弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年9月 1日

蘇我氏の古代学

日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 坂 靖 、 出版  新泉社

蘇我の蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子が謀殺されたのは皇極4年(645年)の乙巳(いつし)の変。これによって蘇我氏の本宗家は滅亡した。しかし、その他の蘇我氏の血脈は連子(むらじこ)、亜麻呂、赤兄(あかえ)、果安(はたやす)らが政権の中枢で活躍し、蘇我氏の血統は脈々と受けつがれた。
連子の娘である蘇我娼子(しょうし)は、中臣(藤原)鎌子の子である不比等に嫁ぎ、武智麻呂(むちまろ)、宇合(うまかい)を産んだ。このように蘇我氏の血筋は藤原氏に受け継がれた。
5世紀の倭の5人の大王は、その政権の実在性は疑う必要性がなくとも、その実態は、はなはだ心もとないものだった。
江田船山古墳の被葬者は、中国南朝、百済王権、そして倭王武とつながっていた。
倭の5王の支配拠点や墳墓は、大阪平野南部や奈良盆地にあった。
ヤマト王権は、決して一枚岩ではなかった。
蘇我氏の出自は百済高官ではなく、全羅道地域を故地とする渡来人である。
5世紀において、倭(ヤマト王権)、百済・新羅のいずれも広域支配は達成しておらず、ヤマト王権はその足元すら危うい状況にあった。
東漢氏は、常に蘇我氏のもとにあった渡来人集団だった。
稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏4代が飛鳥に拠点をおき、渡来人生産者集団を主導しながら、政権の中心にあったことは争う余地がない。
飛鳥に大王を招き入れたのは蘇我氏である。蘇我氏は渡来人のリーダーとなり、洗心的開明的な思想をバックボーンにもちながら、飛鳥の地を大規模開発し、そこに大王を招き入れた。飛鳥時代のはじまりである。
蘇我馬子が百済の渡来人集団を統率し、法興寺をつくった。蘇我氏の権力の象徴を飛鳥の地につくることにより飛鳥文化を開花させた。まさに、蘇我氏は飛鳥をつくった。
蘇我馬子は、敏達・用明・崇峻・推古の4代にわたって、飛鳥を基盤にしながら権勢をふるった。馬子の墳墓には石舞台古墳と考えられる。この石舞台古墳は、墳丘と固濠斜面に貼石を施した1辺50メートルの二段築成の大型方墳である。石舞台古墳の造営意図は、蘇我氏の実力が大王よりの上位にあったことを墳丘や石室の上で表現しようとしたものだった。
渡来人は帰化人とは違う。日本国が成立する前に「帰化」人というのはおかしい。「帰化人」は、『日本書紀』をつくった人の歴史観によるもので、今では使われなくなった。
 そうか、そうだったのか、蘇我氏も渡来人のリーダーだったのですね・・・。なるほど、と思いました。
(2018年5月刊。2500円+税)

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