射抜かれて殺されるなどの凄惨な事件が四六時中起きている。莫大な身代金を要求する誘拐団も暗躍しており、不可解な失踪を遂げる者も珍しくない。
そして、社会を覆う、無差別テロに対する恐怖がある。地下鉄を利用するとき、プラスチック爆弾を身につけた自爆テロ犯が一緒に乗り込んでこないかと、常に怯えるような社会において、チェチェン人が一人ぐらい行方不明になったところで、「それがどうした?」という反応しか呼び起こさない。
 ロシアの新聞「ノーバヤガゼータ」は1993年の創刊以来、17年間に2人の記者が殺害され、記者1人が不審死を遂げ、契約記者2人そして顧問弁護士まで殺されている。歴史の浅く、小規模なメディアで起きた、これだけの犠牲は世界的にみても例がない。
 ソ連が崩壊して3年たった1994年のロシアの日刊新聞は17種、3930万部に減った。人口千人あたり267部、4人に1人が購読していた。2004年の日刊新聞は250種、1328万部とさらに大幅にダウンした。人口千人あたり551部、2人に1人は購読している。
 現在のロシアのあまたあるメディアの中で、政権による報道規制がもっとも進んでいるのはテレビである。
 警察官をふくめたロシアの公務員の汚職・贈収賄は今に始まったことではない。プーチン時代に入ると、汚職はもちろんとして、ギャング団顔負けの悪質な犯罪が警察官のあいだに蔓延した。
 ロシアのインターネットは、政権による厳しい報道統制を免れている、ほとんど唯一のメディアである。
 現在のロシアにおいて、リベラル派は圧倒的に少数である。それは、エリツィン時代にリベラル派を自称した政治家たちに国民が煮え湯を飲まされたからだ。自由で平等な社会の実現を約束した彼らが国民にもたらしたものは、混乱と無秩序、そして貧困だった。
 プーチンはこうしたエリツィン流自由主義に懲りた国民の心理を巧みにつかんで国内を引き締め、資源価格の高騰を追い風に経済を立て直し、強いロシアを取り戻した。いま、プーチン・メドべージェフ政権の支持率は70%を下まわらない。
 ロシアの怖い、恐ろしい実情を読んでいて嫌になるほど暴露した本です。私にはアメリカは、同じことをもっとスマートにやっているだけとしか思えません。どうでしょうか・・・。アメリカによるイラク、アフガニスタン侵攻、そしてアメリカ国内の貧困・死亡率の高さは問題ですよね。
(2010年2月刊。1600円+税)

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2011年4月18日

鯨人

生き物

著者   石川 梵、 出版   集英社新書
 
 銛(もり)一本で、鯨(くじら)に挑むインドネシアの島民を現地に溶け込んで取材した日々を生き生きと再現した衝撃的な本です。その漁のすさまじさは手に汗を握ります。が、それに至るまでのなんと気の長い日々でしょう・・・。ひたすら鯨の来るのを待つのです。じっとじっと海の上でそして地上で見張るのです。その悠長さには、とてもつきあってはおれません。
 インドネシアは赤道をまたぎ、1万7500ほどの大小さまざまな島からなる人口2億人をこえる海の大国である。沖縄本島ほどの大きさのレンバタ島の南端にラマレラ村がある。ラマは土地、レラは太陽という意味。つまり、太陽の土地だ。ラマレラは人口2000人足らずの小さな鯨漁の村。水道もなければガスもない。調理には山で集めた薪の火を使い、夜になると、村は鯨の脂でランプを灯す。といっても、これは現在のことではありません。著者が泊まり込んでいた1997年当時の話です。
 ジンベイザメを仕留める。ジンベイザメは、プランクを食すおとなしいサメ。天敵もいないので、水面でいつものんびり泳いでいる。全長10メートルをこえるジンベイザメは、船体を水中に引き込む力がある。鯨とちがって水上で呼吸する必要のないサメは、銛を打ち込まれると、どこまでも深く船を海中に引き込む。うへーっ、怖いですね。
 マンタ漁には、鯨漁に匹敵するほどの危険がともなう。マンタの振り回す巨大な翼は危険で、直撃すると人を即死させる破壊力がある。うひゃうひゃ、これまた怖い話です。
 鯨の漁期は、毎年5月から8月。捕れて年に10頭。捕れるときは3、4頭まとめてということもあるので、チャンスは少ない。
長く海を眺めていると、時間の感覚が麻痺していく。鯨人にとっては、それが一生続く。
ラマレラの人々は、海の上で1キロ先のマンタの飛翔も見逃さない。目は、鯨漁に従事するラマファの命だ。鯨の急所は尾ビレの付け根の30センチほどの狭い範囲で、そこに動脈がある。揺れる船の上から最高のタイミングで狭い急所に銛を打ち込まなければいけない。
大型のマッコウクジラの巨大な頭には、2000リットルもの脳油が詰まっている。脳油の融点は29度と低い。この脳油を冷やしたり温めたりして身体の比重を変え、浮上や潜水をする。浮かぶときは、深海の水で冷やされ、固く、高密度になっている脳油を温めるため、脳油器官をめぐる毛細血管に大量の血液を流し込む。鯨の体温は33度なので、脳油は溶け、密度が薄くなる。頭の比重が軽くなったマッコウクジラは、頭を上にするだけで浮上する。海面に出たマッコウクジラは、そこで30分ほど呼吸する。血液により温められた脳油は、このとき液体状だ。潜るときには海水を鼻孔から脳油器官に導く鼻道へ吸い込み、脳油を急速に冷やす。冷たい海水により脳油は固形状になり、密度が上昇する。今度は比重が重くなった頭を下げれば自然に潜水していくという仕組みだ。うむむ、なるほど、うまい仕組みです。
マッコウクジラは、肺や血液だけでなく、筋肉のなかに多量の酸素を貯えられる。だから潜水中でも筋肉に貯えた酸素を体内に供給できるわけだ。しかし、どうして深海3000メートルの水深に鯨の体が耐えられるのか、実はまだ謎だ。
銛を打ち込まれたマッコウクジラは、SOSを発し、必死に仲間を呼んで助けを求める。
鯨一頭捕れたら、村民が2ヶ月しのいでいける。手に入れた肉は、干し肉にして、女たちが市に持っていき、野菜や生活必需品と交換する。残りの肉も乾燥させて保存し、交換する。鯨の解体は時間がかかる。血の一滴、脊髄や歯に至るまで村民に分配される。血は鯨を煮込むときのソースとして、歯は指輪などの装飾品に用いられ、脂身を干したときに出る油は家庭の灯火として利用される。鯨の油はマイナス40度になっても凍らないので、ロケットの潤滑油として今も利用されている。骨を除く鯨のすべてが、くまなく利用される。ところが、ラマレラの民の胃袋に鯨肉はほとんど入らない。たんぱく源というより通貨のようにラマレラの民の生活を支える。
圧巻は、鯨を打ち込まれた鯨の目を写真に撮ろうというシーンです。
鯨の目は赤く血走り、食われてたまるかというように、いきり立っている。鯨の眼から発する炎のような怒りが全身に伝わってきた。すごいですね。同じ哺乳類ですからね・・・。
鯨は本来やさしい動物で、遊泳中にダイバーが視界に入ると、尾ビレがぶつからないように避けてくれる。それなのに、なぜ非情にも殺すのだと怒っているのです。
自分たちは、食うために必死に鯨と戦う。鯨も生きるために必死に抵抗する。どちらが勝つか、それは神様の決めること。鯨は友人なのだ。
今では、このラマレラもかなり変貌したことが「あとがき」で紹介されています。そうなんでしょうね・・・。
(2011年2月刊。780円+税)

