弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年8月16日

鳥が教えて教えてくれた空

生き物(小鳥)

著者:三宮麻由子、出版社:NHKライブラリー
 山のふもとと言ってよいところに住んでいますので、夏の朝、ウグイスを一番に聞くことができます。朝6時ころに鳴き出します。春とは違って、安定した、明るい鳴き声です。ホー、ホケキョという鳴き声を聞くと、今日もいい一日を過ごせそうだと思うことができます。そして、そのうち、蝉の大合唱がはじまります。
 トイレに座ると、スズメたちが元気に鳴いています。わが家には、少なくとも2ヶ所にスズメの巣があり、一家が住みついています。にぎやかなものです。でも、正確にいうと、トイレの窓のすぐ上にあるスズメの巣をスズメたちが出入りするときには、ほとんど物音をたてません。ときに羽ばたく音がするくらいです。スズメなりに気づかれないようにしているのです。巣から少しはなれたところにとまって、にぎやかに鳴きはじめるのです。この本の著者はスズメの鳴き声について、次のように書いています。
 午前5時台には、スズメも寝ぼけ気味のようで、チュンチュンと小さめの声でまばらに鳴きあっている。6時過ぎると、突然にぎやかになり、ジクジクジク、チーユン、チョン、チーエムなど、いろいろ変化がつく。起きているかい、起きてるよ、というような一種の喧噪に聞こえてくる。7時を過ぎると、声はにわかに落ち着きを取り戻し、宴のあとの雑談よろしく、そこここに散っていく。8時にはエサを求めて出勤していくのだろう。通りがかりのスズメがチュンと鳴きながら、バタバタと飛んでいく音くらいになり、外はかなり静かになっていく。
 たくさんのスズメが来ている日は天気が良く、近くであまり声のしない日は、曇りか雨になる。
 著者が全盲であるのを知ったのは、このあとのくだりを読んでからでした。耳だけでよく観察しているなと感心したものでした。著者が全盲になったのは4歳のとき。眼圧を下げる手術によって、一日で光を失ってしまったのです。
 カナリアはひどい寂しがり屋で、そばでチイとつぶやくと、何回でもチイという地鳴きを返してくる。
 鳥は、神様のハシ休めだと思う。小さかったり、弱かったり、またワシやタカののように空の王者と言われても、生態系の頂点の微妙な場所にいる繊細な生きものだ。でも野鳥がいなければ、地球の生活はどんなに無味乾燥なことだろう。
 森の中で、自分が今どんな地点にいるかを知るためには、まずしゃがんで、できるだけ低い姿勢をとりながら耳を澄ますこと。しゃがまなければ、手に入れることのできる情報量は半分ほどに減ってしまう。
 いま、著者が聞き分けられる鳥の鳴き声は100種を超えるそうです。鳥の歌を、そのまま耳に残して覚えたものといいます。すごいですね。
 ソウシチョウは一羽ずつ歌が違うので、簡単に区別がつく。
 ええーっ、そうなんですかー・・・。著者の家ではソウシチョウをゲージの中で飼い、また、放し飼いにしていたとのことです。時間になると、きちんと戻ってくるといいます。たとえば、昼ごろに放すと、午後3時ころに戻ってきて、とまり木にお座りしているというのです。頭がいいし、可愛いですよね。
 ソウシチョウは水が好きな鳥で、水を入れ替えてやると、間髪を入れずに水浴びを始める。しかも、水浴び用と飲み水用の水入れは自分でつかい分ける。水浴びのときでも、必ずくちばしで水質を確かめる念の入れようだ。うむむ、小鳥がそこまでやるのですか。
 ソウシチョウは、自分の名前は一ヶ月で聞き分けて寄ってくる。一羽ずつまったく違う歌を十数種も生み出していく。放し飼いにすると、人間が探しているのを見て、先回りして家に帰っていたりする。ええーっ、ウソでしょ。と言いたくなるような話です。ホントなんでしょうが、まるで信じられません。
 わが家の庭にやってくるのはスズメのほかは、例のあのうるさくて厚かましさ天下一品のヒヨドリ、そして図体のでかいキジバトです。ときどき白と黒のツートンカラーのカササギも庭におりたちますが、何を食べているのか、よく分かりません。春先にはメジロもやってきます。ウグイスは来ますが、姿が目立ちませんので、見たことはありません。
(2002年2月刊、830円+税)

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2007年8月10日

朝鮮戦争スケッチ

朝鮮(韓国)

著者:キムソンファン、出版社:草の根出版会
 「コバウおじさん」で有名な金星煥氏が朝鮮戦争を体験して描いた画(スケッチ)集です。
 韓国では朝鮮戦争は6.25戦争とも呼ばれます。1950年6月25日に北朝鮮が韓国へ侵攻して始まった戦争だったからです。金日成の指揮する北朝鮮軍は、3日目の6月28日にはソウルに到達しました。前日の27日に、ソウルにあった政府と国会は、「ソウル死守」を呼号していたのですが、その舌の根も乾かぬ28日午前2時に大韓民国政府首脳陣は漢江を渡ってソウルを脱出し、その1時間後に漢江橋を爆破してしまいました。その結果、大勢のソウル市民がソウルを脱出できませんでした。いつの世も、為政者(支配者)は我が身の安全が第一で、民草の生命はあとまわしなのですね。著者は当時、高校3年生。この様子をソウル市内で目撃し、スケッチしています。
 このとき私は、太陽がさんさんと照りつける真昼に漆黒のような暗黒を見た。絶望にあえいだ戦中の3年間、歴史とはどのようなもので、何のためにそれを反芻せねばならないのかについて、深く考えざるをえなかった。この戦争スケッチは、すばらしい美術作品とは言えない。ただ、苦難の時代を経験した人びとの記憶を残し、思い返すため、そして当時まだ生まれていなかった若い世代に、過去の実相を知るために参考になれば、と願う。
 たしかに、写真とはまた違って、同胞が殺しあった朝鮮戦争の惨禍が生々しく再現されています。キムさんは、今も健在です。
 中肉中背、がっしりとした体格で、ごくフツーのおじさんといった感じ。ほとんど日本人といってもいいほど、うまい日本語を話す。
 6月28日にソウルに入城した北朝鮮軍はトラックが不足していたらしく、その一部は木の枝で偽装した牛車に乗っていた。その、場違いにのどかな光景は笑わせます。
 北朝鮮軍による国軍兵士狩りが始まります。捕まって真っ白になった捕虜の顔も描かれています。市内には、双方の兵士と民間人の死体が散乱しています。
 北朝鮮軍の鉄カブトは、第二次世界大戦中にソ連軍のつかっていたもの。小銃に装着されていた槍も同じで、長くて鋭いものだった。
 やがて、アメリカ軍が9月15日、仁川に上陸し、反攻が始まります。北朝鮮軍兵士たちが武器を捨てて敗走していきます。その直後の9月13日夜、彼らの死の行軍の様子が描かれています。
 しかし、アメリカ軍が仁川に上陸してソウルに到達するまで20日間かかりました。ソウルをアメリカ軍が完全に支配したのは9月28日の夕方5時ころ。その状況も描かれています。
 そして、1950年12月、中国軍が参戦します。1951年1月4日、アメリカ軍はソウルから脱出します。これを1.4敗退と言うそうです。
 著者は、最前線の将兵の顔をスケッチします。まさに童顔の兵士もいます。
 朝鮮戦争の実情の一端を紹介する貴重なスケッチ集です。
(2007年6月刊。5800円)

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中世しぐれ草子

江戸時代

著者:高橋昌男、出版社:日本経済新聞出版社
 江戸時代には、「南総里見八犬伝」などのようなスケールの大きい小説があります。この本で紹介されるのは、徳川九代将軍家重から次の家治のころ、寛延・宝暦(1748〜1764)に上方で読本(よみほん)なるものが流行し、やがて江戸の空想好きの読書人の心をとらえた。
 本書は、その一つ、「恋時雨稚児絵姿」(こひしぐれちごのえすがた)を現代語に翻案したもの。それが、なかなかに面白いのです。
 ときは鎌倉末期。ところは京都市内外。老獪な堂上公卿や血気の公達が、大覚寺統と持明院統の二派に分かれて策をめぐらし、刃を交える。
 正親町(おおぎまち)侍従権大納言公継(きんつぐ)卿には、右近衛将監(しょうげん)公幸(きんさち)という19歳の息子と、しぐれと呼ぶ姫君があった。
 しぐれが内侍司(ないしのつかさ)の一員として松尾帝のお傍近くに仕えて、主上の眼にとまったとしても、父の公継卿が従三位の権大納言と身分が低いから、源氏物語の桐壺と同様、中宮はおろか、女御より下位の更衣どまりで終わるだろう。そうは言っても、しぐれの局の美貌は、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)のあいだでは評判の種だった。このしぐれをめぐって大活劇が展開していきます。
 私は、この本は、本当に江戸時代の読本の現代語訳なのか、ついつい疑いながら読みすすめていきました。それほど、策略あり、戦闘場面あり、そして恋人同士の葛藤ありで、波乱万丈の物語なのです。すごいぞ、すごいぞと思いながら、ときのたつのも忘れるほど車中で読みふけってしまいました。
 江戸時代の人の想像力って、たいしたものですよ、まったく・・・。
(2007年6月刊。1890円)

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清冽の炎(第3巻)

社会

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 この第3巻は、1968年11月と12月に東大闘争で何が起きたのかを取りあげています。当時、全国の学園闘争の天王山として東大闘争が取りあげられていたこと自体は歴史的な事実として間違いありません。では、いったいなぜ東大闘争が全国の天王山だったのか、改めて問われると、それにこたえるのは難しいところです。全国いたるところで学園闘争が起きていたのに、なぜ東大だけが突出して目立ったのか、ということです。日大闘争はもっと学生の規模が大きいし、早稲田も中央も法政でも、血で血を洗うような深刻な学園闘争が長期にわたって続いていました。いえ、上智大学も慶応大学だって学生は立ちあがっていましたよね。いえいえ、関西もあります。京都大学でも立命館でも同志社でも、学生は起ちあがりました。そんなことを言うなら、北は北海道から南は九州・沖縄まで、揺れ動かない大学が当時あったでしょうか。いったい、その目的は何だったのでしょうか。学生は何を目ざしていたのか、その要求は勝ちとれたのか、そもそも社会変革の手段に過ぎなかったのでしょうか。否、否。社会に対する異議申立にすぎなかったのでしょうか・・・。考えれば考えるほど、分からなくなる問題です。
 しかし、40年前に起きていた歴史的事実を歪曲するのはやめてほしいと思います。『安田講堂1968〜1969』という本があります(中公新書。2005年11月刊)。著者は安田講堂に籠城して懲役2年の実刑を受けた元全共闘メンバーです。今は、サルの研究員で、『アイアイの謎』などの本を出していて、私も何冊か読み、ここでも紹介したことがあります。この『安田講堂』は全共闘の立場からの本ですが、事実を歪めています。たとえば、次の点です。
 1968年11月12日。全共闘は東大本郷の総合図書館をバリケード封鎖しようとして失敗しました。このとき、全共闘のバリケード封鎖を阻止したのは、この本では「宮崎学らが指揮する『あかつき部隊』500人」であるかのように書かれています。とんでもありません。
 この本の138頁には当時の写真も紹介されていますが、その説明として、「左、日本共産党系“あかつき部隊”。右、全共闘。持っている棒の大きさと密集度の違いを見られたい。日本共産党系部隊には統制があった」とあります。この写真にうつっているのは、私もその場にいたので確信をもって言えるのですが、駒場の学生です。密集度の違いというのは、写真のとおり確かにあります。しかし、それは駒場の学生がそれだけ大勢いたということ、そして、全共闘のゲバ棒が怖くてみんなで押しくらまんじゅう状態に固まっていただけのことなのです。この写真には、後方に、もっともっと大群衆がいて、衝突を見守っていることも分かります。全共闘は最前線の何人かの学生こそゲバ棒をふるって駒場の「民青」(実は民青だけでなく、中間派も大勢いた)にぶつかっていますが、あまりの集団(数の違い)にひるんで、それ以上、突っこむことはできませんでした。見物していた大群衆の大半は、全共闘の無法な暴力を止めさせる側に立って、このあと動いたのです。
 この本では、「樫の木刀」をもった“あかつき部隊”が指揮者の笛のもとで全共闘をたちまち撃退したかのようにかかれています。しかし、そんなものではないことは、「清冽の炎」第3巻の11月12日のところで書かれているとおりです。
 宮崎学の『突破者』を読んで、私も知らなかったことをいろいろ教えられました。しかし、「全都よりすぐりの暴力部隊」である「あかつき部隊」500人が図書館で全共闘を撃退したという記述は歴史的事実を歪曲するものとしか言いようがありません。
 『アイアイの謎』などを読んで客観的事実を熱意をもって伝えようとする著者に好感を抱いていただけに残念でなりません。著者は、あまりに『突破者』に毒され、目が曇らされてしまっていると思います。
 「清冽の炎」第3巻に書かれていることがすべて正しいとは思われませんが、この『安田講堂』は中公新書という由緒あるものの一冊で、影響力も大きいので、あえて苦言を述べさせてもらいました。
 そんなわけですから、みなさん、「清冽の炎」第3巻をぜひ読んでください。
(2007年7月刊。1890円)

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銀漠の賦

江戸時代

著者:葉室 麟、出版社:文藝春秋
 第14回の松本清張賞を受賞した作品です。なるほど、なかなかよくできていると感心しました。
 江戸時代の藩内の政治が語られます。百姓一揆もあります。藩主交代による政争があります。いかに英邁な藩主であっても、その子どもが成長すると、安穏ではいられません。息子を藩主として擁立し、父親を早く隠退させようとする勢力が出てきます。
 藩の経済状況の改善も重要な課題です。新田開発、そして、商人の活用が重要な施策となります。しかし、それは商人との癒着を生み、賄賂政治につながります。田沼政治は悪政だったのか、その次の定信の寛政の改革は善政だったのか、難しいところです。
 この本は小説なので、アラスジを紹介するのは遠慮しておきます。印象的にいうと、山田洋次監督の最近のサムライ映画・三部作の原作である藤沢周平の小説をもう少し明るくして、青春時代小説「藩校早春賦」(宮本昌孝、集英社)のイメージをつけ加えた感じです。
 暮雲収盡 溢清寒
 銀漠無声 転玉盤
 此生此夜 不長好
 明月明年 何処看
 日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、銀河には玉の盆のような明月が音もなくのぼる。この楽しい人生、この楽しい夜も永遠に続くわけではない。この明月を、明年はどこで眺めることだろう。
 著者は北九州に生まれ、西南学院大学を卒業して地方紙記者などを経て作家としてデビューしたとのことです。なかなかの筆力だと感心しました。
 ただ、松本清張賞というより直木賞ではないのかと、素人ながら私は疑問に思いました。

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盗聴二・二六事件

日本史(現代史)

