弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年9月17日

後藤又兵衛

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  福田 千鶴 、 出版  中公新書

 後藤又兵衛は黒田官兵衛・長政の二代に仕え、朝鮮に出兵して活躍しつつも、長政に疎まれて黒田家を去って牢人生活に入り、秀頼の招きに応じて大坂城に入って、大坂の陣で壮絶な討死を遂げた。
黒田長政にとって、後藤又兵衛は、自身が取立てたなかでも第一の家臣だった。その恩も顧みず黒田家を退去するのは、主君として許しがたい行為であった。
大坂夏の陣で没したとき、又兵衛は56歳だった。又兵衛は、黒田官兵衛に子飼いとして育てられ、14歳のとき、長政付の近習として仕えるようになった。
若き日の又兵衛は、何が何でも討死することが「御奉公」であると考えるような荒武者ではなく、冷静な判断力をもつ武将だった。
又兵衛は槍の名手として有名だが、朝鮮出兵のときの虎退治において、又兵衛は初めから刀を抜き、虎を仕留めている。
関ケ原合戦のとき、黒田長政は33歳。その供衆35人の筆頭に後藤又兵衛の名前がある。「黒田25騎」とは、近世中期になって選ばれた黒田家の功臣であるが、そのなかに黒田家にとって逆臣ともいうべき後藤又兵衛が入っているのは、それだけ存在感が大きかったということ。
黒田氏の家中形成の過程で、長政のもとで頭角を現し、長政取立家臣のトップに躍り出たのが又兵衛だった。
又兵衛の娘は、黒田家中の野林家で天寿を全うした。つまり、又兵衛の血筋は女系によって黒田家中に伝えられた。
黒田と細川は犬猿の仲にあった。そこで、細川は、又兵衛の筑前出奔を支援した。同じく池田輝政も又兵衛を支援したので、輝政と長政は仲が悪くなり、互いに音信を絶った。
大名たちは、江戸で家康から起請文の提出を強制させられ、表向きは徳川方への忠誠心を示しながら、裏では頼みとなる人物に隠し置いていた牢人たちを預けて大坂城へ差し向け、太閤秀吉の遺児豊臣秀頼を支援していた。
このように忍び潜む牢人たちを支える社会構造があってこそ、10万とも言われる牢人たちが大坂城に結集できた。日ごろから捨て扶持を与えられて忍び隠れていた牢人たちにとっては、待ちに待った表舞台が大坂の陣だった。
 大坂の陣に向かう徳川方は豊臣系大名の裏切りを心底から恐れていた。
黒田長政が又兵衛に密命を与えて大坂城に入城させたという説が成立する余地はない。
 又兵衛が大坂の陣で討死したのは、武将として見事だったと最大の賛辞が送られている。
 豊臣秀頼は、自分に一命を預けた者たちを見捨てるような武将ではなかった。そのような秀頼だからこそ、又兵衛は冬の陣で大坂城に入り、和議後も大坂城を去ることなく、夏の陣を死に場所として選んだ。
 後藤又兵衛は、定めなき浮世において名称というにふさわしい知術武略を用いて生き抜いたからこそ、末代にその名を残した。
後藤又兵衛という戦国武将を見直すことが出来ました。
(2016年4月刊。820円+税)

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