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2011年4月17日

胃の病気とピロリ菌

人間

著者  浅香 正博 、  出版  中公新書 
 
 日本は、先進国のなかでは異例に胃がん発生の多い国である。日本における胃がんの発生件数は男女とも、今も増え続けている。そのなかで、胃がんの発生件数は男性が5万人から7万人へと急激に増えている。2020年ころには、男性の胃がん患者は10万人に達するだろう。日本における胃がんの生存率は著しく改善したが、発生件数は以前とあまり変わっていない。ピロリ菌陰性の人は、ほとんど胃がんを発生しない。
胃における消化作用の主役は、塩酸ではなく、プペシンと呼ばれる消化酵素だ。胃を摘出して自分の胃液に漬けると、他の食物と同じように、見事に消化される。
もはや、胃の病気のほとんどは、ピロリ菌なしには記載できない。ピロリ菌は新しい細菌ではなく、何十万年も前からヒトの胃に住み着き、病気を起こしてきた。ところが、胃の中は塩酸が充満し、細菌が住み着けないという「常識」に支配されてきた。
ピロリ菌は、極端に酸素の少ない環境を好むので、普通の食べ物から感染することは、まずありえない。ピロリ菌がヒトにもっとも感染しやすい時期は、乳幼児期と言われている。そして、ピロリ菌は、いったん感染すると、通常一生の間、ヒトの胃の中に留まっている。
ピロリ菌に感染すると、白血球やリンパ球などが胃粘膜に誘導され、その細胞から活性酸素やサイトカインなど種々の細胞障害物質が放出されて、細胞障害を引き起こす。現在、一種類のみでピロリ菌を完全に除箇できる薬剤は存在しない。中途半端な服薬は除菌を失敗に導くのみでなく、耐性菌の出現頻症を上昇させる。
ピロリ菌は、東アジアのものがもっとも毒性が多い。
 日本では、団塊の世代やそれ以前の世代のピロリ菌の感染率は80%を超えている。そのため、食塩のとりすぎが胃がんの発生を促進する可能性がもっとも大きい。
 胃のなかに胃を入れると溶けてしまう。それほど強力な塩酸を放出しているのに、胃は健全である。その秘密は胃内部の表面粘膜にある。そんな胃のなかに細菌(ピロリ菌)が棲みついて、人間に悪さをしているのです・・・・。
(2010年10月刊。740円+税)