著者:中田整一、出版社:文藝春秋
 2.26事件を新たな視点で掘り下げた本だと思いました。
 2.26事件が始まると、逓信大臣の命令のもとに電話の盗聴が開始された。これは陸軍省軍務局との協議のうえのことだった。しかし、実は、盗聴は憲兵隊によって事件の1ヶ月以上も前から始まっていた。そして、試作段階にあった円盤録音機をつかうことになった。戒厳司令部、陸軍省、逓信省が協力し、了解のもとで盗聴され、録音された。
 2.26事件のとき、戒厳令はすんなり施行されたのではない。この機に乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望の実現を図るのではないかと警戒する人々がいたからである。たとえば、警視庁は強く反対した。海軍も当初は反対した。
 西田税は5.15事件(1923年)のとき、陸軍側の参加を阻止したことから、計画を他にもらす恐れがあるとして血盟団員からピストルで撃たれた。2.26事件については、計画から決行・終結に至るまで終始、部外者の立場にあり、むしろ事件を起こすのには反対だった。
 盗聴記録によると、誰かが北一輝の名を騙って電話をかけている。謀略が進行していた。偽電話をかけたのは戒厳司令部の通信主任の濱田大尉であった。
 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が2.26事件の首謀者であるという図式に固執していた。2.26事件の軍事裁判にあたっては、青年将校に激励の電話を入れたにすぎない北一輝と西田税を極刑に処すというのが初めから陸軍中央の方針であった。北と西田が悪いんだ。青年将校は、単にくっついていっただけ、というわけである。裁判長は北と西田を首魁とするには証拠不十分であるとした。死刑に反対する裁判長と死刑相当という残る4人の判事とで見解が分かれた。
 そのため、10ヶ月も審理は中断し、昭和12年8月13日、弁論再開、証拠調べ終了、8月14日、判決宣告、8月19日に死刑が執行された。銃殺刑であった。北は54才、西田は36歳だった。同年9月25日、真崎甚三郎大将には無罪の判決が下された。
 これは、いかにもひどい政治的な裁判ですよね。判決宣告して、わずか5日後に死刑執行だなんて、まさしく日本は軍部独裁体制にあったのですね。おー怖い、怖い。
 陸軍は、事件処理に名をかりて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となった。
 防衛庁が防衛省に昇格してしまいました。アメリカ軍に隅々まで統制されている自衛隊は、自民党の改憲案(新憲法草案)では自衛軍になるということです。軍部独走を果たして止められるでしょうか。軍事裁判所は司法権の独立を貫くことができるでしょうか。心配になるばかりです。

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ヤモリの指

著者:ピーター・フォーブズ、出版社:早川書房
 自然界の生物が実はトンデモナイ能力をもっていて、それを人間が少しずつ模倣し、技術として生かそうとしていることが紹介されています。生き物って、ホント、超能力者の集まりなんですね。
 クモの糸の強度は、軟鋼の半分。だが、鋼鉄の密度はクモの糸の8倍なので、単位重量あたりの負荷で考えると、クモの糸は、鋼鉄の6倍の強度をもっていることになる。それにクモの糸は、伸延性の点でも鋼鉄よりも優れていて、切れることなく30〜40%も伸びる。伸延性はナイロンに比べて2倍、ケブラーの8倍ある。そして、クモの糸の特殊性は、伸延性があると同時に強靱でもあるという点にある。輪ゴムはクモの糸よりもよく伸びるが、引張強度はとても低い。クモの糸は、並外れた伸延性と、高い引張強度をあわせもつ唯一の物質である。
 一匹のクモは、最高7種類までの糸をつくることができる。
 クモは、恐竜の登場する前から、4億年以上にわたって、この世に存在している。
 ヤモリは、片方の手のひら一面にヤモリテープを付けるだけで、人間ひとりが天井からぶら下がることが可能になる。
 ステルス攻撃機は、なぜ、敵から見つかりにくいのか?
 ステルス攻撃機は、マイクロ波を反射しないようにしなければならない。そのため、ステルス攻撃機の形状には、曲線部分が一切ない。レーダーからのマイクロ波を反射してしまうような角度は、一時には、ごくわずかしか存在しない。レーダーに映ってしまうのは金属部分であるが、F117の反射性の機体表面は、たいがいの角度からレーダーにとらえられないようになっているうえに、ステルスの表面加工のおかげで、レーダーの発信信号のほとんどは金属部分に届かないようになっている。
 なーるほど、そういうことだったのですか・・・。それなりに厚味のある機体がなぜレーダーに映らないのか、前から不思議に思っていましたが、ようやく謎が少し解けた思いです。

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2007年8月 9日

ブッシュのホワイトハウス(上)

アメリカ

著者:ボブ・ウッドワード、出版社:日本経済新聞出版社
 ブッシュにとって、直観は第二の信仰にひとしい。わたしは教科書どおりにはやらない。勘でやるんだ。これは、ブッシュの言葉です。あまりたいした勘ではありませんよね。
 ブッシュ大統領は、ブッシュ・シニア(パパ・ブッシュ)と典型的な父と子の確執があった。50年以上にわたる父と息子の緊張関係、愛・喜び、ライバル意識、失望という、傍目(はため)に分かりにくい微妙なものも、あからさまなものもあった。
 モルモン教徒であるスコウクロフトの推測によると、ブッシュは、45歳まで自分が何者か分かっていなかった。それが今、大統領になった。恐るべきことだった。
 2001年7月10日、CIAのテネット長官は、アルカイダが近々アメリカを攻撃する可能性が強まっていることを会議の席上、報告を受けた。48歳のテネット長官は夜もおちおち眠れなくなった。確実な情報は得られていないが、データの量は莫大だった。なにかが起きると、情報機関の長としての勘が告げていた。
 NSAは、ビン・ラディンの配下の不気味な会話を傍受していた。全部で34件あった。ゼロ・アワー(決行時刻)は近いという不吉な宣言や、めざましい出来事が起きるというきっぱりした言葉が聞かれた。
 国家安全保障会議の全体秘密会議で、ビン・ラディンに対する武力行使が検討された。ヘルファイア対戦車ミサイルを発射できるプレデター無人機で、ビン・ラディンとその副官たちを暗殺するという計画だった。秘密工作の予算は5億ドル。ビン・ラディンの殺害を許可するという大統領のサインがあれば実行されただろう。しかし、予算をどこが出すのか、ミサイル発射の権限はどこがもつかで、CIAは国防総省と激しく論争した。
 2002年1月18日、ブッシュ大統領は、身柄を拘束しているアルカイダやタリバンのテロリスト容疑者にはジュネーブ条約を適用しないことを決定した。彼らは不法な戦闘員であり、戦時捕虜ではないから、ジュネーブ条約によっては守られていない、と宣言した。しかし、これでは、捕虜になったアメリカ人将兵の虐待を引きおこしかねない。アメリカ政府部内でも異論がおきた。
 そこで、ジュネーブ条約は、タリバン兵の被拘束者には適用されるが、アルカイダの国際テロリストには適用されない。ただし、タリバン兵は戦時捕虜とはみなされない。こんな声明がなされた。
 なんだか、分かったようで分からない声明です。ウソかホントか分かりませんが、フセイン元大統領の次のような言葉が紹介されています。
 わたしは、目を見れば、その人間のことが分かる。忠誠かどうか見分けられる。瞬(まばた)きをしたら、そいつは裏切り者だ。そうしたら処刑する。裏切り者かどうかがはっきりしなくても、裏切り者を見過ごしてしまうよりは、殺しておいたほうがいい。
 ムムムッ、ホントにこんなことを言ったのでしょうか・・・。でも、いかにも、ありそうですね。
 CIAのテネット長官は、腹心の部下にこう言ったそうです。
 自分の勘では、イラク侵攻は適切とは思えない。ブッシュ政権上層部は、イラクに侵攻して政権を倒せばいいと考えているが、あまりにも考慮が浅い。まちがいだ。正気の沙汰じゃない。
 しかし、テネット長官はブッシュ大統領にこの自分の意見を進言しなかった。
 テネット長官はブッシュ大統領に訴えた。イラク国内のアルカイダ支援にサダム・フセインの「権限、指示・統制」がある証拠は何もない。チェイニー副大統領はフセインとアルカイダとの結びつきをことさら強調する演説をしようとしているが、CIAは、それを支持できないし、支持するつもりもない。ブッシュは、このときテネットの肩をもった。
 こんなブッシュ大統領がリーダーのアメリカに日本がいつでも、まるで言いなりなんて、もうそろそろ止めましょうよ。
 お気づきのかたもおられると思いますが、この書評を愛読していただいている大坂の石川元也弁護士より、本の発刊日と値段を書いてほしいとの要望が寄せられましたので、なるべく末尾にのせるようにしました。
(2007年3月刊、1890円)

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2007年8月 8日

マングローブ

社会

著者:西岡研介、出版社:講談社
 驚くべき事実を紹介した本です。あの東京・山手線がテロリスト集団に完全に牛耳られていて、警察はそれを知っているのに何も手を出さず、マスコミはタブー視して事実を報道せず批判することもないというのです。日本を裏で支配しているのはヤクザ(暴力団)かと思っていましたが、もう一つの暴力集団がいたのですね。ショッキングな事実でした。
 しかも、その暴力集団の親分たち(ファミリー)は、ハワイや日本各地に豪邸をかまえていて、優雅な生活を送っているというのです。読んでいるうちに本当に腹が立ってきました。
 「革マル派」と大書きした横断幕を久しぶりに見たのは、この5月、博多駅近くのホテル前のことでした。このとき、ホテルで国民投票法案をめぐる公聴会があり、私も弁護士会の一員として傍聴に出かけたのです。20人ほどのヘルメットをかぶった必ずしも若くない男女がいて、シュプレヒコールを叫んでいました。ええーっ、まだ福岡にもいたのか、革マル派って・・・、と思いました。私の大学生のころは、たしかによく見かけました。中核派などと残虐な殺しあいをくり返していて、まさしく恐ろしいテロリスト集団でした。
 革マル派の最高指導者は、昔も今も松崎明、71歳。自宅としている埼玉県小川町のマンションに住民票はおいているものの、対立セクトや警察に居場所を知られないよう、 25年以上ものあいだ、その所在地を転々とさせてきた。警察当局も松崎明の居場所をつかむのは難しかった。ところが、この松崎明はハワイに高級コンドミニアム(マンション)や邸宅をかまえていた。
 ハワイにある松崎明の所有する高級コンドミニアムは、300平方メートル。浴室が2つ、寝室は3つある。2004年4月に3780万円(31万5000ドル)で購入した。もうひとつ、庭付きの一戸建て住宅も所有した。930平方メートルのうち800平方メートルが庭。浴室は2つ、寝室は3つある。1990年に2360万円で購入した。  2005年に売却している。
 群馬県嬬恋村には高級別荘が点在する。ここに松崎明らのようなJR東日本労組のトップ連中が数多く別荘をもっている。
 革マル派には、今も、全国に5400人のメンバーがいる。JRには、トラジャとマングローブという名前の2つの秘密組織がある。これらが、JR東日本を、トップの経営陣から現場の社員に至るまで、全員をマインドコントロールしている。
 トラジャは、動労の革マル派が、組合活動家を抜擢し、革マル派本体に送りこみ、職業革命家としての訓練を受けさせたグループ。JR革マル派のトップ組織で、マングローブの指導などにあたる。
 マングローブは、分割民営化後のJR各社の労働組合における革マル派の組織防衛と拡大を目的にJR革マル派内部でつくられた組織である。
 革マル派がJR東日本を支配するようになったのは、国鉄改革から。改革3人組は、国労とたたかうために、国労の敵である松崎明のひきいる動労と手を組んだ。
 JR東労組の組合費は年に9万2400円。JR西労組より年に3万円も組合費が高い。
 革マル派の内ゲバは、決して30年前とか40年前のことではない。1980年9月から1995年11月まで、死亡者7人、重傷者7人という大変な被害者を出している。そして、驚いたことに、JR東日本の経営陣は、内ゲバで死亡した革マル派活動家の葬儀を労組と合同で行った。このとき、JR東日本の住田社長本人が参列して弔辞を読みあげたというのですから、開いた口がふさがりません。
 JR東日本の最高幹部が革マル派の排除に乗り出そうとすると、革マル派から警告があった。自宅のプロパンガスの周囲に大量のマッチがばらまかれる。幼い孫がさらわれて幹線道路の中央分離帯に置き去りにされたりした。恐ろしいことです。
 革マル派の活動家は、自党派の活動家としか結婚しない。そして、子どもは革命の妨げとなるとして、ほとんど子どもをつくらない。ところが、松崎明には、子どもどころか、孫までいる。
 革マル派は盗聴集団でもある。警察の摘発した浦安アジトでは、警察無線を傍受するため、市販のものを改造した無線機12台、デジタル無線にかけられた暗号解読・再生機が11台、解読された無線内容を記録する録音機20台があり、6人の女性活動家がデジタル無線を傍受していた。警察庁など、20都道府県の警察無線を24時間態勢で傍受していた。
 JR東日本の革マル派問題はマスコミではタブーになっている。JR東日本はキヨスクという販売の流通網を握っている。これはマスコミにとって、大切な収入源である。
 そして、革マル派は、その顧問に元警察庁の幹部をひきいれた。JR東日本の初代監査役である柴田義憲は警視庁公安部長、副総監になり、警察庁警備局長になった超大物警察キャリアである。それがJR東日本に入ったとたん、警察から革マル派を守るガードマンになり下がってしまった。そして、警察時代に育てた部下たちをJR東日本に招き入れた。
 ウムム・・・、いったい何事をしているのか?そのお金は本当は組合費として徴収されたものが流用されているのではないか・・・。ショッキングな事実が満載の本でした。
(2007年6月刊。1680円)

