弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年12月 9日

「生類憐みの令」の真実

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 仁科 邦男 、 出版  草思社

生類憐みの令から個々の動物に対する愛情はほとんど感じられない。
著者は、このように断言します。ええっ、では一体なぜ、なんのためのものだったの・・・。その謎を解き明かしていく本です。最後まで面白く読み通しました。
徳川五代将軍綱吉は、将軍になる前の27年間、松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と呼ばれていた。娘のほか馬と鶴には特別な愛情をそそいでいたが、それ以外には犬をふくめて可愛がったという形跡はまったくない。
江戸城内に「御馬屋」はあっても「御犬小屋」はなかった。
綱吉は、少年時代から人や動物の死に対する嫌悪感が強かった。12歳のとき、明暦の大火を体験している。このときは綱吉邸も燃えている。死者は10万人をこえ、町には、人や牛馬、犬猫の死体が山積みされた。
鷹狩りの鷹は、犬の肉が餌として与えられていた。
江戸城内には狐が多く、大奥では、狐が嫌がる狆(ちん。犬の種類)を座敷に放して、狐の侵入を防いでいた。
生類憐みの令は、まず、江戸限定の犬の車事故防止・養育令として登場した。当時の江戸には、大八車(だいはちぐるま)が2000台もいた。そして、犬が大八車にひかれて死亡する事故が相次いだ。
町の犬たちは、あらゆる生ゴミを食べるので、町の清潔さを維持することに貢献していた。
大八車による犬や猫の事故については処罰されたが、逆に故意でない人身事故は罪に問われなかった。「人」の生命は軽く、「生類」の生命は重かった。
令が出たことで、江戸の町には人を恐れない犬が次々に生まれていった。
綱吉は、虫を飼うことも禁止した。ただし、江戸限定だった。
綱吉が本当にこだわり続けたのは馬だった。
生類憐みの令の「生類」のなかに「人」はふくまれていない。
綱吉が力をいれたのは「捨て子の保護」ではなく、「捨て子の根絶」だった。綱吉は捨て子を防ぐため、町民の妊娠まで報告させた。
綱吉のころの江戸には、5000人をはるかにこえる非人がいた。
綱吉は理屈を好んだ。少年時代から学問が好きだった。
犬小屋の話は有名ですが、収容された犬は、ストレスから来る病気などのために早死したようです。知らなかったことがたくさんありました。
(2019年9月刊。1800円+税)

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