弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年6月23日

佐土原城

日本史(戦国)

著者   末永 和孝 、 出版   鉱脈社

 この3月は宮崎出張が重なりました。この本は、宮崎空港で買い求めたものです。
 佐土原城には行ったことがないのですが、宮崎は戦国時代、南の島津家と北の大友家とが激しくせりあったところと聞いていましたので、佐土原城の歴史を知りたいと思っていたのでした。
 佐土原城の歴史を語る本に、曾我兄弟の仇討ちの話が出てきたのに驚きました。
佐土原城主だった伊東氏の祖先は藤原不比等の子孫であり、藤原姓を名乗った。
 工藤祐経(すけつね)は、跡目(あとめ)相続をめぐって殺した子どもたちから富士野の巻狩のときに曽我兄弟から討たれてしまった(1193年のこと)。この工藤祐経は、京都にあって管弦や諸芸にすぐれ、公家の文化に通じていたので、源頼朝から側近として重用・厚遇されていた。工藤祐経が武将として認められ、幕府の有力御家人へと成長したのは、平家討伐のために西国へ攻めくだったときだった。
 農後国の佐伯で平家追討に功があった工藤祐経は、鎌倉に帰郷してから文武で秀でた武将として、源頼朝に仕えた。工藤祐経の死後、その子、祐時(すけとき)が、源頼朝を烏帽子(えぼし)親として元服した。やがて伊東姓を名乗り、伊東祐時と称した。祐時も源氏三代の将軍に仕えた。
 伊東祐時の四男・祐明は日向国那珂軍田嶋庄に地頭として下向した。島津氏は、島津忠久が1185年に島津荘の下司職(げすしき。地頭職)に任ぜられたことに始まる。忠久は、平家の政権下で平家の強い影響下にあった南九州に、源頼朝の信任あつい関東御家人として任命された。
 日向国に下向した伊東本家がまず手をつけたのは、本家より先に日向国に下向し、すでに本家と疎遠になっていた支族を束ね、伊東氏の権勢を高めることだった。
 伊東氏は、島津氏の勢力が日向国で強まることを恐れ、常に幕府とつながっていた。
 1578年、大友宗麟は、3万5千の兵を率いて日向に出兵し、延岡市に本陣を置いた。大友軍の総勢は5万、島津義久は弟の家久を佐土原城に置き、日向国諸将の総大将とした。
 島津氏の戦法は、釣り野伏せ(つりのぶせ)、穿抜法(うがちぬけのほう)、繰り詰め(くりつめ)である。うがちぬけのほうは、真一文字に敵に突入して切り抜ける戦法。これは、関ヶ原のたたかいのときに活用されました。敗戦必至のなかで打ち死に覚悟で家康本陣に切り込んで生きのびたのです。
 くりつめは、鉄砲を間断なく射撃する戦法。島津軍は、鉄砲を足軽に持たせず、すべて武将が持っていた。鉄砲を一番撃ち、二番撃ち、三番撃ちに分け、間断なく打ち続ける戦法である。
 戦国が江戸に生き、そして現代にも通じる話って、たくさんありますよね。
(2011年7月刊。1600円+税)

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