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2007年8月 7日

星新一

社会

著者:最相葉月、出版社:新潮社
 星新一のショート・ショートは私の愛読書のひとつでした。子どもたちが学校で学ぶ国語の教科書にもたくさん引用されているそうですが、とてもいいことだと思います。
 その斬新な発想に、いつもハッと居ずまいをただされる思いがしていました。この本は、その星新一の生涯をたどったノンフィクションです。
 星新一は本名を星親一といいます。昭和20年4月、東京帝大農学部に入学しました。専攻は農芸化学、研究テーマはペニシリンでした。星新一の父親は星一といい、星製薬の社長でした。昭和26年、アメリカのロサンゼルスで急逝し、星新一が星製薬を引き継ぐのですが、結局、すべてがうまくいきませんでした。
 星新一の小説はユーモアというか、ブラックユーモアにみちみちています。しかし、家庭内では、子どもたちに冗談を言って笑っている姿を一度も見せたことがないといいます。
 星一と星新一との空の星をめぐる対話が次のように紹介されています。面白いですね。
 「空の星は、どんなに遠くにあっても、そっちに目を向ければ、すぐに実物を見ることができる」
 「それは違うよ。光の速さは1秒に30万キロメートル。だから、今みている星も、10年前、100年前の姿なんだ」
 「なるほど、見る場合はそうかもしれん。しかし、考える場合はどうだ。いま地球のことを考えている。次に遠い星のことを考える。これには何の時間も要しない。だから、人間の思考は光より速いということになるぞ」
 根底から発想を転換することによって固定観念を覆し、新たな地平に目を向ける。目を白黒させた星新一は、このときの父親の言葉を生涯忘れることはなかった。
 私は高校生のとき、『SFマガジン』を愛読していました。といっても、たいていは買って読んだというより、本屋で立ち読みしていました。そのスケールの雄大さ、発想の奇抜さに毎号、胸をワクワクさせていました。
 星新一は、ショートショートを書くにあたって、次の三つの禁じ手を自らに課していました。一つは、性行為と殺人シーンの描写をしない。第二に時事風俗を扱わない。第三に、前衛的な手法をつかわない。
 なーるほど、そう言われたら、そうなんですよね。
 星新一が、SF仲間内での気のおけない会合での放談を聞くと、この人は、親から、そんなことは言ってはいけません、と叱られたことなどなく、自由奔放に育てられたと思う。そして、それは当を得ていて、実際、星新一の放言は母親譲りだった。
 星新一は強烈な毒舌を吐くけれど、相手を不快にさせない。大ボラを吹くけれど、相手を怒らせたり、からまれたりすることはない。同じホラでも洗練されている。うっかり失言してしまった、というものではなく、高度に自覚的な放言であった。
 星新一の筆記用具は、Bの鉛筆。手の力がそれほどもなく書ける濃くて柔らかい。書き損じた原稿用紙の裏面に、タテは原稿用紙サイズいっぱい、横は5センチ幅の細長い長方形、ここに、書き出しから結末まで、起承転結がひと目で見渡せるのが星新一の最初の下書き。小さな文字にぎっしり詰まった長方形を眺め、練り、確信を得たところで、原稿用紙に2度目の下書きをする。このときはボールペンや万年筆をつかい、ミミズのはうような字でマス目を数えながら書きすすめる。壁には当用漢字表を貼り、そこにない漢字は使わない。こうした推敲を経て、編集者に渡すための清書に移る。万年筆で、一文字たりとも書き損じのない完全原稿である。
 私の場合も、出だしだけは同じです。要するに、不要になったコピーの裏(白紙)に手で原稿を書きはじめるのです。ただし、私はエンピツ派ではなく、水性ペン派です。
 星新一の文庫本は、10万部を達成したものがいくつもあります。私は、かなり読んだつもりでいましたが、たちまち自信を喪ってしまいました。
 星新一が祖父のことを書いた『祖父・小金井良精の記』は私も読みましたが、祖父を悪人として描いた松本清張を「許せない」と怒っていたことを、この本を読んで知りました。
 また、星製薬のことを書いた『人民は弱し、官吏は強し』も読みましたが、星製薬が麻薬を扱っていたことにあまりふれていないという批判があることも知りました。
 それにしても、星新一の『ボッコちゃん』が200万部超、新潮文庫全体では累計  3000万部をこえ、今もなお増刷が続いていること、海外20言語以上、のべ650点をこえる翻訳があるというのはすごいことです。
 星新一、偉大なり、と言っていいでしょうね。

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2007年8月 6日

青い光が見えたから

世界(ヨーロッパ)

著者:高橋絵里香、出版社:講談社
 いやあ、日本人の女性って、老いも若きもすごいですね。日本は昔から女性でもっているという実感がますますしてきました。読んでるうちに、なんとなく元気の出てくる本です。サブ・タイトルは、16歳のフィンランド留学記です。そう、あのフィンランドですよ。世界一の教育立国。ノキアの母国、フィンランドです。なんと著者は小学生のころ、ムーミンの本を読んで、フィンランドに憧れたといいます。そして、その初志を高校生になるときに貫徹したのです。たいしたものです。でも、著者の両親も偉いですよね。私は、著者とともに、その両親に対しても盛大な拍手を心から送りたいと思います。日本とフィンランドの親善大使を生んで育てた親に対して、日本人の一人として感謝したい気持ちで一杯です。
 日本の中学生だったころ、著者は、学校と教師が信じられなくなっていた。経験の少ない若い先生たちは体罰や脅しによって生徒に言うことをきかせようとしていた。宿題や教科書を忘れると、こぶしで頭を殴る先生、授業中に生徒が騒がしくなると急に大声で怒鳴ったり、教卓を蹴りたおしたりする先生が何人もいた。
 分かってくれると思った教師のところに、暴力はいけないと思いますと訴えにいったときに言われた言葉は、なんと・・・。
 オレは教師になりたくて、なったんじゃない。
 なんというセリフでしょうか・・・。これでは、日本の将来は真暗ではありませんか。「美しい国」どころではありません。ところが、参院選のとき、自民党は、こんな教育の荒廃をつくり出したのは日教組だと大宣伝していました。とんでもないことです。それは文部省(今の文科省)の責任でしょう。国定教科書をつくり、君が代・日の丸を押しつけ、卒業式で起立して歌わなかったら処分するだなんて脅しておいて、他人のせいにするなんて、みっともない、卑怯でしょう。私は、そう思います。いやあ、いけません。ついつい日本の荒廃した教育環境のことを考えて、怒りのあまり興奮してしまいました。
 フィンランドの学校では、昼食は無料。食堂でセルフサービス式で、好きなものを好きなだけ食べていい。11時から1時くらいまでの間なら、いつでも食べていい。無料なのは昼食代だけではない。授業料もタダ。すべて国の税金でまかなわれている。高校に通ってかかるお金は、教科書代と文房具代くらいのもの。いや、高校だけでなく、大学にも授業料はない。
 試験も日本とは違う。問題文はたいてい一行の文章であり、それに対して授業で習ったことだけではなく、自分のもっている知識をすべてつかって答えを書く。広く、いろいろな観点から考えた答えを書かなければならないので、テストの直前に丸暗記しても効果はない。
 学校は、生徒をお互いに競わせるようなことはしない。試験の結果が出ても、誰が一番良かったなどと先生は口にしない。成績は相対評価ではなく、個人個人の学習の成果に与えられる。だから、ついていけない人がいれば、お互いに助けあることができる。
 卒業試験は、教科ごとに春と秋の年に2回受けられる。しかも、全教科を一度にうけるのではなく、受ける科目の必修コースの単位が全部とれていたら、いつでも試験を受けていい。おまけに、卒業は入学してから3年後と決まっているわけではない。半数以上の人は3年間で卒業していくけど、4年間や3年半、また2年で卒業していく人もいる。著者はフィンランド語の勉強から始めて、なんと4年間で無事に高校を卒業できました。すごーい。パチパチパチ。盛大な拍手を送ります。
 高校を卒業してもすぐに大学へ進学するとは限らない。アルバイトに精を出したり、海外へ行って1年間の休暇をとって過ごす人もいる。
 小中学校、そして高校と休む間もなく勉強を続けてきたので、次の課程に進む前に一休みしようというケースはフィンランドでは珍しくはない。一年間、とくに何もせずに自分と向きあう時間をつくり、将来、自分がどういう道を歩いていきたいのか、もう一度考えなおす期間にする人が少なくない。
 フィンランド語をゼロから学び、高校生として4年間を過ごして立派に卒業し、著者は今やフィンランドの大学生です。すごく励まされました。人生には無限の可能性があることを実感させてくれる本でした。

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2007年8月 3日

打ちのめされるようなすごい本

社会

著者:米原万里、出版社:文藝春秋
 著者は食べるのと歩くのと読むのは、かなり早かったそうです。でも、前の二つは周囲から顰蹙を買ってしまいます。母親から、他人と歩いたり食べたりするときは、相手にペースをあわせ、時空間の共有を楽しむようにと、幼いころから口うるさく言われたとのこと。これって、なーるほど、ですよね。ところが読書は、いくら速くなっても、はたから文句を言われることがない。そこで、この20年ほど、一日平均7冊を維持してきた。うむむ、これはスゴーイ。速読派を自認する私でもこのところ年間500冊が精一杯です。東京往復するときは最低6冊が自分に課したノルマです。ただし、速読派が必ずしも知性派とは限らない例を知りました。スターリンです。
 スターリンは激務の合間に1日500頁を読破する読書家で、歴史、小説、哲学など幅広く大量の書物を熱心に読んでいた。本の余白に残したコメントや感想が並々ならぬ教養と知性、と同時に冷徹で酷薄な現実主義を感じさせる。『知られざるスターリン』(現代思潮社)の書評として、このように紹介されています。
 いずれにしても、著者の書評を集めたこの本を読んで、つい食指を動かしてしまった本がいくつもありました。早速、本屋に注文しました。私はインターネットで本を注文することはしない主義です。だって、町の本屋さんは大苦戦しているのですよ。町にある本屋さんを残してやらないと、本屋のご主人だけでなく、子どもたちが可哀想です。子どもたちの大好きな立ち読みができなくなってしまうでしょ。
 すぐれた書評家というものは、いま読みすすめている書物と自分の思想や知識をたえず混ぜあわせ爆発させて、その末にこれまでになかった知恵を産み出す勤勉な創作家なのだ。著者と評者とが衝突して放つ思索の火花、わたしたち読者は、この本によってその火花の美しさに酔う楽しみに恵まれた。
 書評は常に試されている。まず、その書物を書いた著者によって、その書評に誘惑されて書物を買った読者によって試されている。
 世の中に割に合わない仕事があるとすれば、書評はその筆頭株、よほどの本好きでないと続かない困難な作業である。
 以上は井上ひさしの文章です。なるほど、さすがは私が心から尊敬する井上ひさしです。言うことが違います。私もインターネットに書評をのせはじめて、もう6年目になりました。一日一冊となってからも4年目だと思います。たしかに、よほどの本好きだからこそ続く作業です。
 それにしても、本当に惜しい人を亡くしてしまいました・・・。著者にはもっと長生きして、大活躍を続けてほしかったですね。
 日曜日の午後、久しぶりに昼寝しました。わが家の庭のすぐ下は広々とした一枚の田圃になっています。稲の苗もずい分と大きくなりました。水面をわたって吹いてくる風に吹かれながらの昼寝です。我が家にはクーラーはありません。大学生のころ、司法試験の勉強のために、長野県戸狩市にある学生村に一週間ほど行ったことがあります。そのときも午後は毎日昼寝していました。気だるい真夏の昼さがりに昼寝しながら、大学生気分にも浸ったことでした。ところで、夏の学生村って、今でもあるのでしょうか・・・。

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声と顔の中世史

日本史(中世)

著者:蔵持重裕、出版社:吉川弘文館
 日本人は、訴訟沙汰という言葉があるように、昔から裁判が嫌いだった。そんな俗説が常識となっています。でも、とんでもありません。聖徳太子(果たして実在の人物なのか、という疑問を投げかける学者もいますが・・・)の十七条憲法に「和をもって貴しとなす」というのは、それだけ当時の日本人が争いごとを好んでいたことを意味します。そのころも訴訟好きの日本人が、たくさんいたのです。
 この本を読むと、中世の日本人がいかに訴訟を好んでいたか、よく分かります。ただ、今との違いは、弁護人というか職業としての代理人がいないことです。
 『日本書紀』によると、孝徳天皇元年(645年)に、訴える人は伴造(とものみやつこ)など所属する集団の長を通じて名前を記して訴状を書いて函(はこ)に投じて訴え、あつめる役人が毎朝これを取り出して天皇に上奏する。天皇は群卿に示したうえで裁断するというシステムだった。天皇が訴を正当に扱わないときは、訴人は鐘(かね)を打ち鳴らした。
 称徳天皇の天平神護2年(766年)は、律令制国家になっていたが、朝廷のある壬生(みぶ)門で口頭による訴が認められた。
 道長の『御堂関白記』によると、陽明門での大音声での訴があった。これは、天子・官人への訴であるが、同時に平安京の人々への訴でもあった。恐らく口頭による訴を受けて役所ないし官人が訴状を作成したものと思われる。そこで百姓申状が多数のこっている。ただし、夜の訴は認められなかった。その理由は、夜の訴だと訴人が誰か不明だからである。匿名による訴は認められなかった。政敵による謀訴を招くからだった。
 先日、東京地裁へ行きました。門前で一人の男性が坐ってハンドマイクで判決の不当性を大きな声で訴えていました。これって平安時代以来の日本の伝統なのですね。
 鎌倉中期以降、徳政が重視され、裁判制度の充実(雑訴興行)が重視されるようになった。それは、民間での寄せ沙汰、大寺社の強訴(ごうそ)、幕府の裁判制度の充実に対応するものだった。
 鎌倉幕府は、裁判・訴訟の系統を雑務(ざつむ。債権・動産関係)沙汰、検断(けんだん。刑事関係)沙汰、所務(しょむ。所領関係)沙汰の三つに分けた。所務沙汰では、訴状と陳状(答弁書)を3回やりとりする三問三答がおこなわれた。裁許は、引付(ひきつけ。判決草案を作成する役所)頭人より勝訴者に渡される。裁判結果の救済措置もあり、越訴(おっそ)、手続きの過程には庭中(ていちゅう。直訴)があった。
 このように幕府の訴訟制度は、基本的には徹底した文書主義だったが、口訴の訴も認められていた。
 織田信長時代の天正8年(1580年)のこと。貝を吹くというのは刑の執行の告知。貝によって人を集め、その場で罪名を口頭で告知し、たとえば家を焼いた。口頭音声の罪状告知によって、刑は執行の正当性が確認される。
 なーるほど、ですね。日本人は昔から裁判手続を重視し、裁判を為政者は大切にしてきたのです。

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清冽の炎(第3巻)

社会

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 第3巻が7月に刊行されました。さっぱり売れずに最終巻(1968年4月から1969年3月までを5巻、その20年後を6巻とする構想です)まで到達できるかどうか、著者も出版社も心配しています。ぜひ、みなさん応援してやってください。前回に引き続き、第2巻のあらすじを紹介します。
 駒場では代議員大会が無期限スト突入を決定した。
 民主派と敵対する三派連合の呼びかけで、安田講堂に3000人の学生が集まり東大全学共闘会議が結成された。東大全共闘は七項目要求を掲げつつ、東大生であることを否定せよ、全学バリケード封鎖で東大を解体せよと叫び、影響力を広げていった。
 佐助が一員となった若者サークルは、丹沢へ一日キャンプに出かけて交流を深めた。セツラーは、その取り組みを議論し、評価して総括文にまとめあげていく。そして青年部や子ども会といったパートに別れて活動している全セツラーが集まって徹底的に討論する。夏合宿は奥那須の三斗小屋温泉で四泊五日の日程だ。日頃の地域での実践を交流しあい、人生を語りあう。楽しいなかにも生き方への厳しい問いかけが不断にかわされる。さらに、北町セツルメント内にある路線の違いが表面化してきた。地域を革命の拠点をしようという過激な主張が登場してきたのだ。
 安河内総長は紛争収拾策として8月10日に告示を発表した。しかし、それは従来の延長線上でしかなく、学生を失望させた。
 子ども会は北町に泊まりこんで地域での集中実践合宿に取り組んだ。地域内にある矛盾がかなり見えてきて、北町に住みこんで活動しようというセツラーが少しずつ増えていく。何かをつかみたい。それを将来に生かしたいと考える学生たちだ。
 そんななかで中学生の子どもたちが家出する事件が起きた。しかも、そのあとセツラーが子どもに殴られる事態へと発展していった。セツラーの危機が迫った。
 駒場では要求解決の展望が見えないまま、多くの学生が登校せずネトライキ状態が続いている。なんとかしなくてはいけないという思いが、第三の潮流としてのクラス連合の結成につながった。しかし、代議員大会では相変わらず、民主派と全共闘の勢力が伯仲して、膠着状態が続いている。民主派は戦闘的民主的全学連をモットーとしてかかげ、全共闘に対して正当防衛権を行使する方針をうち出し、九月から実践しはじめた。
 佐助は夏合宿以来、ヒナコが気になっている。思い切ってデートを申し込んだ。しかし、進路については依然として定まらず、不安なままだ。
 第2巻は2006年11月刊、1,890円。第3巻は2007年7月刊、1890円。

