弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年4月25日

典獄と934人のメロス

司法

(霧山昴)
著者  坂本 敏夫 、 出版  講談社

 関東大震災のとき、横浜刑務所は文字どおり全壊しました。収容されていた1000人ほどの囚人はどうしたか・・・。
刑務所から凶悪な囚徒が脱走した。そして、混乱に乗じて各所で悪事をはたらいている。そんなうわさが飛びかったようです。
 朝鮮人が移動を起こしているという噂は官製の部分もありました。それに乗せられた自警団が各地で朝鮮人を虐殺するという悲しい出来事が相次ぎました。その極致が甘粕憲兵大尉たちの大杉栄一家虐殺事件です。本当に許せない蛮行でした。
 実際には、横浜刑務所の典獄(刑務所長)が、法律にもとづき、独自の判断で24時間の開放措置をとったのでした。そして、大半の囚人は指定されたとおり戻ってきたのです。都市機能が壊滅状態になっていたため、制限時間内に戻れなかった囚人もいましたが、それでも問題を起こしていたのはありません。それどころか、船で横浜港に届いた救援物資を港で荷揚げし、被災者に分配する作業に従事するなど、解放された囚人たちは救援復興活動に役立っていたのです。
 著者は、事実を丹念に掘り起こして、感動的な物語として語ります。ここには、まさしく『走れ、メロス』の世界があります。読んでいると自然に目頭が熱くなってきます。やはり、人間って、信用されると、その期待にこたえようと頑張るんですよね・・・。根っからの悪人なんてこの世にはいないと、つくづく思わせる本です。
 実際には、逃走した囚人はゼロだった。ところが、司法省は未帰還人員は240人と発表し、その数字は訂正されることがなかった。そして、受刑者を開放して帝都一帯を大混乱に陥れたとして、椎名通蔵・典獄はすっかり悪者にされて今日に至っている。
 この本の登場人物は、ほとんど実名。それだけ史実に忠実だという自信があるわけです。
 典獄とは監獄の長。今日の刑務所長のこと。横浜刑務所の典獄になった椎名は36歳。東京帝大出身。着任して、毎日2~3回、構内をくまなく巡回し、囚人たちの名前を覚えていった。囚人も典獄の巡回を楽しみにしていた。
 当時の給料は、看守は月30~70円、看守部長が月50~80円。看守長は月85~160円。典獄は年俸制で3100円。
 椎名典獄は、囚人に鎮と縄は必要なし。刑は応報・報復ではなく、教育であるべきで、その根底には信頼がなければならないと考え、実践してきた。
 関東大震災のときに日本人が何をしたのか、その一端を知ることが出来る本としても貴重な記録だと思いました。
(2015年12月刊。1600円+税)

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