弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年11月 6日

登校拒否を生きる

社会


著者  高垣 忠一郎 、 出版  新日本出版社

 現代日本社会のありようを改めて考えさせる本です。
 いま周囲を見まわしてみると、世の中、なんだかギスギスとして、みんながやたら早足に、せっかちに歩いているように見えて落ち着かない。本当に、そのとおりですよね。
多くの子どもが親の前で「元気で明るい子」を演じている。一生けん命に自分の感情を操作し、コントロールして、親向け、教師向け、あるいは友だち向けの「自分」を演じている。
 悪夢でうなされている子どもを、揺り動かして悪夢から目覚めさせてやる。これが本当の援助だ。
 登校拒否している子どもは、登校拒否という形で、自分と社会や時代とのかかわりを表現しながら、自分の人生と向きあっている。
 「よい子」でないと見捨てられるという不安をかかえて育った子どもや若者は、「自由」に生きられない。不安と恐怖に強いられて、「ねばらない」で行動するため、自分のやったことが失敗し、自分に不都合なことが起こると、一生けん命「よい子」をやってきたのに、裏切られたと思ってしまう。この裏切られた怒りを裏切った親や社会にぶつけるようになる。
 「よい子」でがんばっている人は、「よい子」でない「あるがままの自分」を受け入れることが出来ない。「よい子」でない自分を演じている自己欺瞞をどこかで感じ、深層では、そんな自分が好きになれないでいる。
子どもを「まるごと受け容れる」とは、子どものすべてを肯定的に評価するということではない。弱点やダメなところをたくさん抱えながら生きている、その子の存在をまるごと承認し、肯定するということ。
 カウンセラーは、答えを教えるのが仕事ではない。その人が問題とまともに向きあって、自分なりの答えを見つけ出すのを手伝うのがカウンセラーの仕事だ。そうして本人が見つけ出した答えだけが、その人を変える。
 人間は、まずこの世に存在する。そのあとで自分の本質を創り上げていく存在である。一刻一刻の自分の行為によって、自分で選択する自由な「投企」によって、自分というものを証明し、創り上げていく存在なのである。うむむ、そういうことなんですか・・・。
 個性というものは、「あるがまま」の自分に素直な人にしか訪れない。
 思春期は、第二の誕生のとき。そこにあるのは、「私は誰か?」という問いかけである。
 今日の進学競争は、敗者復活戦のない「勝ち抜き競争」「生き残り競争」の観を呈している。そこでの失敗には、後(あと)がない。進学競争に負ければ自分の人生はないと思い込めば、そこでの失敗は取り返しのつかないものとなり、取り返しのつかない後悔につながる。
そのことにどこかで違和感を感じる自己がたしかに存在していた。その違和感が蓄積し、飽和状態に達したとき、そんな学校生活への拒否症状が生まれ、登校拒否に陥る。
親は学校社会から脱落した孤立感や疎外感を感じ、自分を「ダメな親」にしてしまった「ダメな子」を受け容れることができない。そして、親に受け容れられない子どもは、自分を否定し、自分を責め続けて、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感もふくらまず、なかなか元気になれない。
競争社会は、眼に見えないコストがかかる。共同性や社会性の喪失。利己主義の蔓延。その結果として生じる、不安、敵意、嫉妬、強迫観念などのもたらすマイナスの想念、メンタルヘルスの低下・・・。
 勝利することによるワクワクする高揚感、勝利感は長続きしない。勝利感、高揚感に支えられた自己愛的な誇りは、競争に勝ち続けることによってしか維持できない。競争に勝ち続けることは不可能で、いつか敗北が訪れる。栄光のときを過ぎた自分、花の盛りを過ぎた自分は、みじめなもの。他人をうち負かしても、自尊心、自己肯定感を高めることには役立たない。もっと他人をうち負かし続けなければならないという強迫感を強めるだけ。
 「勝ち組」思考の人は、自分が現実をありのままに認められず、否定しているのではないかと自分を疑ってみることが必要なのでは・・・。
さすがに長年、心理臨床家を続けてきた人の話は説得力があります。私は、この本の光ったところに赤エンピツをたくさん引いて、本が真っ赤になってしまいました。子どもの教育に関心のある人には、強く一読をおすすめします。
(2014年8月刊。1600円+税)

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