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2007年8月 2日

がんのウソと真実

著者:小野寺時夫、出版社:中公新書ラクレ
 著者は外科医で、消化器がんが専門の医師です。そして、自分も奥様もがんにかかり、手術や放射線治療を経験しています。医師として、がんで亡くなった患者を2000人以上もみてきたそうです。その経験にもとづく本ですので、かなりの説得力があります。
 今の日本における死因は、がんがもっとも多く、3人に1人。65歳以上だと2人に1人の割合になる。
 日本では、高度進行がんに手術をやりすぎ、逆に放射線治療をやらなすぎる傾向がある。高度進行がんに対する抗がん剤療法のやりすぎは、短い余命をそのために苦しみながら過ごさせるという悲惨な結果を招いている場合が少なくない。また、がんの痛みをガマンしている人は早死にするというのは、今では世界的常識になっている。日本では、苦痛の緩和が不十分なのに、延命治療に熱心すぎる。
 ほとんどのがん死は、亡くなるまでに年月がある。そもそも、がんの予後を正しく予測することは困難。しかし、治る可能性が高いのか低いのかは、予測できる場合のほうが断然多い。
 人は、どんなに高齢になっても、がんで助からないと分かって、年齢だからやむを得ないと、死をすぐ受容できる人などいない。告知を受けた人は、最初のショック、落ちこみから、いろいろな心情的苦悩を経て、早い遅いの違いはあっても、やがて、その人なりの心の平穏を得るようになる。人は死を意識してから、人として急成長することが多い。
 がんは、死因となるほかの病気とは、性質がまったく異なる。がんは、誤って発生したのではなく、もともと人の生命をコントロールするように仕組まれている。がんは他の病気と違って、注意しても予防できない運命的要素が強い。がんは、半年前とか1年前に発生したということはなく、20年も30年も前から始まっている。
 進行したがんは、目に見えるリンパ節やがんの周辺の組織をどんなに広く切除しても、目に見えないがん細胞がどこかに転移しているため、早かれ遅かれ再発する。
 高度進行がんについて、何の治療もしないのに、良好な状態で驚くほど長く生存する人が思ったより大勢いる。手術したものの数ヶ月内に再発した人のほとんどは、最初から手術適応がなかった。
 患者には化学療法を積極的に行ない、高度進行がんでも積極的に手術する医師が、自分の親が進行がんのときには、化学療法も手術もしなかったという例がいくつもある。
 なーんだ、そういうことだったのか・・・。そんな思いがしました。
 がん手術に名医はいない。名医が手術したらがんが治るというものではない。がん治療医に必要なのは、経験と適切な治療法の判断力、そして豊かな心情である。
 がんの免疫療法は、残念ながら、まだ研究段階にあり、実用にはほと遠いのが現実。
 がん細胞は異物だといっても、もともと人体にある細胞が遺伝子の異常で形や性質に違いを起こして生じたもの。がん細胞ががん抑制遺伝子の作用が弱いために生き残っても、ほとんど免疫力で死滅してしまう。がんができたというのは、自分の遺伝子を変えることで、免疫力の攻撃を逃れ通したツワモノ集団ができたということ。免疫力をくぐり抜けて出来たものを、免疫力の強化でなおそうというのが免疫療法である。だから、効果は期待できない。
 つまり、もともと免疫力を逃れてがんになっているので、がん細胞は免疫力に対する強い抵抗力をもっている。
 がんの末期患者は、なんでもいいから、好きなものを食べたほうがいい。食べ物の内容にあまりとらわれ過ぎてはいけない。余命の限られている人にとっては、「やりたいことをする」のがすべてだ。仕事、趣味、著述であれ、最後の整理業務であろうと、自分のやりたいことを体力の続くかぎりやること。これが人生を生き抜くうえでもっとも大切。副作用の強い抗がん剤療法や入院による代替療法を続けたあげく、死を迎えるべきではない。
 がんの患者に対して、「元気を出さないとダメ」「がんばって」などの言葉をかけるべきではない。死に近づきながら生きているのに、これ以上、何をどうしろというのか、
 お見舞いは患者が元気なうちにするべき。体調の良くない人に、いろんなことを長々と話しかけてはいけない。
 私は、父をがんで亡くしましたので、がんについては他人事(ひとごと)ではありません。この本は、とても実践的で、参考になりました。私は40歳になってから年に2回、人間ドッグに入っていますが、それは、私にとって骨休めと読書タイムを確保するためだと割り切っています。平日の夜、じっくり本を読むということは、意識的につくり出さないと、とてもうまれませんからね。弁護士を30年以上していると、自分の時間を大切にしたくなるものです。来年、私も還暦になります。自分でも信じられませんが、せめて気持ちのうえだけでも若さを保っていきたいものだと考えています。

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2007年8月 1日

生物と無生物のあいだ

著者:福岡伸一、出版社:講談社現代新書
 ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館に野口英世のブロンズ像があるそうです。千円札の肖像画にもなっている立志伝中の人物です。ところが、アメリカでは野口英世はまったく評価されていないというのです。驚きました。
 野口英世の業績としてあげられる梅毒、ポリオ、狂犬病そして黄熱病については、当時こそ賞賛を受けたが、今では間違ったものとして、まったく顧みられていない。野口英世は、むしろ、ヘビイ・ドリンカーそしてプレイボーイとして評判だった。権威あるパトロンが野口の背後にいたため、批判されなかっただけのこと。
 うひゃー、そうだったんですかー・・・。ちっとも知りませんでした。道理で、最近の千円札が軽くフワフワと飛んでいって、すぐなくなってしまうんですね。
 ウィルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん、二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり、一切の代謝を行っていない。ウィルスは結晶化することもできる。鉱物に似た、まぎれもない物質である。
 しかし、ウィルスを単なる物質と一線を画しているのは、ウィルスが自らを増やせるということ。ウィルスは自己複製能力をもっている。ウィルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている、核酸=DNAもしくはRNAによる。
 ウィルスは、生物と無生物とのあいだをたゆたう何者かである。もし、生命を「自己を複製するもの」と定義するなら、ウィルスはまぎれもなく生命体である。
 細胞からDNAを取り出すのは簡単なこと。細胞を包んでいる膜をアルカリ溶液で溶かし、上澄み液を中和して塩とアルコールを加えると、試験管内に白い糸状の物質が現れる。これがDNAだ。
 しかし、DNAが運んでいるのは、あくまで情報であって、実際に作用をもたらすのはタンパク質。抗生物質を分解するのは酵素と呼ばれるタンパク質であり、病原性をもたらす毒素や感染に必要な分子も、みなタンパク質である。耐性菌から非耐性菌へ、あるいはS型菌からR型菌へ手渡されているDNAの上には、分解酵素や毒素タンパク質をつくり出すための設計図が書きこまれている。
 DNAが相補的に対構造をとっていると、一方の文字列が決まれば、他方が一義的に決まる。あるいは、2本のDNA鎖のうちどちらかが部分的に失われても、他方をもとに修復することが可能となる。
 DNAラセン構造を明らかにしたとされるワトソンとクリックについて、著者は重大な研究上のルール違反をしたと指摘しています。未発表データをふくむ報告書が実験を通じて重大な発見をしたロザリンド・フランクリン(女性)の知らないうちにライバル研究者の手にわたって、それが世紀の大発見につながったというのです。なるほど、それは問題でしょうね。ただし、フランクリンは、ノーベル賞授与のときには、既に亡くなっていました。
 半年あるいは1年もたてば、分子のレベルでは、人間の身体はすっかり変わってしまっている。かつて身体の一部であった原子や分子は、すでに身体内部には存在しない。
 私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から支えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。
 人間の身体は一体何から出来あがっているのか、ふと考えることがあります。電波なんか身体をすっと通り抜けていくのですからね。何の支障もなく、障害を与えることもなしに。これも、考えてみたら、不思議なことですよね。知的関心にこたえる本です。

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2007年8月31日

湖の南

日本史(現代史)

著者:富岡多恵子、出版社:新潮社
 事件のあったのが5月11日。5月27日に大津地方裁判所で開かれた裁判で、津田三蔵は通常の謀殺未遂罪で無期徒刑となった。そして7月2日に北海道の釧路に到着。そのとき、「身体・衰弱し、普通の労務に堪えなかった」三蔵は、9月30日に釧路集治監で死亡した。36歳だった。
 裁判のために東京からわざわざ大津までやってきた西郷従道内相は、同じく大津にきていた児島大審院長に対して、次のようにののしった。
 「もう裁判官の顔を見るのもいやだ。今まで負けて帰ったことはないのに、今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、見てろよ」
 いやあ、ひどい裁判干渉の言葉です。三蔵は裁判のとき、次のように言った。
 「もはや、わが国法により処断せらるるのほかなし。ただ、願わくは、わが国法により専断せられ、なにとぞロシア国におもねるようなことなく、わが国の法律をもって公明正大の処分あらんことを願うのみ」
 津田三蔵は西南戦争に従軍して負傷している。それは、田原坂の戦いではないが、そのときの功績によって勲七等を受け、百円が下賜された。いずれにしても、10年間の兵役に従事したあと、三蔵は警察官になった。
 西南戦争で死んだ兵士を悼む記念碑の前にロシア人が立った。そして、皇太子歓迎の花火の音が西南戦争のときの戦場の光景を三蔵に思い出させ、凶行にかりたてていった。
 津田三蔵の大津事件の真相が、三蔵自身の手紙などから明らかにされていく過程は、ゾクゾクするほどの面白さです。
 このとき日本で負傷したロシアのニコライ皇太子は23歳。そして、50歳のときに皇帝を追われ、レーニン治世下のソ連で一家もろとも銃殺された。
 いろいろ知らなかった事実を知ることができました。
(2007年3月刊。1680円)

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選挙の裏側って、こんなに面白いんだ!

社会

著者:三浦博史・前田和男、出版社:ビジネス社
 三浦博史は「保守」系の選挙プランナーとして、200近い選挙に関わってきた。前田和男は、民主党の辻恵弁護士の当選など、「革新」系の数十の選挙に関わった。
 2007年の東京都知事選で三浦は石原陣営の選挙参謀として、前田は浅野陣営の「勝手連」として対決した。
 いま、日本の選挙の投票率は、統一地方選挙で5割以下、今度の参院選でやっと6割近い。これではいけない。勝っても負けても選挙は面白い。みんなで行こう、投票所へ。
 私も、これには大賛成です。日本もフランス並みに8割の投票率にならないとダメですよね。私は、つくづくそう思います。
 選挙にお金がかかるのは常識だ。事務所の維持費や人件費などで、月200万円としても、3年で7200万円かかる。自民党の中堅代議士は、事務所とスタッフの維持だけで月500万円以上が必要だとしている。だから、一般には年に1億円、3年の準備期間をおくと3〜4億円ということになる。
 選挙運動では、革新といえば中高年、いまだに年寄りが中心にすわって、世代交代がすすんでいない。自民党保守系のほうが世代交代が早く、いまでは30〜40代が中心になっている。選挙は若手が生き生きしているところが強い。
 有権者は、好感がもてるから入れた、顔で選んだというケースが多い。年配の女性は圧倒的に若い男性が好きだし、年配の男性は若い女性を好む。そして、年配の人に人気のある若い候補は、男女問わず選挙に強い。かわいげがあって、けなげで、母性・父性本能をくすぐるような若い候補が選挙に強い人材だ。
 自民党は電通一本に頼らず、フラップジャパンという独立系のPR会社も採用した。民主党は電通Y&Rと博報堂が担当。
 候補者の演説も、声をつぶすような絶叫は忌み嫌われる。というのも、人は、はったりや嘘を言うときには、声が大きくなる。それを有権者は知っているからだ。
 候補者の話は変える必要はない。自分の得意なものを自分の言葉でくり返して話す。これが一番。民主党にはセクシーな候補者が多い。よくよく調べると、自民党から出たかったけれど、出れなかったので民主党にまわった。それで自民党も反省して公募制をとった。
 なーるほど、自民党も民主党も政策的にはまったく変わらないということですね。
 やたらと人がうろうろしている騒々しい選対は実は弱い。強い選対ほど、人が出払っていて事務所のなかは閑散としている。うむむ、そうなんですか・・・。にぎやかなほうがいいものだとばかり思っていました。
 街頭宣伝でウグイスよりもカラス(男声)のほうが受けが良い場合も出てきた。昼間、外にいるのは女性のほうが多いときには、男性の声で呼びかけたほうが効果的。
 革新陣営の選挙は、若い層を大切にしない選挙、自己満足の選挙をやっている。若い人をとりこみたいのなら、ブログ対策やIT対策をもっとすればいい。
 日本の若い層に革新はいない。
 うむむ、そう言われたら、たしかにそうなんですね。トホホ・・・。反省させられました。
 28日の夜は帰宅する途中に月食を目撃しました。不気味な紅い月でした。夜、寝る前にベランダに望遠鏡を出して再び皓々と明るさを取り戻した満月を眺めました。月のあばたが本当によく見えます。噴火口やら、谷や川などです。私の真夏の夜の楽しみです。ふと気がつきました。天空に大きな物体があるのに、なぜ落ちてこないんだろう。昔の人は、この疑問をどう解決したのだろうかって・・・。天空を眺めていると、いろんなことが思われます。そして、そのうち心安らかに眠ることができます。ありがたいことです。
(2007年6月刊。1300円+税)

