弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年6月13日

イレナの子供たち

ヨーロッパ(ポーランド)

(霧山昴)
著者 ティラー・J・マッツェオ 、 出版  東京創元社

ナチスの占領下のワルシャワのユダヤ人を収容するゲットーから2500人ものユダヤ人の子どもたちを救出したポーランド人女性の話です。
1935年秋、イレナは25歳。身長150センチの小柄な大学生だった。しかし、確固とした政治的意見をもっていた。
1939年10月。戦争はまもなく終わると周囲の人々は言っていた。
1939年のワルシャワは、世界でも指折りの活力にあふれた多様性のある都市だった。人口100万人のうち、3分の1はユダヤ人だった。
ナチスによる占領・支配が始まったとき、ワルシャワのユダヤ人は、ひどいことが起きても、おそらく限度があるだろうと推測していた。というのも、はじめのうちナチス・ドイツ軍は、組織的な粛清はユダヤ人ではなく、ポーランド人を対象としていた。占領から1年か2年のうち、ワルシャワでは、ユダヤ人が1人殺されたのに対して、ポーランド人は10人が殺された。
1940年秋ころ、イレナの福祉窓口のチームは、ワルシャワの何千人ものユダヤ人に対する公的な福祉支援を支えていた。
ゲットーの内部で、50万人ほどのユダヤ人たちが飢えで弱っている一方、ゲットー貴族たちは、ゆとりある生活をしていた。裕福な実業家、ユダヤ人評議会のリーダーたち、ユダヤ人警察の幹部、不当な利益を得ている密輸業者、ナイトクラブの経営者、そして高級娼婦たち・・・。ゲットーには61軒ものカフェとナイトクラブがあり、「乱痴気騒ぎのパーティーをしたい放題」だった。カフェではシャンパンが注がれ、サーモンのオードブルが出てくる。
ゲットーの出入りには無数のルートができ、イレナはそれを利用してユダヤ人の子どもたちをゲットーの外に連れ出すようになった。それはワルシャワ社会福祉局の仕事の「延長」だった。
金髪だったり、青い目の健康な子どもたち、ユダヤ人とは見えない子どもたちは、傷のしかるべき書類とともに孤児院で生活することができた。子どもたちは、作業員が肩からぶら下げた南京袋に入って孤児院に運ばれた。洗濯物がじゃがいものように裏口に届けられるのだった。
1942年の夏、コルチャック先生は、子どもたちだけを行かせることを断固として拒否した。
列を先導するSS隊員は笑って、コルチャック先生に「お望みなら、いっしょに来てもいい」と言った。バイオリンをもっている12歳の少年に演奏するように頼み、子どもたちは孤児院から歌いながらコルチャック先生と一緒に出発した。 祝日用のよそ行きの服を着た子どもたちは、お行儀よく、4人1列になって行進していった。そして、子どもたちは両手で人形を抱えていた。これは、イレナたちが孤児院に持ち込んだものだった。子どもたちは、「旅に出る」にあたって、ひとつだけ何かをもっていいと言われて、その人形を選んだのだった。小さな両手で、人形を握りしめ、胸に押しつけてるように抱きしめて、最後の行進をしていった。
コルチャック先生は、最後に貸車に入った。両方の腕に、それぞれ疲れきった5歳の子どもを抱えていた。貨物列車には窓がなく、床には、生石灰がまかれていて、そのうち熱を発する。そして、貨車のドアは閉められ、有刺鉄線で固く縛りつけられた・・・。
こんな状況を正視できますか。この文章を読むだけで、私は、目と鼻からほとばしるものがありました・・・。
イレナたちが救出したユダヤ人の子どもたちは「カトリック教徒の子」として育てられた。これに異をとなえるユダヤ人ももちろんいた。では、いったい、どうしたらいいというのでしょうか・・・。
孤児院で子どもたちはゲームをして遊んだ。ユダヤ人を追うドイツ人の役、隠れているユダヤ人のふりをする子、ユダヤ人の子どもたちにとって、そんなゲームは、あまりにも現実的だった。
ワルシャワのユダヤ人ゲットー内の動きも知ることができる本でした。
(2019年2月刊。2800円+税)

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