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2011年4月16日

うなドン

生き物

著者  青山 潤、    出版  講談社
 
 『アフリカにょろり旅』の著者がウナギを求めて歩いた苦難の旅を面白おかしく書きつづっていて、とても読ませます。これでも学者なのか、それともルポライター(旅行作家)なのかと疑ってしまうほど抱腹絶倒のウナギ探訪体験記です。すごいものです。若さでしょうね。タヒチ島のジャングルの中まで踏み分け、イタリアのマフィアの別宅に侵入してしまうのですから・・・。苦労、苦難、苦闘の連続の日々なのです。
 ウナギは全世界に18種類しかいない。それを全部集めることが出来たら、それだけで博士号がとれる。そんな話で勇躍、まずはインドネシアに乗り込みます。しかし英語もまともに話せず、ましてやインドネシアの言葉なんかもちろんダメ。そんな日本人青年が、よくぞインドネシアでウナギを探そうと思ったものです。
 現地の若者たちに取り囲まれて絶体絶命の大ピンチになります。そんなときは、カタコト英語ではダメ。威勢よく日本語でタンカを切るのです。
必死の思いで確保した貴重なウナギをどうするか。生のままでは税関ではねられる。やがて思いついたのは塩漬け。5キロの塩を買い込んで塩の中に放り込んだ。なーるほど、ですね。
イスラム教徒のなかで生活しているうちにラマダン期に突入。昼間は水も食料もダメ。著者は夜までダメだと思いこんでついに栄養失調で倒れる寸前となって、その家を脱走。そして、あとになって人々は夜にちゃんと食べているのを知ったのでした。
世界のウナギ18種類のうち、ほとんどは赤道熱帯域に生息し、日本やヨーロッパのような温帯域に棲むのは5種類のみ。熱帯のウナギについては、ほとんど何も分かっていない実情である。
インド洋のウナギを探し出かけるときには海賊に襲われる心配もあったのでした。
いやはや、熱帯のウナギの生まれる場所を突きとめた学者グループの苦労を平和な日本にいながら偲ぶことができる興味深い本です。
(2011年2月刊。1600円+税)

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2011年4月15日

労役でムショに行ってきた

司法

著者  森  史之助     、 出版  彩図社   
 
 罰金を支払えないときには労役場で働かされます。その状況をレポートしてくれる本です。著者は酒気帯びでつかまり、罰金25万円を命じられます。1日5000円として50日間の労役場留置です。著者は、川越少年刑務所に収容されました。収容されるとき、タバコや危険物を持ち込もうとしていないか調べるため、お尻の穴を両手で広げて見せなくてはいけません。
ペニスは異物を埋め込んでいないか、埋め込んでいるとしたら何個かを調べる。
刑務官は、労役場留置の人間に対しては、何かと「独房行きだぞ。一人は寂しいぞ」と脅す。それしかない。労役には、そもそも仮釈放という制度がない。相当な規則違反をしても、懲罰を受けたものはいない。
 労役場留置の多数派は、飲酒がらみの道交法違反である。労役受刑者は、寝るのも作業するのも、朝から晩まで24時間を雑居房の中で過ごす。くさいメシといっても、メシ自体は臭くない。そうではなく、臭い場所でメシを食わなければいけないのである。
著者に充てがわれた作業は、紙袋にヒモを通すこと。ショッピングバックの製造の一過程である。ノルマはなく、何かやっていないと6時間がたたないので、ひたすら手を動かす。完全週休2日制。しかし、土日も働いている計算としてカウントされる。これだけでも労役は、軽作業をさせることより留置することに重きを置いていることが分かる。
 
 1日5000円換算の仕事をしているから、何ももらえないかと思うと、1日40円の「給料」をもらえる。1日8時間、ショッピングバック800個にひもを通して40円がもらえる。
 1日5000円の罰金を免除してもらって、3食付で、40円がもらえる。では、ここにまた入りたいと思うかというと、みんなNOという。そりゃあ、そうですね。自由がありませんからね。
 土日の休みの日(免業日)は、昼食を終えると(午睡)の時間がある。夕食まで横になっていい。著者は免業日には、合わせて16時間も布団に入って、なかで過ごしたといいます。
雑居房には時計がない。労役受刑者は、一日の行程のすべてが時間によって管理されているのに、時計を見ることができない。その必要もないからだ。
労役場留置の貴重な体験記として一読をおすすめします。
 
(2011年1月刊。619円+税)

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2011年4月14日

毛沢東、最後の革命(上)

