弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年10月28日

倭人伝を読みなおす

日本史(古代史)

著者   森 浩一 、 出版   ちくま新書  

 邪馬台国が九州に会ったというのは、ごく自然なことです。なにしろ、当時の文化文明は朝鮮半島の先、中国大陸にあったのですから。奈良の大和朝廷というのは、そのあとのことですよね。吉野ヶ里遺跡、そして西都原古墳群を現地で見たら、ここに古代日本の中心があったことを、きっとあなたも確信するはずです。
倭人は中国周辺の異民族のなかでは特異な集団として扱われていた。
 『魏志』倭人伝は、3世紀の倭人社会を知るうえでは最重要の史料である。しかし、この史料は日本列島の全域ではなく、九州島の北部、とくに北西の玄界灘にのぞんだ土地を詳しく書いている。
 倭人伝研究は書斎にこもって出来るものではない。日本列島にだけ関心のある人は、ときとして倭人伝しか読まない。それでは東夷伝の高句麗や韓の条で、すでに説明されていることを知りようがない。そして、倭人伝は近隣の国のなかでもっとも多い2013字を費やして説明されている。また、登場人物も10人と最多である。
 西暦紀元頃から、倭人は漢字に親しみ、その漢字を日本文化に取り入れていった。
景初2年(238年)までは、倭は公孫氏勢力の設置した帯方郡に属し、景初3年からは魏が任命した太守のいた帯方郡を介して魏に属するようになった。
 狗邪韓国には、貿易や航海の便宜のための拠点となる土地に倭人が住んでいたとはいえ、狗邪韓国全域を倭人が掌握していたのではない。
対馬は、昔は津島と読んでいた。津は、古代の港のこと、津島とは、津の多い島のこと。浦とは漁村のこと。浦のなかでも、交易のできるような港を津と言った。津々浦々というのは海国日本の側面をとらえた言葉だ。
常に伊都国にいた「一大率(いちだいそつ)」は、一人の大率の意味であり、公孫氏勢力の帯方郡が派遣していた。伊都国には、代々、王がいた。女王国より北の6ヶ国で『倭人伝』において王がいたというのは伊都国のみ。伊都は、ヤマト政権や、その後の律令政府にとっても、重要な地であった。
 全国の弥生土器のなかで、もっとも端正で品のよい土器は、人吉盆地を中心にして出土する免田式土器と東海のパレス式土器(宮廷土器)であろう。
卑弥呼の死について「以死」とあるのは、老齢の卑弥呼が権力闘争に敗れて従容として死を選んだということ。それは、倭国を分裂された責任をとらされての自死であった。卑弥呼が死んだのは、正始8年(247年)や、その翌年だろう。
心強い九州説の本でした。
(2012年3月刊。2800円+税)

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