弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年8月10日

インカ帝国

アメリカ

著者   島田 泉・篠田 謙一 、 出版   東海大学出版会

 私もふくめて、多くの日本人が一度は行ってみたいと思っているのが、インカ帝国最後の都、マチュピチュでしょう。とは言っても、はるか彼方にあって、遠すぎます。そこで、せめて活字の上でインカ帝国をしのびたいと思って読みはじめました。
悪らつなスペイン人侵略者たちによってたちまち崩壊されたインカ帝国。文字がなく、キープというひもを使った記録がどの程度有効なものだったのか、謎は深まるばかりのインカ帝国の実相を少しだけ知った気分になりました。
インカ帝国は、自然環境の面でも社会文化的な面でも、モザイクのような性格をもっていた。
インカ道は軍事遠征の途上で敷設され、広大な帝国のほぼ全域に通じており、その統延長は2万5千キロメートル、海岸部と高地に2本の幹線道路が並行して走り、その間は何十本もの横道で結ばれている。それらの道路上に設置された行政センターや倉庫その他の帝国の施設が、インカ帝国のインフラ設備の基盤となっていた。
 キープの情報の解読は難しい。文字で書かれた使用説明書は今もってひとつも見つかっていない。インカ時代に存在した組織に関する生きた知識や技術は、植民地化で消え去ってしまった。
 1533年まで、神の地位をもつ一族がアンデスを支配していた。首都には、インカすなわち「太陽の子たち」が君臨していた。
南北アメリカ大陸の先住民は、全体としての遺伝的多様性は小さいが、地域集団同士の間の遺伝的な違いは大きい。
 インカの外交は、表面上は寛容であったが、厳格で無慈悲な支配が裏に存在した。進んで独立をインカに明けて渡さず、インカが太陽の子であることを認めなかった人々は軍によって壊滅させられ、貢納に従事させられた。
 インカは、征服した社会から何人かを戦争捕虜とし、その他多くをクスコへと連れて行き、恒久的な使用人ないし、奴隷として用いた。
インカ帝国の3分の2が3000メートル以上の高度に居住し、青銅器時代に相当する技術を用い、効率的な水上輸送手段や車輪をもつ運輸具がない状況で、困難は計り知れないものがあった。
基本的な納税単位は結婚した夫婦だった。一般的には、召集されると、世帯あたり1回2~3ヵ月の労働奉仕を負担した。軍事奉仕だと、長いあいだ家を離れる必要があった。
 インカにとって、農地と同じように重要だったのが、リャマとアルパカの群れだった。
 インカは、民族集団の特殊技能を利用して、それぞれ特殊な任務を与えた。たとえば、ルカナス族は輿の担い手、コリャ族は石工、チュンビビルカ族は踊り手として取り立てられた。また、チャチャボヤ族、カニャリ族、チュイェス族、チャルカス族は兵士として傑出していた。チリャシンガス族は食人の習慣をもっていたことから重宝された。
 近年、キープの記録能力については、多くのことが分かってきた。
 クスコは、インカ帝国における最高権力、権威の中心だった。ここで、「唯一のインカ」(サパ・インカ)であるインカ王が后であるコヤと王宮で統治した。クスコにおける行政装置に配置されたのは、10人から12人いたインカ王の直系の、あるいは傍系の子孫だった。インカ王はクスコで統治したが、帝国の広大さのわりには、その期間は驚くほど短い。
十進法による労働税システムがあった。労役は、双分制と五分組織に従って十進法の集団単位で組織化された。つまり、各地の共同体での10人の労働者が5つ集まると、50人の労働者集団となり、同規模の集団と組になって100人の労働集団となる。
 インカの王は、娯楽や儀礼のための施設だけではなく、自分が休息に訪れるための宮殿を王領につくった。
 この本を読むと、ますますインカ帝国をこの目で見て偲びたいと思ったことでした。でも、やっぱりやめておきましょう。
(2012年3月刊。3500円+税)

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