中国

著者  ロデリック・マクファーカー   、 出版   青灯社   
 
 毛沢東が文化大革命を始めたのは1965年2月のこと。そのころ私は高校生でした。
妻の江青(こうせい)に秘密任務を託し、上海に派遣した。毛が、自分の途方もない計画を全面的に支えてくれる人物として頼りにしたのは、上海市党委の左派リーダーの柯慶施(かけいし)だった。柯慶施は、江青が毛沢東の意を受けて動いていることを知っていたので、なんのためらいもなく江青の助手として二人の宣伝マン、張春橋と姚文元をつけてやった。しかし、柯慶施自身は肺癌のため同年4月に急死した。張春橋より年下の姚文元は、当時まだ33歳で、鋭い舌鋒で毛沢東の信頼を勝ちえていた。
 姚文元の書いた論文は、極秘扱いのまま、毛沢東との間を往復した。上海市党委の上層部は不意をつかれた。そして、北京市党委の彭真をだました。
 1966年3月、毛沢東は北京の党組織への最終攻撃を開始した。5月、彭真は粛清された。それに連座して解任された人々は多かった。そのような運命を受けいれるのを拒否して自殺を選ぶ人々が日ごとに増えていった。
 党幹部が疑いを口にする一方で、知識人や党外の名士はパニックを起こしていた。そのとき、毛沢東は軍事クーデターを心配していた。パラノイア(妄想症)とすら言える毛沢東は用心深く、首都工作組と呼ばれる特別タスクフォースを発足させた。北京衛戌区には新たに10人をこす将軍と家族から成る優秀な増強部隊が投入された。そして、中南海に棲んでいた幹部の多くが別の地区へ転出させられた。
1966年6月、全国の大学と学校の授業が停止させられた。学生たちは突然、「自由」になり、教室を離れて文革と「階級闘争」に投入していった。この事態に劉少奇は、苛立つ以上に、平然としていた。
 1966年夏に起きた混乱について毛沢東はすべてを熟知していた。毛沢東が北京にいないときにも、中央弁公庁は毎日、専用機を飛ばして、情報を届けていた。
 毛沢東は7月、「いっさいの束縛を粉砕しなければならない。大衆を束縛してはならない」と持ち上げた。また、反動派に対して「造反することには理がある」とぶち上げた。これが有名な「造反有理」の始まりでした。このころは、まだ劉少奇も乗り遅れまいと懸命の努力を続けていた。「四旧打破」運動として、紅衛兵は、「悪い」階級出身の家庭への家捜し、家財の押収・破壊を始めていた。北京での差し押さえ資産は、1ヶ月で5.7トンの金など莫大な収穫をあげた。
文革のあと、全国85校のエリート大学・中学・小学校を調査したところ、すべての学校で教師が生徒に拷問され、多くの学校で教師が殴り殺された。「幸運」な教師は便所掃除などの屈辱的任務を課された。
1980年代の公式マニュアルによると、文化大革命のとき18歳以下であれば、集団殴打に加わって人を死に至らしめても、のちに自分の誤りに気づいてそれを認め、現在も素行の良い者は、責任を問わないとした。毛沢東にとって恐怖支配は納得づくだった。中国の若者は、暴力の文化の中で育った。それまで党の暴力は慎重に制御され、調整されてきたが、そのタガが外された。大学生たちは、自分たちの革命的貢献を証明したくてうずうずしているから、騙されやすく、喜んで党中央の使い走りをした。
劉少奇が辞任して田舎にこもり、畑でも耕して暮らしたいと許可を求めても、毛沢東は許さなかった。
 中国を動乱から救うのは、もとより毛沢東の望むところではなかった。1966年12月、毛沢東は自分の73歳の誕生日のとき、全国的、全面的な内戦の展開のためにと乾杯の音頭をとった。
 毛沢東は、解放軍の制度については無傷のまま保つことに留意したが、党機構については、そのような配慮をしなかった。1968年から、大半の部局で職員の7~9割が「五七幹校」へ「下放」された。政府が崩壊すると、各部を動かしていた党組織に代わって解放軍が権力を握った。このせいで軍が腐敗した。たくさんの軍関係者が昇進して、大もうけした。
 それまでの指導部で大きな恩恵を受けている正規労働者は、政治の現状維持に与した。毛沢東は、民間の混乱状態から解放軍が部分的に隔離されるのに反対ではなかった。解放軍は、毛沢東の依って立つ制度的な基盤でもあった。
 文革中に、毛沢東が高級幹部の殺害を命じた形跡はない。スターリンと違って、毛沢東は、そんな最終的解決で自身を守る必要を感じなかった。その代わり、かつての戦友たちの運命は、中央文革小組や紅衛兵の手にゆだねられ、なすがままに放置された。
 毛沢東は、かつての盟友が辱められようが、拷問されようが、傷つこうが、ついには死に至らしめられようが意に介さなかった。スターリンほどではありませんが、毛沢東も冷徹一本槍ではなかったようです。
 周恩来は、国務院と解放軍の戦友を支持しなかった。これは間違いだった。もし、周恩来が、老幹部の団結という希有の機会をとらえて元帥や副総理たちに味方し、文革の恐怖と混乱を取り去るべく、いろんな提案をして毛沢東に圧力をかければ、大きな影響を発揮できた。しかし、周恩来は、その労をとるリスクを避けた。
1967年夏、中国は毛沢東のいう「全面内戦」状態に陥った。文化大革命は武化大革命になった。
 7月の武漢事件において、毛沢東は兵士暴徒や党幹部から安全を脅かされた。1967年夏に労働者のあいだで暴力事件が増加したのは、江青の挑発的発言に原因がある。
「武で防衛せよと江青同志が言った」というもの。重慶地区には、兵器工場が集中していて、武闘派に対するほぼ無制限といえる武器の供給源となっていた。
 以上が上巻です。とても読みごたえのある本でした。

(2010年11月刊。3800円+税)

