弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年4月 4日

武蔵成田氏

日本史(戦国)

著者   黒田 基樹 、 出版   岩田書院

 『のぼうの城』(和田竜。小学館)を面白く読んだものとして、その史実はどうだったのか関心がありました。
関東攻めの秀吉軍の一員として石田三成指揮下の2万人の軍政にわずか2千で立ち向かい、水攻めにもめげず城を守り抜いたなんて本当なんだろうか、半信半疑でした。『のぼうの城』を読んで3年半たち、ようやく史実を知ることができました。まことに小説家の想像力は偉大なものです。史実を知ったからといって、小説の面白さが消えてなくなるわけではありません。
秀吉が北条氏政・氏直親子らの北条一族の守る小田原城攻めに動員した兵力は総勢24万人といわれている。これに対して北条勢は3万余人。
 天正18年(1590年)3月に小田原攻めの緒戦が始まると、秀吉軍は次々に北条方の城を攻略した。6月には、関東で残る北条方の城は小田原城のほかは忍城だけとなった。秀吉は忍城を攻めるため石田三成を指揮官として、佐竹義宣、宇都宮国綱、多賀谷重綱、水谷勝俊、結城晴朝ら関東の諸将をあわせて2万余の大軍を派遣した。ここに、関東の戦国合戦の最後を飾る忍城攻めが始まった。
忍城は周囲を沼と湿地に囲まれた難攻不落の城郭である。城内には、雑兵・百姓・町人・神官・女子供ら3000あまりが立て籠もった。
 秀吉は忍城の攻略方法として、石田三成に水攻めを指示した。三成の築いた堤防は石田堤と呼ばれ、現在も一部が残っている。秀吉の忍城攻めの方針は、周囲を包囲したうえで水攻めの用意を周到にさせて、開城させようというもので、力攻めは想定していなかった。
 7月1日、北条氏直は秀吉へ降伏し、7月5日に小田原城を出た。これにより、北条方で残ったのは忍城ただ一城のみとなった。そして、秀吉は最後に残った忍城攻めの仕上げに取りかかった。しかし、小田原城まで開城したとあっては、忍城も籠城する理由を失った。
秀吉は7月15日に忍城水攻めを見物し、17日には小田原を出陣して会津に向かう予定だったが、水攻めは出来ていなかった。いくら秀吉が忍城水攻めに執心を燃やしても、あと半月かかるか1ヵ月かかるか分からない状態では待ってはいられなかった。奥州平定がそのために遅れたのでは、忍城水攻めどころではない。秀吉は水攻め見物をあきらめ、北条氏直に忍城の開城を命じた。7月16日、忍城に立て籠もっていた成田勢は一同堂々と出城した。
 石田三成の忍城水攻めはなく、忍城総攻撃もなかった。実際にあったのは、5月1日の忍城の皿尾出張の乗取り合戦だけだった。
 ところで忍城攻めのために石田三成が高額の労賃を呈示して近隣から労務者をかき集めたのは事実でした。
昼は永楽銭60文と米1升を支給する。夜は永楽銭100文と米1升とする。
 この労賃の高さに、15歳前後の若衆から60代の老人まで応募した。そして、6ヶ所に区画して、1部隊が1区画を担当して、一斉に工事をすすめた。こうやって水攻め用堤防14キロは1ヵ月ほどの短期間で完成した。人海戦術が成功したわけである。そのうえで利根川の水を入れて、荒川をせき止めなければならない。それにまた大工事を要した。なーるほど、すごい工事だったようです。
 郷土史をここまで調べあげたことに驚嘆しながら、一気に読みすすめました。
(2012年1月刊。3800円+税)
 日曜日の午後、庭の桜の木が半ば枯れているのに気がつきました。根本のところが虫食い状態になっていたのです。道理で今年は花が少ししか咲かなかったのでした。
 そこで残念ですがノコギリで切りはじめました。幹の部分を切って、枝を切っている最中、誤って左手にノコギリの刃を当ててしまいました。
 そこで、指を口にふくんで、30分ほど、チューリップを眺めながらじっとしていました。ケガをしたとき、下手に消毒しないほうがよい、人間の自然治癒力に任せるべきだという記事を読んだばかりでしたので早速実践してみたのです。おかげで、痛みはありますが、まあ、なんとかなりました。

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