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現代中国の産業

中国

著者:丸川知雄、出版社:中公新書
 中国のテレビメーカーの競争力は急速に高まっている。第一に、中国の主要なテレビメーカーの生産管理能力が向上し、品質が向上した。抜きとり検査の合格率も1995年には97%になった。第二に、比較的限られた種類のテレビを大量生産することで生産を効率化し、部品の大量購入によって調達価格を抑えている。第三に、中国メーカーは、たとえば、従業員2万人のうち1万人が営業担当、というくらいに販売を重視し、販売網やサービス網の構築の面で日本メーカーに差をつけた。
 今、中国メーカーは普及品のテレビ、日系メーカーは高級品のテレビの市場というように、棲み分けている。
 中国の家電メーカーは基幹部品を日系メーカーなどに完全に依存している。家電製品の核心技術は基幹部品に集約されていると言ってよいので、中国メーカーがこれを外部に依存していることは、家電製品の技術革新の担う態勢ができていないことを意味する。その点で中国メーカーは、技術でも日本メーカーを激しくキャッチアップし、部分的には凌駕しているサムスンやLGなどの韓国メーカーとはまったく違い、技術競争を最初から棄権している。中国企業は技術のフォロー、つまり技術が成熟してきて日本や韓国などのメーカーが基幹部品や技術の外販にふみ切るのを待ちかねる役に徹している。
 パソコンは今や衣料を上回る中国の最大の輸出品目になった。2001年に台湾政府が台湾の企業に対して大陸でのノートパソコン生産を解禁して以来、上海市から江蘇省蘇州市にいたる地帯に台湾のDOMメーカー(他社ブランドのパソコンを開発・生産するメーカー)が退去して進出し、世界のノートパソコンの6割以上がここで組み立てられている。
 中国のパソコン市場では、ブランドなしのパソコン(中国では兼容機と呼ぶ)の存在感がとても大きい。2003年の中国市場の40%を占めているという推測がある。中国全土のインターネットカフェが購入した218万台のパソコンの87%が兼容機だった。
 中国では、他社からエンジンを購入する自動車メーカーが少なくない。エンジンを作ってさえいない自動車メーカーも多数存在する。中国の自動車産業は、世界の自動車産業の常識からおよそかけ離れている。
 中国企業の企業戦略は、第一に、積極的に他社の力を利用し、産業のなかで取りかかりやすい分野から参入する。第二に、基幹部品を他社から購入する場合でも、複社調達を行うことで特定メーカーへの依存を避け、自立性を確保する。
 中国の経験は、政府が産業の垂直分裂をおしすすめることで、自国企業の参入を促進できることを示している。
 台湾政府は、半導体の受託生産に特化した工場を設立し、半導体産業を設計専業や製造専業の企業でも参入できるものに変えた。それまで半導体産業は、設計から製造まで垂直統合できる大企業だけのものと思われていた。しかし、今や台湾は世界有数の半導体生産国に躍進し、このビジネスモデルが中国にも移転している。
 中国は、いつのまにか世界資本主義の中心に躍り出ようとしているのだろうか。
 中国の企業と産業政策について目が開かされた思いのする本でした。ここでは不十分な紹介に終わっていますが、大変勉強になった本なので、とても断片的で申し訳ありませんけれども、紹介させていただきました。      (2007年5月刊。780円+税)

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2007年8月30日

記憶力を強くする

著者:池谷裕二、出版社:講談社ブルーバックス新書
 脳は頭蓋骨という堅い容器に囲まれ、外の世界から堅固に隔てられている。身体のほかの場所には見られない独特の構造。脳の重さは、体重のほんの2%を占めるだけなのに、酸素やグルコース(ブドウ糖)などのエネルギー源は全身の20〜25%も消費する。
 脳は1000億個の神経細胞(ニューロン)によって複雑な働きを営んでいる。
 世界の総人口が今60億人をこえたところなので、それよりも1桁以上に大きい。
 1個の神経細胞の直径は10〜50ミクロン。これは髪の毛の太さの2分の1から10分の1の太さに相当する。それが1000億個もぎっしりと詰まっているわけである。
 ひとつの神経細胞が、1万個の神経細胞と神経回路をつくっている計算になる。しかも、個々の神経細胞は、1分間に数百個から数万個も連絡をやりとりしている。
 神経細胞は増殖しない。そして、死んだ神経細胞は二度と復活しない。一日に数万個も死んでしまう。自然に死んでいく神経細胞のほとんどは脳の中で必要とされていなかった神経細胞である。
 1000億個もある神経細胞のうち、人が意識的に活用できる細胞の数は10%にも満たない。
 人の海馬には、1000万個の神経細胞がある。目、鼻、手、耳、舌などのさまざまな感覚の情報が海馬に入力され、そこで統合されている。いつ、どこで、何を見て、何を聞き、何を感じたかといった材料を総合的に関連づけて「経験」という記憶をつくる。これがエピソード記憶になる。
 神経細胞は突起を伸ばす。それは自分の仲間を探すため、ついには、仲間と出会い、神経細胞は、互いに神経繊維で結びつく。1万個の神経回路が1000億個もある。
 神経回路に流れるのは電気。しかし、その実体は、イオンである。電子ではない。ナトリウムイオン(金属イオンである)が流れることで電気信号が伝えられる。
 電気回路では電子が電線にそって流れるので、光と同じ速さで流れる。しかし、神経細胞では、ナトリウムイオンの流れることによるので、1秒間に100メートル程度。それでも、これは新幹線の速度に匹敵する速さではある。
 シナプス伝達をみてみると、シナプス間隙の距離は20ナノメートル。髪の毛の   4000分の1ないし5000分の1ほどしかない。非常に狭いすき間である。
 電気信号は、シナプスにおいて、いったん神経伝達物質という科学信号に翻訳される。そして、この化学信号は、シナプスの受け手にある受容体チャンネルによって、再び電気信号に戻される。このように、シナプスでは、電気信号→化学信号→電気信号と変わる。これを1000分の1秒という恐ろしいほど速いスピードによる。
 ひとつの神経細胞に3万個ものスパインがある。樹状突起が他の神経細胞とシナプスをつくっている場所。1個のスパインは1万分の1ボルトのシナプス電位をつくり出す。だから100個以上のスパインが全開に活動して、ようやく活動電位をおこす判断がくだされる。つまり、神経細胞は、100個以上もの入力情報を受けとってようやく目を覚ます。
 それほど慎重である。この慎重さこそが神経細胞に備わった大切な性格である。
 生命という不可思議な現象を研究すればするほど、見えてくる答えは、生物とは物理化学の法則に素直にしたがう構造物であるという事実である。
 なーるほど、やっぱり唯物論が正しいのですね。
 神経回路の変化こそが記憶の正体なのである。記憶とは、神経回路のダイナミクスをアルゴリズムとして、シナプスの重みの空間に、外界の時空間情報を写しとることによって内部表現が獲得されることである。
 脳は記憶容量を確保するため、いろいろやりくりしながら神経細胞を使い回す。この神経細胞の使い回しという脳の「宿命」こそ、記憶のあいまいさの元凶なのである。
 不断では覚えられないようなことでも記憶できるように助けるのが扁桃体の役割。興味をことにもってのぞめばものごとをすんなりと覚えるられるようになる。つまり、自分が感動していれば、脳は自然にそれを覚えてくれるのだ。
 感動する心を失ってはいけない。感動する心を失ったら、何ごともなされない。
 作家のサン・シモンのこの言葉は真理なのである。ふむふむ、なーるほど、ですね。
 ひとつのことを記憶すれば、自然と、ほかのことの法則性を見いだす能力も身につく。記憶には相乗効果がある。したがって、多くのことを記憶して使いこなされた脳ほど、さらに使える脳になる。つかえばつかうほど消耗して故障するようなコンピューターとちがって、脳はつかえばつかうほど性能が向上する不思議な記憶装置である。
 努力と成果は比例関係にあるのではなく、累乗関数の関係にある。いまは差があっても、努力を続けていれば、いつか必ず天才たちの背中が見え、そして彼らを射程距離内にとらえることができる。こうした成長パターンを示すのが脳の性質である。たとえ効果が目に見えなくとも、つかえばつかった分だけ着実に、能力の基礎が蓄積されていく。私も、ときどき悲観しそうになります。いつになったらフランス語がペラペーラと話せるようになるかしらん・・・、と。でも、そのとき、いつかきっと効果が現れるから、もっとがんばろう、という著者のコトバを信じて毎日、毎朝、フランス語の聞きとり、書きとりを続けています。もう、30年になりますが・・・。
(2001年1月刊。980円+税)

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2007年8月29日

さようならを言うための時間

社会

著者:波多江伸子、出版社:木星舎
 死に直面した新しい友人を支え、見守り、そして友人は死んでいくという悲しい話なのですが、読後感はとても爽やかです。一陣の風が心を吹き抜け、そのあとにほんわかとした温もりを感じさせるものが残ります。そんな不思議な本です。
 オビの文章が、この本の特色をよくあらわしていますので、紹介します。
 41歳、弁護士、ある日突然、治癒不能の肺がんとわかったとき、彼は古い友人にメールした。ライフステージの最後の時間を自分で選択するために・・・。
 彼が計画した、みんなに別れを告げるためのやさしい時間、家族と友人たちが支えた、不思議に明るいホスピスライフ・・・。
 主人公は北九州市で活躍していた渡橋俊則弁護士です。私も面識がありました。弁護士には珍しく穏やかな人柄だなという印象をもっていましたが、この本を読んで、ますます、その感を深くしました。
 渡橋さんは、ある日突然、手術不能の肺がんだと宣告されます。そして、先輩である久保井摂弁護士に相談します。セカンド・オピニオンを得るためです。
 死ぬこと自体については、恐ろしいという気持ちはない。強がりでもなんでもなく、ただ、両親を悲しませることになるのが申し訳ないだけ。
 私は、生きているあいだに何かをなしとげよう、何かを残そうといった気持ちはもたずに生きてきた。人生に価値のある人生、価値のない人生といった区別はないのだろう。
 とびっきりに楽しいこと、うれしいことなどは、それほどなくてもいいから、辛いこと、悲しいこと、痛いこと、苦しいことなどのなるべく少ない、平坦な、穏やかな人生を望んできた。はらはら、どきどき、わくわくするようなことはとくに望まず、ただ、春先に昼寝をしている猫のような、ゆったりとした穏やかな気持ちで過ごして生きたいと思ってきた。生を受け、与えられた寿命まで生きる、それでいいと思う。精一杯生きるのではなく、与えられたままにただ生きればいいんだと思う。
 うむむ、私にはとてもこんな境地に到達できそうもありません。私がこうやって文章を書いているのも、この地球上に存在したという証しを、せめてひっかき傷ほどのものでもいいから残したい、そんな秘やかな願望にもとづきます。いずれは星くずになって消滅してしまう、ちっぽけな物体かもしれませんが、そして存在自体もたちまち忘れ去られてしまうのでしょうが、なんとか私という人間が存在したという痕跡だけでも残せないか、と願っているのです。渡橋さんのような明鏡止水の境地は、まだまだ今の私にはとても無理です。
 渡橋さんは、自分では痛みは弱いと言っていたが、実はまれにみる辛抱強い人で、かなりの苦痛でも表情も変えずに黙ってガマンしていた。食欲は最後までまったく衰えず、ひどいウツ状態になったり、投げやりになって周囲の人にあたりちらすというメンタルな問題もなかった。
 渡橋さんは、ホスピス病棟、緩和ケア病棟に入院して42日で亡くなった。これは平均的な日数。ホスピスでの時間を十分に楽しめた理想的な期間だろう。渡橋さんを精神的に支える「チームわたはし」が十分に機能していたことを、この本はあますところなく明らかにしています。チームのみなさんの献身的な努力に頭が下がります。
 入院した当初は、胸水がたまっていて呼吸困難がひどく、最悪の場合は、あと一週間と思われていた。ところが、思いがけず小康を得て、天使の時間と呼ばれる不思議に明るいホスピスでの交流の期間がひと月近く続いた。
 ビールは一日平均1ダース、客人があればワインの栓が抜かれ、日本酒や泡盛も追加され、まるで居酒屋のような状況になった。渡橋さんも、ベッドに座って酸素呼吸しながら、仲間たちの歓談する様子を黙ってうれしそうに眺めていた。体調のよいときには、渡橋さんもビールをグラスに一、二杯はつきあった。
 たくさんの弁護士が常連として登場します。北九州の横光、角南、石井、福岡の久保井、宮下、そして東京の内野の各弁護士たちです。そして、たくさんの女性が次々に病室へやってきたのです。
 横光弁護士は、「ここはハーレムか?」と絶句したといいます。「おとなしい渡橋に、ガールフレンドがこんなに一杯おったんか・・・」と。
 渡橋さんの食欲が落ちなかったのは、化学療法しなかったこと、どんな状況でも平常心を保とうとする精神的な強さと健やかさ、消化器や脳にがんが転移しなかったこと、緩和ケアがうまくいったこと、など幸運な条件が重なったことによる。
 渡橋さんが化学療法もふくめて積極的な治療をまったくしなかったことについて、問いつめる友人に対して久保井弁護士は、次のように説明した。
 渡橋君はね、セカンドオピニオンを求めて、本当に入手できる限りの膨大で正確な情報を集めて、考えに考えた結果、こうすることを決めたの。治療のために入院したり、副作用に苦しむ時間を、もったいないと思ったわけ。決していいかげんな気持ちや投げやりな気持ちで、この道を選んだわけではないの。
 うむむ、そうなんですよね。なかなか出来ないことですが・・・。余命6ヶ月ないし12ヶ月と診断されてから、しっかり情報を集め、ついに自分で決断し、一切の積極的治療をしなかったわけです。渡橋さんは亡くなる直前まで外出してお店でワインを口にしていました。1ヶ月前には石垣島へ旅行もしています。
 私の尊敬するI弁護士も、医療分野の第一人者ですが、同じようなことを言っています。下手に手術して副作用で苦しむより、貴重な余生だと割り切って海外旅行ざんまいするなど、好き勝手な日々を過ごすのが一番だ、と。これには私もまったく同感です。
 心にしみいる、本当にいい本でした。肩から力がすっと抜ける爽快感があります。
 タイトル、表紙、本文の構成、そして挿入された幸せそうな渡橋さんの写真、どれをとっても素敵な本でした。こんないい本を読ませていただいて、ありがとうございます。心よりお礼を申し上げます。
(2007年7月刊。1680円)