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2011年4月13日

山田洋次、映画を創る

社会

著者  山田 洋次 ・ 冨田 美香 、 出版  新日本出版社
 
 残念ながら『京都太秦物語』はみていません。ぜひみたかったのですが、ついに機会を逸してしまいました。いずれ、DVDを借りて、みてみたいとは思っています。
 この本は、山田洋次監督が立命館大学の映像学部の学生たちと一緒になって実際にある京都の商店街で映画をつくりあげていく過程を描いたものです。大学生のみなさんの初々しい興奮までよく伝わってきます。
 私もそうでしたが、大学生のころって、大事なときに寝坊してしまったりとか、大変なポカをついついしてしまうものなんですよね。それでも、大人たちがそれをカバーして、ホンモノの映画作りが進行していきます。
 OKかNGかを決める。これは監督の仕事だ。監督がNGと言っている限り、仕事が先に進まない。これは監督の権限だ。そこに、OKだったかNGだったかを決める、判断するときに、監督のもっている才能なり、エネルギーなり、すべてが凝縮される。
 若いうちは、どうしても働きたがる。しかし、キャメラのうしろで、監督のそばで、じっとみんなを観察すること。忙しく働くと、全体が見えなくなる。監督の仕事は、全体が見えなければいけない。働くのを堪えて、監督のそばでじっとみんなを見つめ続けることが大事なのだ。それが修行というものだ。とにかく観察しろ。どこの専門にも属さない仕事は全部拾い集めるようにして、自分の仕事にしろ。
なーるほど、監督という仕事のイメージがなんとなく伝わってきますね。
 山田組の特徴は、決定稿ができあがっていても、その時、その現場の雰囲気を重視する演出が行われるため、脚本は次々に変更されていくことにある。
 八百屋のご主人のキャラクターに魅力を感じた山田監督が突然、カットを増やした。ガチガチに予定されたスケジュールのままで進行せず、突然やひらめきを大事にする。その精神が山田組の真骨頂であり、それが登場人物に生命を吹き込む秘訣なのだ。
 すごいですよね。臨機応変なんですね。これにこたえていくチームワークが求められますね。
 真実は真実である。ただ、嘘だからこそ見えてくる真実もある。映画という嘘の世界にも真実はたくさんあるのですよね・・・。
 映画の現場は楽しく笑顔でやらないとダメなんだよ。映画づくりとは、人間関係で成り立っている。映画の撮影というのは、気の合った同士が一緒に船に乗って長い長い航海に出るようなものなのだよ。航海の途中では、嵐もある。事故にもあう。故障もある。本当に大変な思いをして、ときどきケンカもして、それでようやく目的の港に着く。荷物を運んで、また帰りの航海をして母港に戻って、やあ、ようやく終わったねえ、みんなどうもご苦労さまと言って乾杯をする。そこで、撮影が終わる。その時はやっぱり悲しいよね。別れるのは、とっても悲しい。だから、また会おうねって言って別れるんだよね・・・。
 うむむ、とても含蓄深い言葉ですね。
 『京都太秦物語』はベルリン国際映画祭でも拍手喝采を受けたそうです。やっぱり、ぜひ映画をみてみましょう。
(2011年1月刊。1600円+税)

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2011年4月12日

韓国映画史

朝鮮(韓国)

著者 キム・ミヒョン  、  出版  キネマ旬報社   
 
 私は「冬のソナタ」はみていませんが、韓国映画のファンの一人です。つい先日は、『戦火の中へ』 をみました。「ブロックバスター」という言葉があるそうです。1999年の「シュリ」や「JSA」「シルミド」「ブラザーフッド」などを指すようです。1000万人の韓国人がみたというのですからすごいものです。私ももちろん、みんなみています。なにしろ、人口
4700万人の韓国で1000万人の観客というわけですから、15歳以上の人口の27%がみたということです。これって、4人に1人以上の割合ですよ。すごいことです。
「シルミド」「ブラザーフッド」は、それまで劇場に足を運んだことのない40代、50代を新たな観客として呼び込んだからこそ可能となった。
「ウェルメイド映画」という言葉もあるそうです。こちらは、「よく出来た映画」という意味です。「JSA」も「ブラザーフッド」もウェルメイド戦争映画だということです。同じく「大統領の理髪師」もよかったですね。
「トンマッコルへようこそ」は素晴らしい映画だと思いました。韓国(朝鮮)戦争を扱っているのですが、深刻なテーマでありながら笑わせます。これが新人監督のデビュー映画だと知って驚嘆しました。韓国の映画人の底力というか、層の厚さを思い知らされます。
韓国映画と言えば、私はなんといっても「風の丘を越えて~西便制」を必ず挙げます。この映画には本当に心揺さぶられ、全身の皮膚が奮い立つ思いに駆られました。
この映画の興行の成功が一つの歴史的な事件でありえたのは、都市化によって消費社会へ急激に移行しつつあった当時(1993年の上映)、全羅道(チョハラド)という地域を舞台に、パンソリという失われた伝統へのこだわりと憐れみがこめられていたからである。
日本の歌謡曲の原点ともいわれているパンソリの圧倒的な迫力に、みているだけで手に汗を握って、つい身を乗り出してしまいました。まだみていない人には、DVDを借りて、ぜひご覧ください。人生を考えさせてくれる心揺さぶる最良の映画の一つです。ソウルだけで104万人韓国全土で220万人がみたというのも、うべなるかな、です。
私がみていない映画で、ぜひみてみたいのが「太白山脈」(1975年。この本では反共映画だと決めつけられていますが・・・・)、「南部軍」(1990年、智異山のパルチザンを客観的に描写しようとした)、「ホワイト・バッジ」(1992年。ベトナム戦争に派遣された韓国軍のベトナムにおける戦いを描いたもの)です。いずれも日本語版のビデオが入手できたら、ぜひみてみたいと思いますが、なかなか大変のようです。
 韓国映画は政府による反共政策の下で露骨な統制・検閲のなかにあっても、なんとか生きのびてきただけあって、そのタフさはすごいものです。そして、クォーター制という韓国映画保護政策もプラスに働いています。470頁もある大部な、しかも高価な本ですが、写真もたくさんありますから、楽しくなつかしい思いを胸にして読みすすめていきました。

(2010年5月刊。4200円+税)

