弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年8月25日

江戸遊女紀聞

日本史(江戸)

著者  渡辺 憲司 、 出版  ゆまに書房

18世紀の後半に薩摩の山鹿野(やまかの)に佐渡金山の3倍の産出高を誇った江戸期有数の金山があった。永野金山ともいう。串木野金山というのは知っていましたが、これは初耳でした。そして、そこに代表的な遊里があったのです。
 遊里社会では、公界(くがい)の意味は、遊女の奉公の期間をさしていう表現であることが多い。そして、公界は、務めの期間だけでなく、もう少し広い意味で、遊女の勤め一般もさしている。
 公界を、「くがいする」といった用法で、人々の中に交わる、交際するといった意味にも用いる。
 「くがい」は、公界そして、苦界、苦海と使われている。
 山東京伝の二人の妻は、ともに遊女出身だった。
江戸時代、遊女の手鑑は高い評価を受けていた。太夫、天神クラスの遊女の手紙を求めるのは、今生における一番の「大望」であると井原西鶴が語っている。
高尾とは、吉原の遊女屋三浦屋に代々引き継がれた、最高位の遊女、太夫の名跡(みょうせき)である。
 下関では遊女は売女(ばいた)と呼ばれることはなく、多くは女郎または、お女郎さんと呼ぶ。遊女は年中、素足であることが一般的だが、下関では足袋をはくのが一般的。ここでは、遊女が遊客より上座に座ることが習慣化されていた。そして、相方(あいかた)は、遊女屋(仲居)の決定に任されるなど、客の対応にも高踏的だった。
 明治5年(1872年)、明治天皇が西国へ巡幸したとき、稲荷町の遊女は、その昔、天皇に奉仕した女性であるという理由から、奉迎の式典への参加が許された。
 下関において遊女は、中世における官女伝承をうけて格別の「尊敬」があった。
遊女が年季を終えて退郭したあと、寺子屋の必須科目である読み書きを教えて生活の糧にしたというのは珍しいことではない。
 江戸時代の一面を知ることのできる本です。
(2013年1月刊。1800円+税)

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