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2007年8月28日

安倍政権論

社会

著者:渡辺 治、出版社:旬報社
 自民党の52年前の結党以来、政権についた22人の首相のなかで安倍首相は初めて改憲実行を口にした。そのほかの首相の大半は、自分の在任中は改憲しないと約束して政権を運営した。自民党は、結党以来、憲法改正を掲げていたにもかかわらず・・・。
 安倍政権の半年の外交は、安倍本来の反中国、反北朝鮮、日米同盟路線で動いた。桜井よし子たちは、中国とは干戈を交えることも辞さない覚悟が必要だ、中国は日清戦争のリターンマッチを策している、このままでは日本が中国の属国になる、こんなことを言って安倍をけしかけた。
 うむむ、ひどい。これはまさしくひどい排外主義、ひとりよがりの認識です。桜井よし子たちが、こんな愚劣なことを主張していたとは知りませんでした。
 アメリカのラムズフェルド国防長官は、日本の自衛隊はボーイスカウトだと高言した。イラクのサマワにいた自衛隊は、ゲリラの掃討に参加できなかったばかりか、他国の軍隊に守ってもらう有り様だった。
 小泉前首相は、テロ対策特措法、イラク特措法を制定し、国際貢献や人道復興支援を口実にして強引に海外派兵した。これによって日米同盟は明らかに新しい段階に突入した。しかしなお、大きな限界がそこにあった。憲法9条を残したままの派兵では、武力行使はできない。アメリカと組んで、世界の警察官として「ならず者国家」の鎮圧に派兵するという軍事大国化を実現するという目標からすると、小泉は9条の大きな壁を改めて自覚させられた。
 小泉政権は外交上もう一つの大きな限界を抱えた。小泉首相の靖国神社参拝によって日中と日韓関係が悪化し、財界が切望する東アジアの外交的リーダーシップを握るという目標から大きく後退した。
 というのも、今や中国に進出している日本企業は既に3万社にのぼる。日本企業は、国内生産優先という発想を捨て、東アジアの最適地で生産するという方針を固めている。日本経団連も、その方向を確認した。
 それにもかかわらず、安倍晋三は『美しい国へ』のなかで、次のように強調したのです。
 間違っていけないのは、われわれはアジアの一員であるというそういう過度な思い入れは、むしろ政策的には、致命的な間違いを引き起こしかねない危険な火種でもある。
 このように安倍のナショナリズムには、アジアとくに中国との連帯、そして反欧米という視点がない。なるほど、これではアジアの一員としての日本の前途はないとしか言いようがありませんよね。
 安倍は、従来から、一国の政治力の背後には軍事力があるということを高言してはばからなかった。つまり、自国の国益を軍事的力によって確保・拡大することを積極的に承認していた。安倍は、強い日本、頼れる日本を掲げた。世界とアジアのための日米同盟を強化させ、日米双方が「ともに汗をかく」体制を確立する、と。「ともに汗をかく」とは、アメリカが求めている「血を流す同盟」を品よく言いかえたものである。
 ホント、怖い同盟です。安倍首相が憲法改正理由としてあげるのは次の三つ。
 一つ目は、現行憲法はニューディーラーと呼ばれた左翼傾向の強いGHQ内部の軍人た
ち─  しかも憲法には素人だった ─  が、短期間で書き上げ、それを日本に押しつけた
ものであること、国家の基本法である以上、やはりその制定過程にはこだわらざるをえない。
 二つ目は、昭和から平成へ、20世紀から21世紀へと、憲法ができて60年たって、9条を筆頭に、明らかに時代にそぐわなくなっている。これは日本にとって新しい時代への飛躍の足かせとなりかねない。
 三つ目は、新しい時代にふさわしい新しい憲法をわれわれの手でつくるという創造的精神によってこそ、われわれは未来を切り拓いていくことができるから。
 えーっ、これって、いかに薄っぺらな理由ですよね。侵略戦争をすすめて、敗戦してもまだ十分に反省しているとは言えなかった当時の日本支配層に業を煮やして連合軍が世界の民主主義国家の到達点を「押しつけ」、日本国民がそれを大歓迎して定着したのです。安倍首相は祖父岸信介の血筋をそのまま受け継いでいます。
 しかし、安倍首相の祖先にはもう一人いますよね。そうです。佐藤栄作です。
 核兵器をつくらず、持たず、持ち込まずという非核三原則を堅持する決意を再三表明したことにより、佐藤栄作は1974年、ノーベル平和賞を受けた。ところが安倍首相はこの佐藤栄作にはまったくふれることがありません。本当に危険な戦後生まれの首相です。
(2007年7月刊。1500円+税)

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2007年8月27日

終生、ヒトのオスは飼わず

著者:米原万里、出版社:文藝春秋
 いかにも著者ごのみのタイトルです。実は、これは、自分で書いた死亡記事のタイトルでした。多くの著名人が自分の死亡記事を書いていて、文春文庫『私の死亡記事』になっています。それによると、著者は2025年に75歳で死んだことになっています。
 この本の大半は、雑誌『ドッグワールド』の2003年5月から2005年12月まで32回にわたって連載されたエッセイがおさめられています。要するに、著者の親愛なる家族たち(犬と猫のことです)の、大変でもあり、愛らしくもある行状記です。いやいや、ペットを飼うというのは大変なことだと思いました。
 猫にミドニングというのがあるのを初めて知りました。
 ミドニングとはトイレの場所を間違えたり、排便しそこねて外にしてしまうというものではなく、きわめてはっきりした行為である。猫はトイレ以外の特定の場所を選び、そこに糞を残すことによって、なわばりの占有・使用・通行などの権利を示そうとする。およそ、前から少し神経質だとか、気の弱い性質の猫が、何らかの大きな変化やチャレンジに遭遇したとき、こうなることが多い。
 著者は飼い猫(龍馬という名前です)をしっかり抱きしめ、そのストレスを軽減させることによって、その症状を半年で完治させたのです。獣医師は感嘆の声を上げました。うむむ、なるほど、ですね。
 著者のペットに対する愛情の深さを示すエピソードを紹介します。飼犬(ゲン)が落雷のあった日に家をとび出して行方不明になってしまいました。そのあと、著者はなんと1年にわたって、4日に一度、近くの動物管理事務所に電話を入れて確認したのです。犬はそこに保護されると5日目には薬殺処理へ回されてしまう。だから、その前日、4日目の午後4時から5時に、動物管理事務所に電話を入れる。それは、日本国内にいようと、アメリカにいたときも、チェコにいたときも、4日に一度の電話を欠かしたことはなかった。そして、それを1年も続けた、というのです。すごーい、頭が下がります。
 犬は、たしかに雷をひどく怖がります。私が子どものころ飼っていたスピッツ犬(ルミという名のオス犬で、座敷犬でした)は、雷鳴を聞くと、家中を走りまわったあげく、押し入れの奥に頭を突っこんで、全身をブルブル震わせていました。哀れなほどです。
 結局、ゲンは出てきませんでした。きっと、どこかの家で飼われたのだろうと思います。なかなか頭の良い犬だったようですから、おおいにありうることと思います。
 私が小学1年生のとき、我が家は大きな引っ越しをしました。同じ市内でしたが、トラックに乗って引っ越したのです。そして、その途中で、飼犬(ペット)がいなくなってしましました。泣き叫んで、親にバカバカ、どうして、どうして、と大声で抗議したことを今もはっきり覚えています。
 猫一般の常識がある。見知らぬ猫であれ、子猫には優しくすることになっているようだ。たとえば子猫が食べ終わってからでないと、大人猫は食べない。同居していた親しい仲間の猫が死んだとき、猫たちはいつもの夕食の催促をせず、ほとんど口をつけなかった。
 真夜中、死んだ猫の周囲にしっかり目を見開いて座り、まんじりともせず夜を明かした。
 ええーっ、これって、まさにお通夜の光景ではありませんか。驚いてしまいます。猫がお通夜をしてるなんて・・・。今では人間社会のお通夜はほとんど形式ばかりになってしまいましたのに・・・。
 共産党の高名な代議士(米原いたる)の長女として生まれた著者は、小学3年生のときチェコスロバキアに両親とともに渡ります。著者の年譜によると、チェコにいたのは5年間ほどのようです。私はもっと長くいたのかと思っていました。
 父の米原いたる代議士も語学の才能があったようです。英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語ができたというのです。でしたら、著者の語学力は父親譲りの才能だったのでしょうね。
 何回も繰り返しますが、本当に惜しい人を早々と亡くしてしまいました。75歳まで生きて、大いに世間に対して毒舌もふるってほしかったと思います。残念でなりません。それにしても、ヒトのオスも飼っていてほしかったですね・・・。
 日曜日の朝、異変を感じました。妙に静かすぎるのです。蝉の声がまったくしません。うむむ、これは一体どうしたことだろう。わが家の庭木で鳴かないどころか、近隣でもまったく蝉が鳴いていません。夏の終わりを告げるツクツク法師もクマ蝉も鳴いていないのです。連日の猛暑のために蝉たちも一休みしているのでしょうか・・・。
 蝉の声といえば、10年以上前、南フランスで一夏を過ごしたことがあります。フランスの蝉の鳴き声はジジジジと、とても単調です。しかも、めったにいません。ですから、フランスの夏は、日本と違って基本的に静かです。ついフランスでの夏の朝まで連想してしまいました。また南フランス、プロヴァンスに行きたくなりました。そうなんです。すごく料理が美味しいんです。よーし、来夏は、行ってこようっと・・・。
(2007年5月刊。1381円+税)

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2007年8月24日

千夜千冊、虎の巻

社会

著者:松岡正剛、出版社:求龍堂
 この「弁護士会の読書」がはじまって何年になるのでしょうか。私が弁護士会で書評をのせはじめたのは、9.11があった年ですから2001年4月のことです。はじめのうちは恐る恐るでしたから、今のように年に365冊というわけではなく、200冊ほどだったのではないかと思います。1年に読んだ本は当時のほうが多かったのですが、書評としては当時のほうがボリュームは小さく、今のほうがたっぷりしています。今は長すぎるので、もっと短くしてほしいという声がありますが、どうなのでしょうか。このところ年間に読む単行本は500冊ほどですので、だいたい7割程度をここで紹介していることになります。私の場合には、書評というより抜粋という感じなので、本を読んだ気になってしまうという反応はうれしいことでもあります。赤エンピツで傍線を引いたところを紹介し、簡単な感想を記すということでやっています。1冊40〜50分ほどかかります。すべて手書きです。モノカキを自負する私にとっての文章訓練にもなっています。模倣は上達の常道だと信じてやっているのです。
 ところで、この本の著者が紹介する1000冊は、ちょっと私とは断然レベルが違う(高い)という感じです。1000冊のうち、私が読んだ本はせいぜい1割もあるでしょうか。うひゃあー、上には上がいるもんだと、つい思ってしまいました。この本自体は、若い女性編集者との対談ですから、読みやすくなっています。でも、紹介されている本はかなり高度です。
 本は、なんでも入る「ドラえもんのポケット」のようなリセプタクル、なんでも乗せられるヴィークルである。
 本は、どんな情報も知識も食べ尽くすどん欲な怪物であり、どんな出来事も意外性も入れられる無限の容器であり、どんな遠い場所にも連れていってくれる魔法の絨毯なのである。ある日、突然、渦中に飛びこんで読みふけることができる。これが読書の戦慄であり、危険であり、また法悦である。
 本は、無理に読む必要はない。気が向けば読む。できるだけ好きなものを読む。それでいい。それが原則。読書は食事なのだ。読書の基本は楽しみ。読書は交際でもある。
 本は、二度読んだほうがいい。そこに読書の醍醐味がいくらでもひそんでいる。2度目は速く読める。
 電車や喫茶店のなかで本がよく読めるのは、他人が一定いる密度環境が箱ごと一定の音響とリズムで走っているためだ。
 たしかに、私の読書は基本的に電車と飛行機のなかです。車内アナウンスはまったく耳に入らないのですが、面白い内容の世間話がそばであっていると、耳がそちらにひきずられ、目のほうが働かなくなってしまいます。その点、飛行機のなかは、そういうことはまずなく、読書に集中できます。
 読書は、リラックスするときも、忙しいときも、疲れきっているときも、すべてがチャンスである。
 私にとって読書は、忙しいときが一番です。一番、よく頭に入ってきます。昼寝したあとなんて、まるでダメです。気がゆるみ過ぎだからです。
 もちろん、本をたくさん読めばいいなんて、私も思っていません。でも、数多くの本を読むと、それこそヒットする確率は高いのです。至福のときを何度も味わうことができます。やっぱり読書は貴重な宝物です。
(2007年6月刊。1680円)

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選挙「裏」物語

社会

著者:井上和子、出版社:双葉社
 公共事業は土建業界のためにある。そして選挙のときに働いてくれた謝礼として大きなハコ物がつくられる。しかし、そこで使われるのは税金だ。公共事業が少なくなると、それに見返りを求めていた人々が選挙運動に熱心ではなくなった。
 選挙は、公共事業を獲得するための選挙が中心になっていた。高速道路などの土木分野にものすごく予算が回されるので、この方面の業界だけは潤っていた。
 国が損したって構わない。オレたちが潤えば、別にそれでいいんだ。
 でも、これではいけない。税金のかたまりである公共事業をエサにして票を集めるというあざとい選挙スタイルは通用しなくなりつつある。
 著者の考えに賛成します。今回の参院選にあらわれているように、自民党ぶっつぶせを叫んで登場した小泉前首相のおかげで、自民党の支持基盤がかなり崩れつつあるのも事実です。それでも、公共事業という巨額の利権にむらがるゼネコンと暴力団、そしてそれを支えながら甘い汁を吸い続けている政治家たちが、相変わらず大きな顔をしている状況は、まだまだ変わっていないように思います。
 筑後平野に新幹線工事がすすんでいます。一見のどかな広大な田圃のなかを延々とコンクリートむき出しの無骨な高架線路が貫いています。寒々とさせる光景です。日本の国土の荒廃を象徴させるものだと感じます。九州新幹線って、黒字になる可能性なんて初めからないのではありませんか。少なくとも私はそう思います。莫大な赤字路線をつくり、税金で穴埋めしていくことになるのは必至です。大型公共事業を中心とする政治を今のまま続けていいことは、何もありません。
 民主党の候補者は、汗水流して下積みの苦労をしていない人が少なくないので、目に見えない心配りや目立たない苦労への理解が足りないケースが多い。このような公募で当選した民主党の政治家のなかには、自民党の公募で落ちたから、仕方なく来たという無節操なタイプがいる。
 もちろん、無節操ではありますが、自民党と民主党とに本質的な違いがないことの反映だというほうが、より正確ではないでしょうか。ただし、参院選のあと、自民党が大敗したことをふまえて民主党は自民党との違いを浮きたたせようと必死です。それが憲法改正に反対する方向であることを私は心から願っています。
 猛暑の毎日です。だから、なのでしょうか。セミの鳴き声がパタリと止んで、勢いがなくなってしまいました。まだツクツク法師は聞かれません。庭に淡いピンク色の芙蓉の花が咲いています。酔芙蓉はまだです。午前中は真白の花なのに、午後から赤味がさしはじめ、夕方にはピンク色になって、酔った状態に変わります。
(2007年6月刊。1400円+税)

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グーグル革命の衝撃

社会

著者:NHK取材班、出版社:NHK出版
 今どきインターネットで検索できないというのも情けない話ですが、残念ながら私は自分では出来ません。いつも秘書にやってもらいます。検索しといてね、と声をかけるだけですみますから、ことは簡単です。でも、現役を引退したときはどうしましょう。そのときには、きっぱりインターネットの世界と縁を切るしかなさそうです。負け惜しみになりますが、あまり未練はありません。
 グーグルは社員が1万2000人。売上高が106億ドル。前年比73%増。時価総額は18兆円。アメリカの1ヶ月間の検索回数は69億回。
 グーグルへの就職希望は月に10万件を超え、人気絶大。グーグルは全米でもっとも働きやすい職場となっている。社内にはスポーツジムがあり、ソフトボールやテニスも自由にできる。食事やクリーニング・マッサージまで、すべてが無料となっている。グーグルで働く日本人も少なくない。
 グーグルには、世界中、25ヶ所に45万台のコンピューターがある。世界中のネット上のホームページは150億以上。300億をこえるという推計もある。
 検索件数は1998年に1日1万件だったのが、1日あたり1800万件になった。
 グーグルの収入の中心は、検索連動型広告「グーグル・アドワーズ」である。
 2000年末に検索件数は1日1億件をこえ、2001年にグーグルは黒字となった。それからは、年々、売上げが倍増していった。
 2005年のネット広告の市場規模は125億ドル(1兆5千億円)で、その4割6千億円が検索連動型広告である。これは、わずか5年で60倍になった。これをターゲット広告ともいう。
 グーグルは、広告の個人化を着実にすすめている。たとえば、次のようになる。
 飛行機でシカゴに着いて、ケータイをオンにする。すると、ケータイの音声が次のように告げる。シカゴに着きました。今はランチタイムです。ピザ屋が左手にあり、ハンバーガー屋は右手にあります。きのうはハンバーガーでしたね。
 ひゃあ、怖いですね。恐ろしいことですよ。ここまで管理されては、たまりません。目の前にいる美人に声もかけられないじゃないですか。これではまるで管理社会ですよ。
 グーグルが先進国で唯一攻略できていない市場。それが日本だ。
 うへーっ、そうなんですか。ヤフー65%、グーグル35%だというんです。そこで、グーグルは日本のすすんだケータイの活用を考えているとのことです。
 最後に、グーグルは知ではない、という小宮山・東大総長の話を紹介します。
 インターネットをつかって情報を簡単に入手できる便利さには落とし穴がある。情報収集にかけた膨大な手間と時間は、ムダなように見えて、決してムダではない。その作業を通じて頭の中で多様な情報が関連づけられ、構造化され、それがヒラメキを生み出す基盤となってきた。インターネットで入手した、構造化されていない大量の情報は、「思いつき」を生み出すかもしれないが、ヒラメキを生み出すことはきわめて稀だ。頭のなかに、いかに優れた知の構造をつくり出すことができるか、それが常識を疑うたしかな力を獲得するカギなのだ。
 うむむ、そうなんですよね。この指摘はあたっていると私も思います。ですから私はネット検索できなくても生きていく自信はあるのです。ホント、です。
 コピペという言葉、知ってますか?コピー・アンド・ペーストの略語です。既成の記事をコピーして、そのまま自分の文章に貼りつけていくことです。一昔前のノリとハサミですね。グーグル脳は怖いですよ。多くの若者が、グーグル漬けの状態になっています。これでは、日本と世界の本当の明るい未来はありません。ねっ、そう思うでしょ?