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2011年4月11日

観測的宇宙論への招待

宇宙

著者  池内 了、    出版  日経BP社
 
 宇宙の果てはいったいどうなっているんだろう。137億年前に宇宙が誕生したって、どういうことなのかな。人が死んだら宇宙のかけらになるって言うけど、いったいどこに存在するんだろう・・・・。不思議なことだらけの地球と星、そして宇宙の話は昔からとても興味があります。
 1970年代に観測できるのは1億光年だった。1980年代には50億光年への拡大し、今や130億光年の彼方まで及ぼうとしている。すごいですよね。今では人類の目は130億光年をこえた銀河宇宙の果てに及ぶようになったというのですからね。
 今から410年前のころの信長時代には人生50年と歌っていたわけですが、今でも人生80年くらいのものですよね。それなのに1億年とかいうのですから、気も遠くなって見当もつきませんね。
 宇宙の年齢は137億年とされている。最初に生まれた銀河は宇宙の誕生後2億年ころと考えられている。現在、人類は130億光年の彼方の天体に迫っている。つまり、今では銀河宇宙の果てに迫っているわけだ。
 SDSSという日本共同研究は、夜空の4分の1を、およそ50億光年の遠くまでの銀河1億個を調べ尽くすという壮大なプロジェクトである。30年前、星が夜空に無数にあるから、どこを向いても光にあふれているはずなのに、なぜ夜空が暗いのかという面白い本を読みました。
 アインシュタインという天才であっても、宇宙の永遠性を信じていた。しかし宇宙は次々と生まれていると予測できる。すなわち、宇宙は一つだけと考えるのがむしろ不自然なのだ。宇宙は多重に存在すると考えられている。といっても、各々の宇宙は独立していて、お互いに交信することはありえない。
 うむむ、なんだか、分かったようで分からない話ですよ、これって・・・・。宇宙がいくつもあるなんて、どういうことでしょうか。
 クェーサー(準恒星状天体)は現在では3万個も発見されている。このクェーサーは地球の近くにはなく、50億光年から120億光年までという遠い距離に集中して存在している。これは恐竜のように過去に大繁栄したが、現在では絶滅して姿を消してしまったということでもある。
 ほとんどの銀河の中心部には巨大なブラックホールがあり、かつては大量のエネルギーを放出するクェーサーとして激しく活動していた。やがて、ブラックホールへのガス供給がなくなったため、クェーサーとしての輝きを失い、現在は普通の銀河として輝いている。
 ダークマターとは、電磁波では観測できないが質量をもって重力を及ぼす物質のこと。ダークマターは、光とは直接に相互作用はしない。また、ダークマターは、熱エネルギーを放出できない。ダークマターは必ず存在している。しかし、その正体が何であるのか、20年先まで残された難問だ。これまた、なんだかよく分かりません。そして次は・・・。
 ダークエネルギーは空間に付随している。空間が増えれば、その分だけダークエネルギー増加する。その正体はとらえようがない。こうなると、宇宙って不思議だらけです。
 宇宙がいくつもあるなんて、一体どういうことなんでしょうね・・・・?!
(2011年1月刊。2000円+税)

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2011年4月10日

貧困都政

社会

著者   永尾 俊彦 、  出版  岩波書店
 
 この本を読むと、こんな男に日本の表玄関である東京を任せていることに怒りというより、恥ずかしさに身をよじります。実に呆れた人間です。
 週に3日の出勤で年俸2908万円という超高給とりです。あとの4日は小説を書いたり、映画をつくったり、スポーツを楽しんだりの日々です。公費での海外出張が15回、これで合計2億4350万円つかいました。公費での飲食は7年間で155回、1615万円です。なにしろ1回の高級料亭の接待(9人)で、37万円もつかいます。まるで殿様気分です。
 東京にオリンピックを招致しようというので、IOC総会で着たスーツは1着26万円(もちろん私費なら何も問題ありません。せこいことに税金でまかなったのです)。北京オリンピック開会式に出席するときのホテル代は1泊24万円のスイートルーム。
 都知事という公職について、週3日しか登庁せずに贅沢ざんまいです。
東京オリンピック招致のための150億円(正確には125億円)の費用は、もちろん実現しませんでしたから、全部ムダになりました。このとき、電通に26億円も渡ったそうですから、一部の大企業からは神様のようにありがたがられるのも道理です。
 なぜ、東京オリンピックか? 石原慎太郎は次のように語った。
「周りの国に勝手なことを言われ、何かむしゃくしゃしているときに、面白いことねぇか、お祭一丁やろうじゃないか、オリンピックだぞ、ということでドンと花火を打ち上げればいいじゃないか、気分も浮き浮きして」(2006年3月の記者会見)
 なんという軽さでしょう。大金持ちが自分のお金を浪費するのなら、私は何も言いません。しかし、税金をこんな発想でつかっていいものですか・・・・? 
 東京都の財政規模は年12兆円。これは韓国の14兆円、ノルウェーの12兆円、サウジアラビアの11兆円に匹敵する。その大東京で、1999年には26人、2008年に43人もの餓死者が出ている。そして、年々、少しずつ増えている。
 都の生活保護世帯も、1999年の9万世帯、12万人から、2008年の15万世帯、20万人へ激増している。また、2000年から都営住宅は新設されていない。都有地を売却したところに家賃月300万円という高級マンションが建っている。
都内の特別養護老人ホームの待機者は4万人をこえる。
老人福祉費は1999年度は、2442億円で歳出総額に占める割合は3,8%、これは全国2番目だった。ところが、2007年度には1966億円に減って、2,8%となり、全国最下位に転落した。
 老人医療費の助成を廃止し、地下鉄やバスの無料シルバーパスも有料化された。なんと冷たい都政でしょうか・・・・。東京都にお金がないわけではないのです。オリンピック招致につかうお金はあっても、福祉にまわすお金はないというだけです。そんなのおかしいでしょう。政治は弱者のためにあるはずですよ。お金持ちは政治に頼らなくても自分で自分を守れるのですからね。
こんな都知事をもてはやすマスコミは、ジャーナリズムの自殺行為としか言いようがありません。毎日の新聞に石原慎太郎が記者会見で言った無内容で、ひどい偏見にみちた言葉がもっともらしく報道されるのを読むたびに、私は腹が立ってしかたありません。
(2010年2月刊。1600円+税)

