弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年6月12日

ショアーの歴史

ドイツ


著者  ジョルジュ・ベンスサン 、 出版  白水社

 1939年から1945年までに、ヒトラー・ナチスは多くの共犯者の協力を得て600万人ものヨーロッパのユダヤ人を殺戮した。これをあらわす言葉としては、ショアーがふさわしい。
ショアーとは、災厄、破壊、悲嘆を意味するユダヤ教の祭儀用語である。ゲットーという呼び名は、1516年のイタリアはヴェネチアが最初である。
 第一次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパには900万人から1000万人のユダヤ人が暮らしていた。その中にはポーランドの300万人、ルーマニアの100万人がいた。ソ連にも300万人がいた。
 1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパ全域で、ユダヤ人排斥の勢いが高まっていた。
 ドイツにおける反ユダヤ教主義の伝統は古く、厳しいものがあった。
 1933年、ドイツの国会議事堂の火災を口実としてドイツ共産党は禁止となり、4000人の幹部が逮捕され、ダッハウの強制収容所に入れられた。
ドイツのユダヤ系公務員が解雇されるのは1933年4月から。ユダヤ人弁護士は所属する弁護士会から除名された。1934年末、弁護士の7割、公職人の6割が職務遂行不能に陥った。
 1939年にはユダヤ人の運転免許証が取りあげられた。
 1933年に50万人いたユダヤ系ドイツ人のうち、15万人が1938年までにドイツを出た。
 1939年9月、ナチス・ドイツはポーランドを占領した。数ヶ月のあいだは、ユダヤ系住民はまだ一過性の嵐にすぎないと考えていた。
 ワルシャワのゲットーには、1941年に47万人のユダヤ人が住んでいた。学校などの教育組織があり、舞台劇が演じられ、地下新聞が47紙も発行された。
 ユダヤ人評議会は罠にはまった。自分たちの殺戮までも引き受けることになった。そして、評議会制度は、利権と腐敗の温床ともなった。
 「T4作戦」は、1939年1月に占領下のポーランドで始まった。
 ポーランドでも、ドイツ本国でも、精神痛者が大量に殺害された。
 ヒトラーは、反対勢力の結集を危険とみて、処分目標を達していたこともあり、1941年8月、「T4作戦」の続行を断念した。
 アメリカのユダヤ人指導者には、ユダヤ人殺戮の情報は伝えられていた。
 1942年に犠牲者は100万人だとされていたとき、実際には300万人が殺されていた。アメリカ政府は、1944年春にはアウシュヴィッツの詳細な航空写真をもっていたのに、収容所への空爆を拒んだ。同じく、イギリスのほうも空爆することはなかった。
 それぞれ、国内に反ユダヤ主義があったことと、何十万人という難民が入国するのを危惧したことによる。
 ドイツの銀行はユダヤ系市民の口座を閉め、一般市民はユダヤ人の商店や会社、アパート、家財を買いたたいた。
 ドイツのデグザ社は、被害者から奪った、死体の歯から搾取した金冠を溶かして純金のインゴットをつくり、ナチスはそれを国家資産とした。
 ナチスの犯罪は、ごく少数の酷薄な変質者によるものではない。「勤め人の犯罪」、つまり普通の人間、民間あるいは軍人、ナチス党員などによる犯罪である。
 元ナチの大多数は、身元を隠そうともしなかった。戦後のドイツやオーストリアにおいて、隠健な勤め人や企業主として豊かな暮らしを取り戻していた。
 法律家で元ナチスの高級官僚であるハンスは、戦後は、アーヘン市財政部長、1953年にはアデナウアー首相の官僚長となった。
 ナチス・ドイツを今日なお賛美する人がいるのに驚きます。しかも、ヒトラーが軽蔑していた日本人のなかにヒトラーを賛美する人がいるなんて、まさにマンガ的な状況です。
(2014年1月刊。1600円+税)

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