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2007年8月23日

江戸城、大奥の秘密

江戸時代

著者:安藤優一郎、出版社:文藝春秋
 大奥は、将軍の正室(御台所)、側室、将軍の子女、そして勤務する女性たち(奥女中)の生活の場である。もちろん、将軍の寝所もある。その面積は6318坪もあり、本丸御殿の半分以上を占める。表向(おもてむき)、中奥(なかおく。将軍が日常生活を送る空間で、居間)をあわせても4688坪に過ぎない。
 大奥というと、男子禁制の空間というイメージが強い。もちろん、将軍は例外だが、実は将軍以外の男性の役人も常時詰めていた。大奥内部は御殿向(ごてんむき)、長局向、広敷向の三つに分けられる。広敷向には、大奥の事務を処理したり、警護の任にあたる広敷役人が詰めていた。大奥といっても、この空間だけは男子禁制ではなかった。長局向と広敷向の境は七ツ口と呼ばれ、大奥に食料品など生活物資を納入する商人が出入りしていた。奥女中も出てきて、くしやかんざし、化粧品などの小間物(生活用品)を注文する。五菜(ごさい)と称する、奥女中に代わって城外での用件を果たす男性使用人(町人)も七ツ口までは出入りしていた。
 奥女中とは、いわば幕府の女性官僚である。下働きの女性をふくめると1000人をこす女性が働いていた。上級の奥女中の収入は500石クラスの中級旗本なみ、年収   1000万円。しかし、つけ届けがあるため、その実収入は相当なものだった。奥女中の蓄財は、1000両は普通で、7000両ということもあった。これは数億円レベル。幕臣に支給される米のうち、最上等の米は奥女中に支給され、それよりも質の下がる米は、権勢のある幕府役人に、何の権勢もない者には最下等の米を渡すのが慣例だった。
 さらに、奥女中のうち年寄と表使(おもてつかい)には、別に町屋敷が与えられた。その土地からあがる収入を自身の手当に充てることが許されていた。年寄の場合、200坪前後の地所を拝領し、労せずして年に8〜9両の地代収入があった。
 また、30年以上、大奥でつとめた者には、サラリーである切米と衣装代である合力金のうち多い方、さらに扶養手当の扶持米も、一生支給する規定が設けられていた。年金のようなものである。
 中臈(ちゅうろう)に与えられていた合力金は40両。しかし、この金額では足りず、実家に無心する女性が多かった。衣類代がかさんでいた。奥女中たちは、衣類をも古着屋に出す。江戸には、古着を扱う商人がなんと3000人ほどもいた。
 将軍の身の回りの世話をするのは、御小姓と御小納戸である。御側御用取次(おそばごようとりつぎ)のような政治職ではないが、ふだんから将軍の身近にいるため、隠然たる実力をもつことがある。
 小姓のほうが小納戸よりも格式は高かったが、その威を誇っていたのは、むしろ小納戸のほうだ。小姓は将軍の身辺を警護する役だが、小納戸は理髪や膳方など、将軍の衣食住の世話を直接する役である。小納戸のほうが、将軍にとっては、より身近な存在だったからだろう。小納戸の頭取職ともなると、将軍の御手許金を管理したり、あるいは将軍が鷹狩りなどで城外に出るときには、その現場責任者をつとめた。御側御用取次よりも格式は低かったが、中野石翁のように、将軍家斉の信任を受け、諸大名に恐れられるほどの実力を誇る者もいた。
 大奥と側近衆は、お互いに利用しあいながら、幕政への発言権を強めていった。
 大奥の経費は年間20万両と言われていた。大奥の経費とは、あくまでも将軍の生活費である。松平定信の寛政の改革は、この大奥経費を3分の1に減らした。だから大奥が反発したことは容易に想像できる。当然の成り行きとして、大奥は定信の前に抵抗勢力として立ちふさがった。改革は挫折に追いこまれた。
 家斉将軍のころ、ある大奥女中は次のように語った。
 自分たち奥女中が、どんなに贅沢な生活を送りたくても、先立つものがなければかなわないこと。しかし、それが可能なのは、幕府役人が頼みもしない賄賂を次から次へと大奥に贈ってくるから。大奥の贅沢な暮らしを止めるためには、幕府役人の賄賂を止めない限り、効果はない。
 なーるほど、ですね。大奥の権力の源泉と、その生活の実情の一端をうかがい知ることができました。
(2007年6月刊。690円)

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2007年8月21日

CIA秘密飛行便

アメリカ

著者:スティーヴン・グレイ、出版社:朝日新聞社
 9.11以降、既成概念にとらわれない発想が大はやりとなり、新たなテロの脅威に対する新たな戦争手法が模索されだした。新たな手法は、非合法(イリーガル)とはされなかった。そのかわり、ブッシュ政権は、それを超法規(エクストラリーガル)と呼んだ。これは、あらゆる法の枠外にあるということ、つまり無法状態ということである。
 エクストラ・リーガルシステムの目的は、囚人をあらゆる法律家、アメリカの裁判所、あるいは軍事法廷による保護の届かないところへ連れていくことにあった。テロリストは、なるべくなら、彼らを厳しく扱う国にその対応をまかせる。それこそ、ふさわしいやり方だと政治家たちは信じた。
 モロッコでの拷問は、剃刀の刃をつかって、全身くまなく、性器にいたるまで、切れ目を入れるもの。そんな目にあうと、政府の望むことは何でも「白状」することになる。
 それは、そうでしょう。私なんか、自慢じゃありませんが、いちころでしょう。とてもそんな拷問に耐えられる自信なんかありません。
 食事のなかに麻薬みたいなものが混じっていたり、ハンガーストライキを始めると静脈への点滴で何かの物質を体内に注入された。また、尿の臭いの立ちこめる部屋に一人入れ、ポルノグラフィーを見せたり、全裸や半裸の女性を一緒にさせ、罪を犯させようとした。
 キューバのグアンタナモ米海軍基地への700人をこえる囚人移送はレンディション(国家間移送)である。なぜなら、公式に「戦争捕虜」と認められたものは一人もおらず、全員が法的手続きも、条約もなしに、国家間を移送されたケースだからだ。アメリカの管理下へ「レンディション」されてきた人間の大多数は、アフガニスタンの戦闘地域以外から送られてきた者たちである。グアンタナモに収容所が設けられて以降の4年間に、  300人以上がそれぞれの出生国に再「レンディション」され、釈放されるか、再収監されるかしている。アメリカ軍がこれまでおこなった「レンディション」は1000件をこえている。
 CIAのテネット長官は、特殊作戦グループを復活させた。それは軍事、準軍事、隠密作戦にかかわる要員と、自前の専用航空資産、特殊装備を融合させたもので、命令ひとつで、世界のどこへでも展開できた。レンディションの実施には、輸送の足が必要だった。そこでCIAは傘下の偽装会社エアロ・コントラクターズ社に目を向けた。
 9.11のあとは、アメリカで裁判にかけることを目的にした従来型のレンディションはほぼ完全に放棄された。外国の刑務所に向けた秘密レンディションが通常の形態になった。有力テトリスとが捕まり、アメリカに戻されて裁判にかけられたというケースは  9.11後の5年間にただの1例もない。
 アブグレイブでの囚人の取調では、3つの組織が互いに競いあっていた。第1は、CIAの命令で動くイラク調査グループ。価値の高い囚人の大半を握っていた。第二は、各特殊部隊の寄り合い所帯であるタスクフォース121で、これにはCIAも参加していた。第三は、アブグレイブに集められたアメリカ軍の自前の情報部隊である。
 CIAもアメリカ軍情報部も、憲兵隊に対して、虐待しろという公式命令を下していたわけではなかった。たとえば囚人に性的虐待をおこなえという命令は、軍の指揮命令系統のいずれの者によっても出されてはいない。むしろ、ワシントンの政治指導者から出された一連の命令や法的見解の果たした役割が大きかった。
 CIAの尋問テクニックは、拷問そのものとは言えない、強化型テクニックを利用可能にしようとするものである。たとえば、囚人の睡眠を奪ったり、溺死すると勘違いさせるなどのテクニックを駆使したいのである。
 ペンタゴン内で映画「アルジェの戦い」が2003年8月に上映されたそうです。この「アルジェの戦い」は、1966年の映画です。私が大学に入ったのは1967年ですが、入試が終わって、大学に入学するまでの間に渋谷の映画館でみたような記憶があります。まだフランス語を勉強する前でしたが、フランス語の「アタンシヨン、アタンシヨン」という言葉を、今もくっきり覚えています。
 フランス軍(空挺部隊)は拷問と処刑の双方をふくむ残酷な戦術を用いて、アルジェリアの独立を目ざす民族解放戦線(FNN)の指導層をほぼ全員検挙し、一掃することに成功した。しかし、この勝利は一時的なものにすぎず、フランスはやがて戦争に敗れた。アルジェリアで、拷問は戦闘に勝ち、戦争に負けた。
 なーるほど、そういうことなのですね。久しぶりに40年前の映画「アルジェの戦い」を見てみたいと思いました。
(2007年5月刊。2500円+税)

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陸軍特攻・振武寮

日本史(現代史)

著者:林 えいだい、出版社:東方出版
 思わず腹が立ってしまう本です。いえ、著者に対してではありません。軍人のいやらしさに、対してです。死んで華を咲かせてこい、などと偉そうに命令しておいて、自分は後方で酒など飲んで、のうのうとしている。そして、最前線から生きて帰ってきたら、その兵士を懲罰したというのです。人命軽視というのは軍隊の相も変わらぬ体質です。あー、やだ、やだ。そんな軍人に日本が再び支配されるなんて、まっぴらごめんです。そんな気持ちに、しっかりさせる本でした。
 戦争末期。特攻機には不良機が続出していた。なぜか? たとえば、飛行機の部品をつくっていたのは、慣れない高等女学校の生徒たち。彼女らが必死にヤスリで削っても、しょせんは素人集団。熟練工でないため、不良品が続出するのもやむをえなかった。これは、ナチスの軍事工場で、動員された女工たちが意識的なサボタージュ(不良品をわざとつくっていた)とは違うものです。国の生産管理そのものに無理があったわけです。
 部品の不良品が続出し、何回テストしても不合格となる。作業する女学生の精神がたるんでいるからだと検査官は責任を作業する女学生に転嫁した。しかし、資財の不足は決定的だった。3月27日、アメリカ軍のB29による大刀洗飛行場大空襲によって、九州一を誇った大刀洗陸軍航空厰が全滅した。そのため熊本県菊池にある陸軍航空分厰と山口県下関にある小月分厰とに故障機が殺到した。
 大刀洗飛行場は、陸軍が誇る西日本一の飛行場だった。そこで1万人が働いていた。大刀洗航空機製作所は、百式重爆撃機「飛龍」を製造した。1万3000人の従業員がいた。飛行場の上空は気流が安定していて、飛行訓練には最適だった。
 飛行機の操縦士というのは、募集しても短期間では教育できない。一人前の操縦士を育てるには3年はかかるといわれていた。そこで、大学や専門学校に在学している学生に白羽の矢が立った。学問して基礎教育はできている。思想的にも大人になっている。体力的にも訓練に耐えられる。そのような学生を集めて、特別に操縦士の早期育成教育をすることになった。勅令によって、特別操縦見習士官という制度がつくられた。
 教官と助教は、日頃から、生徒の操縦に注目している。本人の性格まで分析して、体の動きが機敏で反応が早いのは戦闘機、動作がゆったりしているのは重爆、素早くて目がいいのは偵察と決まっていた。分けられた者をみると、いつも納得させられた。
 もともと陸軍の航空隊は、海上の敵機動部隊への艦船攻撃の訓練を受けたことがない。陸軍の航空本部長は特攻作戦に反対した。
 特攻隊というのは捨て身の戦法で、飛行機も操縦士も同時に失って再び戦闘につかえないという重大な欠陥がある。これは戦術的にも間違った戦法であって、本来やるべきことではない。お金をかけて長いあいだ養成した優秀な操縦士を、たった一度の体当たりで失うことに疑問をもった。しかし、そのように反対した本部長も参謀も更迭され、総入れ替えとなった。
 特攻隊をつとめるときには、熱望する、希望する、希望しないという3つの設定で回答を迫る。このとき、希望しないと書くのは、熱望すると書くよりも勇気がいった。うーん、たしかに、そうでしょうね・・・。
 陸軍の爆弾は、爆発した瞬間に広がり、敵兵をなぎ倒して死傷させることが目的であって、もともと艦船攻撃用のものではない。海軍の雷撃隊が使用する魚雷は、鉄鋼爆弾といって、戦闘艦の厚い鉄板を貫いて爆発する。陸軍の250キロ爆弾は、コンクリートの上に卵をぶつけるようなもので破壊力がない。
 特攻隊が出撃する前の軍司令官の訓辞は次のようなものでした。
 お前たちは、生きながらの神である。日本の国を救うのは、お前たち以外にはない。一命を投げ出して、国のためにいさぎよく死んでくれ。お前たちのことは、畏くも上耳に達するようにする。軍司令官も参謀も、最後の一機で突っ込む覚悟だ。お前たちだけを見殺しにはしない。
 うむむ、なんとカッコいい激励のコトバでしょう。でも、現実は、そうではありませんでした。乗った飛行機が故障して帰ってくると、次のようにののしられました。
 貴様たち、なんで帰ってきた。卑怯者のお前たちに与える飛行機なんかない。卑怯者、死ぬのが怖いから帰ってきたのか!
 特攻隊で出撃して死にきれない隊員は、軍人精神がたるんでいる証拠だ。飯を食う資格がない。まず、反省文を書け。教育勅語と軍人勅諭をオレがいいというまで書け。
 貴様ら、その態度は何か。それでも軍人か。何で生きて帰ってきたのか。貴様たちは、そんなに死ぬのが怖いのか。
 盛大な見送りを受けた特攻隊員が生きて帰還したとき、それは罪悪として非難された。しかし、死に追いやった者が生還者に言うべき言葉ではない。そのとおりですよ、まったく。そして、実は、生還者をののしった参謀は戦後、長生きした。しかし、80歳になるまで生還者や遺族から襲われることを恐れて、自分の護身用としてピストルと軍刀を身辺から離さなかった。なんということでしょう。おぞましい人生ですね。特攻隊の現実を考えさせらる本でした。
 お盆休みに知覧へ行ってきました。たくさんの特攻隊員の顔写真を見ながら、死にたくなかっただろうな、とつくづく思いました。お国のために死んでこい、オレもあとから続くなんて言った偉いさんたちのほとんどは、若者への言葉を違えて安穏な戦後を過ごしたのではないでしょうか。改めて腹が立つのを抑えきれませんでした。
(2007年3月刊。2800円)