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2011年4月 9日

江戸のエロスは血の香り

日本史(江戸)

著者: 氏家 幹人、  出版: 朝日新聞出版 
 
巻末に主な参考文献・引用史料がたくさん紹介されています。これを見ると、江戸時代について書かれた本を相当よんだつもりになっている私ですが、学者に比べると赤子のようなものです。ちっとも読んでいません。だいいち、原典にあたっていないところが致命的な相違点です。
江戸時代、長崎に滞在していたある中国人は、日本人について、礼儀正しいが貞操を守らないと評した(『甲子夜話』)。江戸時代から今日に至るまで、日本人は老若男女の別なくかなりエッチなのである。
 江戸時代、武士の妻が貞節だったというのは幻想でしかない。文政7年(1824年)、吉原遊郭が炎上し、仮宅での営業が許された。すると、この仮宅を訪れた見物人の8割は女性で、しかも武家屋敷の女性が多かった。
 江戸時代の性の倫理は、過酷な刑が定められた一方で、思いのほか緩やかだった。泰平の世が続くにつれ、その傾向はさらに顕著になった。妻の不倫が発覚しても、処刑や流血沙汰に至るケースは稀になり、通常は間男(不倫相手)から寝取られた亭主に「首代」(くびだい)と呼ばれるお金が支払われて示談が成立した。「首代」は7両2分とされたが、大阪では5両。間男が貧しければ、さらに小さい額で示談が成立し、なかには夫が妻の髪を切るだけで事済みになった例もある。
 不義密通は武士の世界でも庶民の世界でも、日常茶飯化していた。皇族の男女だって駆け落ちしたくらいなので、大名や旗本の妻女駆け落ちも稀ではなかった。
 幕府や藩の役人は心中事件の処理に手心を加えていた。幕府自身が心中未遂で死にそこなった男女の扱いについて、幕府の定めた法を曲げるように勧めていた。心中未遂で晒し者となり非人の配下になっても、親族が非人頭にお金を払って身柄を引き取って、なんのことはない、二人はめでたく結ばれることがあった。そんな魂胆から、狂言心中を企む男女も少なくはなかった。うひゃあ、ここまでくると、驚きですね・・・。
 「茶呑男」という言葉を初めて知りました。正式な夫は持たないが、熟年の性欲を適度に満たしてくれる男友だちのこと。お一人様の老後を、「茶呑男」をこしらえて乗り切ろうという小金もちの女隠居がいた。
 江戸時代の本を読むと、現代の性風俗かと思うばかりです。日本人って、本当に変わらないのですね・・・・。
 
(2010年11月刊。1500円+税)

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2011年4月 8日

関東戦国史と御館の乱

日本史(戦国)

著者   伊東 潤、乃至 政彦、 出版   洋泉社歴史新書
 
 戦国時代のことがすっごくよく分かる面白い本です。なるほど、なるほど、戦国時代の武将たちはこんな考えで、こんなふうに行動していたのかと、感嘆・驚嘆しながら読みすすめていきました。
 御館(おたて)の乱を扱っています。NHKの大河ドラマ『天地人』で有名になりました。
上杉謙信の死によって大正6年(1578年)に勃発した御館の乱こそ、関ヶ原にも匹敵するほどの戦国史上の大事件だった。
 御館の乱をやっとの思いで勝ち抜いた上杉景勝は織田信長勢に押されていたが、天正10年6月に「本能寺の変」が起こって、景勝の苦境は一掃された。その後は、秀吉の忠実な傘下大名として生き永らえた。
 武田勝頼が北条氏政との同盟を死守する気持ちが少しでもあったら、御館の乱は景虎が制し、甲相越三国のあいだには、強固な同盟関係が築けたはず。そうなれば織田信長とて、おいそれとは武田家に手が出せず、日本史は現在あるのとは違った様相を呈したであろう。それは、関ヶ原の勝敗が逆となったときよりも劇的な違いだったはずだ。
 しかし、上杉景虎は景勝に敗れた。それを間接要因として武田家も滅んだ。そして、それが北条家の滅亡をも招き、日本は統一国家の道をひた走ることになった。
父信虎の方針を否定して家督を奪取した武田信玄であったが、結局、その領国拡大策は変わらなかった。否、いっそう積極的になった感さえある。それは甲斐国のかかえる根本的問題に起因していた。つまり、信玄にも外征による領国拡大策以外に甲斐の国内問題、すなわち飢饉と飢餓を解決する術がなかった。
天文22年(1553年)9月、武田信玄と上杉謙信との間に第一次川中島合戦が勃発した。信玄が決戦を避けたので、謙信は撤退した。同年11月、謙信は初めての上洛を果たし、後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を授かるという栄誉に浴する。これを契機として謙信の勤皇熱が高まった。
天文23年(1554年)、信濃国領有に成功した信玄と、関東領有を目ざす北条氏康のあいだに利害対立はなくなり、さらに西進策をとっていた今川義元もまじえて三国間に同盟締結の機運が盛りあがった。この年に締結された甲相駿三国同盟は相互不可侵と攻守同盟を基本としていた。この同盟の特徴として三国間の婚姻による同盟の補強があげられる。すなわち、信玄が嫡男義信に今川義元の娘を迎え、今川義元が嫡男氏真に氏康の娘を迎え、氏康が嫡男氏政に信玄の娘を迎えることで、三国同盟をより堅固なものとした。この同盟は永禄11年(1568年)まで15年あまりも続いた。
上杉謙信は1556年、27歳のとき出家得度し、すべてを投げ出して高野山に出奔した。若き信玄は戦国大名という職業に嫌気が差してしまった。
上杉謙信には二人の養子がいた。三郎景虎と喜手次景勝である。景虎は北条三郎と名乗っていた。景勝は、かつて謙信に敵対していた上田長尾政景の次男であった。
景虎も景勝もともに、かつて謙信と敵対した勢力を出身する養子だったが、二人とも謙信から実子に優るとも劣らない待遇を受けた。そして、謙信は、景虎の政治基盤を解体せずに景勝の権威昇格を試みた。謙信初名の「景虎」と由来の曖昧な「景勝」では、どう考えても景勝が上位とは言い難い。つまり、謙信は、自らの官途名を譲ることで景勝を引き立てつつも、そこに歯止めをかける存在として、景虎を残したと考えられる。北条方と再び対立した謙信は、またもや反北条の旗頭として、国内や関東の諸士を連れ回し、対北条作戦を継続させねばならなくなった。しかし、北条を実家とする景虎が後継候補では、家中の結束は固まり難く、関東諸士の参戦も危ぶまれた。北条方の矢面に立たされる関東諸士としては、謙信に従って戦うことが北条氏政の実弟である景虎を益することにもつながるというジレンマを抱えることになった。そして、謙信は、北条方との戦いを再開するにあたり、何をおいても景虎を後継とする体制を見直す必要があった。
謙信の祖先は代々、越後守護職・上杉家の家宰として越後国の統治を代行する一族であり、あくまで守護上杉家の補佐役としての権限しか持っていなかった。信玄との川中島合戦において、謙信は正式には主従関係になり国内領主たちを動員してつかい回すのに「勝手に帰国しないこと」という陣中法度があるように苦労していた。このように未熟な権力であったからこそ、謙信は京都の伝統権威に接近した。
うひゃあ、謙信政権の内実って、それほど堅固なものではなかったのですね・・・。まったくイメージが違っていました。
謙信の死は天正6年(1578年)3月のこと。その死から2ヶ月もたって、御館の乱が始まった。以下、御館の乱の推移が詳しく紹介されています。それを読むと、当時の武将たちが気骨のある一城の主(あるじ)だったことがよく分かります。戦国時代の様子を知る絶好の書物です。
(2011年2月刊。860円+税)

