弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年6月28日

百姓たちの幕末維新

日本史(江戸)

著者   渡辺 尚志 、 出版   草思社

 江戸時代、全国にあった村は6万3千ほど。現在、全国の地方自治体は1800なので、一つの地方自治体に35ほどの村があった計算になる。平均的な村は、人口450人、戸数60~70軒、耕地面積50町、村全体の石高450~500石。
 江戸時代の百姓は、二重の意味で農民と同義ではない。一に、百姓のなかには、漁業、林業、商工学など多様な職業に携わっている人たちがふくまれていた。第二に、農業をすることが即百姓であることにはならなかった。
 農村における本来的な百姓とは、土地を所有して自立した経営を営み、領主に対して年貢などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられる身分呼称であった。つまり、百姓とは、特定の職業従事者の呼称ではなく、職業と深く関連しつつも、村人たちと領主の双方が村の正規の構成員として認めた者のことだった。
 百姓たちは、先祖伝来の所有地を手放すことについて非常に大きな抵抗感をもっていた。土地を失うということは御先祖様に顔向けできない大失態だった。
無年季的質地請け戻し(むねんきてきしっちうけもどし)慣行が存在した。
 借金返済期限がすぎて請け戻せず、いったんは質流れになった土地でも、それから何年たとうが、元金を返済しさえすれば請け戻せるという慣行が広く存在していた。質流れから、10年、20年、場合によっては100年たっても請け戻しが可能だった。
 これは、村の掟だった。村人たちが全体として貸し手に有形無形の圧力をかけることによって、この慣行は有効性を発揮した。
 百姓たちがとった没落防止策として、経営の多角化を徹底させることがあった。
 19世紀、とりわけ幕末になると、百姓たちもファッショ運に敏感になってきた。江戸などの大都市での流行が村にも波及し、10年周期くらいで流行が変遷した。
 江戸時代は、今以上に古着が広く流通していた。
 江戸時代の百姓が米を食べられなかったというのは、明らかな誤りだ。年間1石(150キログラム)以上の米を食べていた。近年の日本人の年間消費量は一人あたり60~65キログラムなので、倍以上も食べていた。ふだんは、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や粥(かゆ)や雑炊を食べ、婚礼などのハレの日には米だけの飯を腹一杯食べた。
江戸時代の百姓が肉類をまったく食べなかったというわけでもない。魚、鮮魚はあまり食べなかった。多くの村人が年貢納入に苦労しているときには、それを当人の自己責任に帰してすまさず、村役人が中心となって村として借金し、そのお金を困っている村人たちに融通していた。隣人の苦境を我がこととして、村全体で対策をとった。村人の所有地が貸し手に渡ってしまったあとは、そこからの小作料を納めないと言うことで貸し手に対抗した。
 江戸時代、幕府や大名・旗本は、領地の村々に対して、村全体の年貢納入額と各村人への割り付け方の原則を示すだけで、あとはすべて村に任せていた。実際に村内のここの家々に年貢を割り当て徴収するのは村だった。このように、年貢を一村の村人たちの連帯責任で納める制度を「村請制」という。したがって、領主は、村の一軒一軒がどれだけ年貢を納めているのか、正確には把握していなかった。
 村での年貢の割付・徴収業務を中心的に担ったのは、村役人、とりわけ名主だった。したがって、年貢の滞納者が出たとき、名主は自費で立て替えてでも上納しなければならなかった。
 村々では、村役人に無断で抜地などの不正な土地取引がさかんに行われたため、村役人も土地の所有関係を把握しきれていなかった。土地台帳が実態を反映しなくなっていた。
村人たちは、農産物価格の適正化を求めて国訴(こくそ)を起こした。幕府に訴え出たのです。日本人は昔から裁判が嫌いだったなんて、とんでもない誤りです。すぐに裁判に訴えるのが日本人でした。江戸時代は、実にたくさんの裁判が起こされています。
 百姓たちが代官をやめさせるのに成功した例もあります。老中や勘定奉行などの幕府の要人に対する非公式の働きかけを百姓(名主)がしていたのでした。
 江戸時代の百姓は、脇差を差すことが認められていた。
 江戸時代の村々には、多数の刀や鉄砲が存在していた。百姓一揆は、統制のとれた秩序と規定ある行動だった。一揆勢は、武装蜂起して武士と戦うことは考えておらず、人を殺傷するための武器も携行していなかった。手に持ったのは、自ら百姓であることを明示するための鎌や鍬といった農具だった。身につけた蓑や笠も、百姓身分を示すユニフォームだった。
 百姓一揆は反権力の武装蜂起というより、今日のデモ行進に近い。ただし、処罰を覚悟していた点が合法的なデモ行進とは異なる。
 ところが、19世紀になり、百姓一揆のあり方に変化が見られた。領主に対する要求より、買い占め、売り惜しみなどの不正行為をしたと見なされた富裕な百姓・町人に攻撃の矛先が向けられるようになった。武士に対するたたかいから、庶民内部の争いへと変わっていった。百姓一揆のなかで攻撃対象の百姓・町人の家を襲って建物・家財を破壊する打ちこわし頻発した。そのなかで一揆勢の秩序と規律が乱れ、略奪・放火・暴力行使など、従来の百姓一揆では見られなかった逸脱行為も発生するようになった。
 このように百姓一揆が攻撃性・暴力性を強めるにつれて、鎮圧する領主側との武力衝突も起こるようになった。
 江戸時代の村の様子そして百姓一揆の実態を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。1800円+税)

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