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2007年8月20日

歌姫あるいは闘士、ジョセフィン・ベイカー

アメリカ

著者:荒 このみ、出版社:講談社
 ジョセフィン・ベイカーって、名前は聞いたことがありましたが、どんな女性だったのか、この本を読んではじめて知りました。
 ジョセフィン・ベイカーはアメリカ生まれの生っ粋の黒人。アメリカでの黒人差別に嫌気がさして、パリで成功するとフランスに定住する。成功した歌姫としてアメリカで公演するときも、黒人なので会員制クラブではおろか、レストランでもホテルでも公然たる差別を受けた。それに対してジョセフィン・ベイカーは敢然とたたかった。人種差別のない世界を目ざして、世界中から12人の養子をとった。1954年4月、日本にも来て、1人を養子にするはずが、2人の男の子を養子にした。
 第一次世界大戦のとき、40万人以上のアメリカ黒人が兵役につき、そのうち20万人がフランスに送られた。アメリカ側では黒人兵がフランス人と接触することを回避しようと、禁止令を出したが、効果はなかった。
 ジョセフィン・ベイカーたちはフランスでの公演でパリ市民を熱狂させた。
 写真を見ると、すごいのです。パリ市民がそれまで見たこともないような踊りだった。観客を戸惑わせ、それ以上に歓喜させ、狂喜させた。ほとんど裸体の踊りなのだが、エロチックというより躍動美であり、ついつい見とれてしまったのである。
 ジョセフィンの茶色の肌は観客にとってエキゾティックで蠱惑(こわく)的、本能的だった。踊りの速さ、動き、奇妙さは、それまでパリが経験したことのないものだった。ジョセフィンの官能的で機知に富んだ性格の輝きがあった。
 ジョセフィンの踊りから、人間の身体の根源的な美しさが感じられ、生の躍動がじかに魂に伝わってきた。だからこそ、パリの観客の心は激しく揺さぶられた。
 パリのレストランで、ジョセフィン・ベイカーが友だちと食事をしていると、アメリカ人の女客が店長を呼びつけて叫んだ。「あの女を追い出してちょうだ。私の国では、ああいう女は台所にやられるのよ」 ところが、どうぞお立ちくださいと言って店長が追い出したのは、そのアメリカ人の女客だった。
 いやあ、アメリカ人の黒人差別(実は黄色人種の差別も)は、昔も今も変わりませんよね。日本への原爆投下も猿以下とみなしていた日本人蔑視によるものであることは、歴史的事実ですからね。これはホントのことです。
 ジョセフィン・ベイカーは、フランス南部に城(シャトー)と所有し、そこで12人の養子を育てました。商業的には結局、破綻してしまうのですが、その夢は今も生きている気がします。
 そして、ジョセフィン・ベイカーは、第二次世界大戦中には、ナチスの支配に抵抗するレジスタンス運動に加担するのです。たいしたものです。情報員に求められるのは、勇気と直観と知性。この三つとも彼女には備わっていたと、レジスタンス運動に引っぱりこんだ幹部が語っています。
 ジョセフィン・ベイカーは、アメリカに帰ったとき、若い黒人大学生に語りかけた。一つは、社会で何かを成しとげるときには努力が必要なこと。自分の才能というのは天性であるとともに、努力するからこそ花が開く。二つ目に、黒人は劣等感にさいなまれているが、自分たちの人種的劣等感を捨てて、これまで自分たちの仲間が立派に活躍してきたことを誇りに思うこと。三つ目に、黒人の文化を教育することの重要性と緊急性である。これって、今の日本人の若者にも、すごくあてはまる大切なことのように思いますが、いかがでしょうか・・・。
(2007年6月刊。1890円)

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2007年8月17日

伝説の社員になれ

社会

著者:土井英司、出版社:草思社
 ビジネス書を1万冊も読んだというのです。あれれ、ビジネス書って、そんなに面白いものなのかしらん、私は懐疑的になりました。
 最低限の利益を出すには、人件費は売上げの3割におさえるのが経営の原則だ。つまり、今もらっている給料の3倍の売上げをあげて、ようやく給料にみあう働きをしていることになる。
 必要なことは、出世したり、高い給料を追い求めることではない。一生を通じて自分がケアをし、それによって自分も成長できる、そんな対象を見つけること。
 どんなことでも9年間続けたら成功できる。そして、成功するためには、その代償として何を捨てなければならないのか、それも考慮する必要がある。
 一流の人と出会い、つきあうことの利点は、情報をもらえる、何かトクがあるということではない。この人には絶対かなわないと実感できることだ。一流の人にふれると、彼らに勝てるとしたら、自分のどの部分だろうと考えるきっかけにする。
 一流の人にふれる利点は、素直に負けを認められること。
 私も新人弁護士のとき、先輩弁護士のあまりのすごさに圧倒されてしまいました。とてもかなわないと思いました。今でも、それは同じです。ともかく、口八丁、手八丁なのです。いやあ、これはかなわない。そう思ってしまいました。でも、どこか、私もできるところがあると思い、生まれ故郷にUターンしたのです。
 継続するための一番の方法は、それを習慣にしてしまうこと。
 一日の生活を単純化しています。夜12時に寝て、朝は7時に起きる。それは絶対に崩さない。朝はフランス語の書きとりをし、土曜日はフランス語会話教室に通う。夜はテレビを見ず、ひたすら活字を読むか、書きものをする。これで30年以上、やってきました。ようやく、世の中が少しずつ見えてきました。
 いろいろ参考になる言葉が紹介されていました。
(2007年4月刊。1200円+税)

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幕末下級武士の絵日記

江戸時代

著者:大岡敏昭、出版社:相模書房
 私も小学生のころ、夏休みに絵日記をつけていたことがあります。ところが、変化のない毎日ですので、何も書くことがなく、苦労した覚えがあります。そして、残念なことに絵も上手ではありませんでした。いえ、下手ではなかったのです。絵をかくのは好きなほうでした。ただ、自分には絵の才能がないということは子ども心に分かっていました。この本は、江戸時代末期に下級武士が自分の毎日の生活を絵と言葉でかいていたというものです。すごいですね。江戸時代についての本は、私もかなり読みましたが、武士が絵日記をつけていたというのは初めてでした。行灯(あんどん)の絵もかいていたというのですから、もちろん絵が下手なわけはありません。劇画タッチではありませんが、当時の下級武士の日常生活が絵によってイメージ豊かに伝わってきます。とても貴重な本だと思いました。
 ところは、現在の埼玉県行田市です。松平氏所領の忍(おし)藩10万石の城下町に住む10人扶持の下級武士、尾崎石城がかいた絵日記です。
 石城は御馬廻役で100石の中級武士だったところ、安政4年、29歳のとき、藩当局に上書して藩政を論じたため蟄居(ちっきょ)を申し渡され、わずか10人扶持の下級身分に下げられてしまいました。ときは幕末、水戸浪士が活動しているころで、尊皇攘夷に関わる意見書だったようです。
 石城の絵日記をみると、毎日、実にたくさんの友人と会って話をしていることが分かる。平均で5〜6人、多い日には8〜9人にもなる。当時は、それだけ人と会うのが密接だった。家にじっと閉じこもっていたわけではなかったのです。
 石城は書物を幅広く読んでおり、自宅には立派な書斎をかまえていた。貸し書物屋が風呂敷に包んだ本を背負って、各家を訪ねていた。石城が読んでいた408冊も日記に登場する。万葉考、古今集、平家物語、徒然草、史記、詩経、五経と文選、礼記、文公家礼などの中国古典もあり、庭つくりの書まであった。
 床の間の前で、寝そべりながら、友人たちと一緒に思い思いの書物を読んでいる姿も描かれています。のんびりした生活だったようです。
 酒宴がよく開かれていたようです。しかも、そこには中下級の武士たちだけではなく、寺の和尚と町人たちも大勢参加しているのです。身分の違いがなかったようです。仲間がたくさん集まって福引きしたり、占いをして見料(3800円)をもらったり、ええっ、そんなことまでしてたのー・・・。と驚いてしまいました。
 酒宴をするときには、知りあいの料亭の女将も加わって踊りを披露したり、大にぎわいのようです。そのなごやかな様子が絵に再現されています。
 茶店は畳に座るもので、時代劇映画に出てくるようなテーブルと椅子というのはありません。
 石城が自宅謹慎(閉戸、へいと)を命ぜられると、友人たちが大勢、そのお見舞いにやってきたとのこと。なんだかイメージが違いますね。友人がお酒1升と目ざしをもってきたので、みんなでお酒を飲んだというのです。
 石城は明治維新になって、藩校の教頭に任ぜられています。独身下級武士の過ごしていた、のんびりした生活がよく伝わってくる絵日記でした。

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反転

司法

著者:田中森一、出版社:幻冬舎
 ヤメ検の悪徳弁護士として名高い人物が自分の半生を語った、いま話題の本です。検察庁内部の実情とあわせて裏社会の動きがかなりナマナマしく描かれており、興味深い内容でした。
 大阪地検にいたころ、「割り屋」と呼ばれていた。割り屋とは、被疑者を自白に追いこむプロという業界隠語だ。自白を引き出すために、被疑者を逮捕したあと、はじめの10日間の勾留のあいだは、ほとんど相手の言い分や情状を訴える言葉を聞かない。貴様、オドレ、お前と常に呼び捨てにし、一方的に怒鳴りつける。机を激しく叩きながら、ときにフロア中に響きわたるほどの大声を発して責めたてる。被疑者を立たせたまま尋問することもしばしばだった。
 はじめの10日間は、弁護士が被疑者との接見を求めてきても、体よく断わった。大事な調べだから、今日は勘弁してください。今日は現場検証に連れていくから。そんな口実をつくっては、接見をさせない。そうして被疑者を孤独にさせ、こちらのペースにはめ込む。あえて、ガンガン取調べをし、自白に追い込む。
 被疑者にとって、自白は究極の決断といえる。その様は人によってそれぞれ異なる。検事は、そのタイミングを逃してはならない。脂汗を流しはじめる者、突然泣き崩れそうになる者、顔面が蒼白になっていく者、それぞれ落ち着きがなくなり、椅子からずり落ちる者など、さまざまだ。10人中、8、9人は顔からさっと血の気が引く。そのとき、これで落としたと察知して、たたみかける。
 人間の記憶は曖昧なものである。だから、取り調べを受けているうち、本当に自分がそう考えていたように思いこむケースも少なくない。それを利用することも多い。
 毎日、毎日、繰り返して検事から頭の中に刷りこまれる。すると、本当に自分自身に犯意があったかのように錯覚する。多くの被疑者には犯行の意図はなくても、心の奥底では相手を憎らしいという思いが潜んでいることがある。それが調書のなかで、全面的に引き出される。すると、殺すつもりだったという調書ができあがる。
 狭い取調室で、被疑者に同じことを毎日教えこむと、相手は教えこまれた事柄と自分自身の本来の記憶が錯綜しはじめる。しまいには、検事が教えてやったことを、被疑者がさも自分自身の体験や知識のように自慢げに話し出してしまう。
 そして、多くの被疑者は、いざ裁判になって記憶を取り戻して言う。それは、検事さんに教えてもらったものです。しかし、あとの祭り。裁判官は完璧な調書を前に、検事の言い分を信用し、いくら被疑者が本心を訴えても通用しない。
 捜査日誌を使い分けていた検事もいる。ひとつは調書にあわせ、創作した捜査日誌。もうひとつは事実をありのままに書いたもの。これは、検事自身が混乱しないよう、整理をつけておく工夫のひとつだ。
 著者は、いま弁護士ですから、割引いて受けとめるべきものなのかもしれませんが、私はかなりあたっている気がしました。
 1987年12月、著者は弁護士となった。検察庁からもらった退職金は800万円。それに対して弁護士開業の祝儀は総額6000万円。1000万円の祝儀が3人から届いた。その一人が食肉業者「ハンナン」の浅田満会長。
 弁護士をはじめて1年目で、顧問先企業が100社をこえた。1社あたり10万円として、顧問料だけで月に1000万円をこえる。
 そこで、節税のために、7億円のヘリコプターを買った。生まれ故郷の長崎の島に、川崎敬三と二人で、ヘリコプターで降りたった。島に5000万円で家もたてた。
 検事時代は、歳暮や中元はもちろん、ビール券や商品券も不自由しなかった。
 佐賀県知事は、病院の経営者を2号さんにして、その税金ごまかし事件を手がけた。
 高知地検では、宿毛市長選挙の公選法違反事件を手がけようとしたが、身内である竹村照雄・最高検総務部長が泣きを入れて妨害した。
 大阪地検のとき岸昌知事の黒い噂を事件にしようとした。すると、大坂地検の検事正が、こう言った。
 お前は、たかが5000万円で、大阪を共産党の天下に戻すつもりか。
 共産党に戻すかどうか、聞いとるんや。
 ええーっ、驚きました。警察だけでなく、検察庁でも、そんな政治判断で動いているのですね。いったい、どういう了簡でしょうか・・・。
 福岡の苅田町の裏口座の事件では、森喜朗へ5000万円が流れていた。森は安倍派の事務局長。だから、ある日突然、天の声が聞こえてきて捜査はしぼんでしまった。
 いやあ、ホント、ひどいものですね。
 これらは実名で書かれていますので、著者は責任もって書いているのでしょう。なんだかあまりにもドロドロしすぎていて、いやになってしまいます。政治検察というしかありません。
(2007年6月刊。1785円)

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