弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年8月 8日

三池炭鉱・宮原社宅の少年

日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 農中 茂徳 、 出版 石風社 

戦後生まれの団塊世代が昭和30年代の社宅生活を振り返った本です。
炭鉱社宅は筑豊だけではなく、三池炭鉱をかかえる大牟田にもありました。著者の育った宮原社宅は私の育った上官町のすぐ近くです。三池工業高校の表(正門)側と裏(南側)という関係にあります。
私の実家は小売り酒屋でしたから、宮原社宅へ酒やビールを配達した覚えはありませんが、子どものころ、きっとどこかですれ違っているはずです
炭鉱社宅は、基本的に閉鎖社会でした。石塀で囲われていて、出入り口は世話方の詰所があります。その代り、このなかには共同風呂があり、巡回映画もあって、ツケのきく売店(売勘場。ばいかんば)があるので、炭鉱をクビにならない限り、生きていけました。
三池争議の前は、社宅内の人間関係は濃密でしたが、争議が始まり、労働組合が分裂して、第一組合と第二組合とが激しくいがみ合うようになると、大人社会の対立抗争が、子ども社会にまで悪影響を及ぼしてきました。
著者の語る少年時代の思い出話は、社宅生活をしたことのない私にも、十分に理解可能です。というか、そのほとんどを見聞きしています。
 ラムネン玉やパチというのは、この地方独特の呼び方です。それぞれ同じ枚数のパチを高く積み上げ、一番上に狙いを定めて、その一枚だけをフワッと返す(飛ばす)。すると、積み上げた相手のパチを総取りできるのです。これはもう、見事なものです。今も鮮やかに思い出せますが、ここまでくると一級の芸術だと子ども心ながら驚嘆していました。
 六文字、長クギ倒しなど、たくさんのなつかしい子どもの遊びが紹介されています。ただ、なぜかカン蹴りがありません。馬跳びは、中学1年生のとき、学校で休み時間にやって担任の教師に叱られました。まだまだ小学生気分だったのです。
中学生になると、上級生からの脅しに直面したこともあります。それでも、あまり大問題にならなかったのは、1クラスに50人以上いて、13クラスもあったからでしょう。一つの中学校に2000人からの生徒がいると、もう「不良」連中の統制も効かないのです。それでも、同級生のなかから傷害事件を起こして少年院に入ったとか、成人して暴力団に入ったという話をいくつも聞きました。
この本には、父親がウナギ釣りによく行っていて、夏の保存食がウナギのかば焼きだとか、弁当のおかずが毎日ウナギだったという話が出ていますが、信じられません。私にとって、ウナギは夏に大川のおじさん宅に行ったとき、堀(クリーク)干しで捕まえたウナギを食べた記憶があるくらいです。そのとき、じっと見ていたおかげで、私は弁護士になってから、娘が祭りで釣り上げたウナギをさばいて蒲焼をつくることが出来ました。
チャンバラごっこで使った木の枝がハゼの木だったので、ハゼまけ(ひどく皮膚がかぶれる炎症を起こします)にかかったというのは、私も同じ体験をしました。1週間、学校を休みました。だって、顔がお化けのようになってしまったのです。
炭鉱社宅の子どもたちがあまりに勉強していなかったように書かれていますが、実際には、子どもの教育に熱心な親は多かったのです。そろばん塾や寺子屋みたいな学習塾がたくさんありました。住んでいる地域によって階層格差が歴然としていることから、なんとか子どもだけは底辺から上がってほしいと考える親が少なくありませんでした。
昭和30年代の子どもの目から見た炭鉱社宅の生活を生き生きとえがいた貴重な本です。
(2016年6月刊。1800円+税)

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