弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年12月19日

ベトナム戦争に抗した人々

アメリカ


(霧山昴)
著者  油井 大三郎 、 出版  山川出版社

 私の大学生のころ、つまり今から50年前はアメリカがベトナムに勝手に入り込んでジャングルの内外でベトナムの人々と戦争していました。有名なソンミ村の虐殺事件はそのなかで発生した事件の一つです。氷山の一角だと思います。そのころは韓国軍もアメリカ軍と同じようにベトナムに出兵していて、残虐さではひけをとらなかったようです。
 アメリカの青年がベトナムで5万5千人も亡くなりました。残念なことです。本人たちも無念だったと思います。しかし、ベトナム人の死傷者は100万人を軽くこえています。
 アメリカがベトナムで戦争するのに、いまから考えても、何の大義もありませんでした。「ドミノ理論」があっただけです。ベトナムが「赤」化したら、周辺の国までドミノ倒しで赤く染まるから、それを防ぐというのです。そんなこと放っておいて下さい。アメリカに口出しできる権限は何もありません。
 このブックレットは、アメリカでベトナム反戦運動がどうやって盛り上がっていったのかを歴史的にたどり、改めて考え直しています。
 アメリカでは、ベトナム反戦運動は初めのうちは少数派として白眼視されていた。ところが、すぐに終わるはずの戦争が、北ベトナムや解放戦線(アメリカは「ベトコン」と呼んでいました。日本のマスコミも同じです)の粘り強い抵抗の影響もあって世論を大きく変え、ときの大統領に和平を決断させ、ついには撤退するに至った。
 アメリカの反戦運動のなかにもさまざまなグループがあり、相互に激しい対立もあったが、最終的には、なんとか「大同団結」できた。
 徴兵を拒否したり、星条旗を燃やして抗議したり、街頭や集会で警察と激しく衝突したため、愛国心のあついアメリカ人は反戦運動に対して強く反発した。主要メディアも同じ。ところが、次第にベトナム反戦の声が世論の多数を占めるに至った。なぜか・・・。
一般のアメリカ人は当初はベトナム戦争の展開に関心をもっていなかった。
ベトナム反戦運動が盛りあがったのは、1965年2月に恒常的な北爆が始まってからのこと。1960年に入ると、旧左翼の運動が復活、新左翼の運動も始まった。反戦団体のなかには1950年代の赤狩りの後遺症として、反共主義を求めるものもあり、また「非暴力直接行動」を主張する団体もあった。
反戦団体のラディカル派は、アメリカ軍の即時徴兵を主張したが、リベラル派は、北ベトナム軍をふくむ全外国軍隊の撤退に固執していた。
1965年11月、クエーカー教徒がペンタゴン前で抗議の焼身自殺を敢行した。
1967年4月、キング牧師がベトナム戦争反対を表明した。これに対して、全米黒人地位向上協会は、公然とキング牧師を非難した。
4月の反戦集会には、全米で30万人が参加し、セントラルパークは10~20万人の人波で埋めつくされた。しかし、アメリカの労組と労働者はベトナム戦争を支持していた。
マクナマラ国防長官は1967年5月に、ジョンソン大統領に対して方針転換を進言した。のちに「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれる文書がつくられた。
このころ、アメリカ軍は中国南部での核兵器の使用も検討していた。そして、北爆の拡大を強く主張した。
1968年1月30日、南ベトナム全土でテト構成が始まった。サイゴンのアメリカ大使館に解放戦線の兵士20人が突入し、6時間にわたって占拠を続けた。この戦闘シーンがアメリカのテレビで中継され、アメリカ国民の衝撃を与えた。このテト攻勢は「勝利は同迫」と説明してきたジョンソン政権の信頼を大きく損った。
このころ、政府側は、FBIによる潜入(介入)工作が強めていた。新左翼の党派同士の対立をあおったのです。
6月にロバート・ケネディが暗殺された。ジョンソン大統領は10月末に北爆の全面停止を発表した。
1969年10月の集会には全米で200万人が参加したが、多くが白人のミドルクラスで、初めての集会参加者も多かった。
非暴力直接行動は、違法は法律や政策に対して座り込みなどの非暴力的手段で頑強に抵抗するものであった。それゆえ、政府による反戦運動イコール暴力との非難をはね返し、無関心な国民の自覚を粘り強く求めていく効果をもった。
アメリカ内のリベラル派は運動の展開のなかで反共主義を克服し、ベトナムの民族自決を支持するように変化した意義は大きい。リベラル派はマスコミにも議会にも大きな影響力をもっていた。
ベトナム反戦運動の成果から改めて学ぶところは大きい、このように思い知らされた100頁あまりのブックレットでした。
(2017年8月刊。729円+税)

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