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2011年4月 7日

和解する脳

著者  池谷 裕二・鈴木 仁志、    出版  講談社
 
 若手(と言ったら失礼にあたるでしょうね。中堅と言うべきですね)弁護士が高名な若手(同じく)と対談した本です。大変面白い話が満載でした。
 人間の遺伝子は10万と推測されていたが、実は2万台だった。神経細胞は100億という人もいるが、最近では1000億という説が有力。
 遺伝子と脳は、親子の関係というより、むしろ対立関係にある。遺伝子の本来の進化のあり方に対して、脳が違う動きを始めた。脳幹が大脳皮質をコントロールしていたけれど、人間では大脳皮質が脳幹をコントロールするという立場の逆転が起きている。
 再起のないものは言語ではない。サルが言葉を覚えても、文法はできない。無限という概念が分かるのは、再起のできる人間だけ。無限が分かると、無限ではない有限が分かる。
 3歳児は、かくれんぼが出来ない。自分から相手が見えなければ、相手も自分が見えないと思っている。つまり、他者視点でものが見えていない。3歳児は再起がまだ出来ない。
 言語活動の訓練を通じて十分に脳を成熟させてあげないと、他人との関係性をよく認識できない大人になってしまいかねない。
 紛争のない社会のほうが気持ち悪い。かなり人為的に意思統一させられない限り、争いが起こるのは当然のこと。
日本の裁判では偽証が構行している。はっきり言って、そのとおりだと思います。しかし、かと言って、何が真実なのかを見抜くのは実に容易なことではありません。ですから「偽証」の立証は至難に業なのです。
 脳は思いこみをする。裁判官のなかには、この事件はこうじゃないかと心証を形成すると、それ以降、その流れをサポートする証拠ばかり見ようとする。大脳皮質は作話を始める。そのとき、本人には嘘をついている自覚がない。心から自分の発言を信じている。嘘をついているときは前頭葉が活動している。本当のことを話しているときは、脳の後の方が活動している。うへーっ、そうなんですか・・・。
 カウンセリングの基本は、聞くこと。誰か一人でも受け入れてあげる。受容してあげることが大切。反感をもっているときに聞いても、それは受け容れない。和解するときの究極の目標は、相対的な快感をつくり出すことに尽きる。裁判官は、提出された論理構成のなかで、「落ち着き」のいい結論にたどり着くのに一番つかいやすい論理を用いる。
 和解をすすめるときにも、弁護士が決めたように思わせないようにもっていくのが重要。情報を置いておいたら、それを見た当事者が自分で決めたという形にすると、自分で将来を切り開ける。このとき、本人の納得度は高い。
 これは弁護士にとって大切な指摘です。ところが、本人の納得度をあまり重視しすぎると、まとまる話もまとまりません。そのかねあいは実に難しいところです。
 人間は、互恵性のシステムを遺伝的にもつ生物である。そのシステムを維持することが最終的に自分のためになる。不公正感は、もともと人間の持っている互恵的利他性から出てくる感情だと思う。
 和解のもつ意義を考え直させてくれる本でもありました。
(2010年11月刊。1600円+税)

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