弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年3月31日

伊予小松藩会所日記

日本史(江戸)

著者  増川 宏一 、  北村六合光  、  出版   集英社新書   

 日本人の日記好きは昔からのことです。なんでも文字にして残したがる習性は、私にもしっかり受け継がれています。私は今年2冊目の本を編集して発刊しようとしています。写真もふんだんに盛り込んで、読んで楽しい冊子を目ざしています。
 この本は、なんと150年間もの長きにわたって書きつづられてきた藩の公用日誌を読み解いたものです。その苦労のほどがしのばれます。
 舞台は、愛媛県の小松町。藩の人口は1万人。武士はわずか数十人しかいない、ごくごく小さな伊予小松藩の公用日誌です。
 小松藩の家臣のうち武士は60人、足軽は40人。士分として扱われたのは幕末時に  130人。これに足軽や小者をふくめても200人ほど。これが家臣団とされていた。
 家老は1人だけ。喜多川家が家老を世襲した。家老の禄高は400石。藩政は、家老と数人の奉行の合議制によっていた。家老が公用の政務をつづった記録を「会所日記」という。この会所日記は150年間にわたって書きつづけられたが、小藩なので、領内の隅々にまで目が行き届いている。そこで領民の生活の実情を知ることができる。
 小松藩は、大きな商人からだけでなく、公家や近在の百姓からもお金やお米を借りていた。
領民のぜいたくを禁止する倹約令は次のような内容だった。
 ひさし付きの家や瓦葺の屋根を禁止する。
 お寺で三味線や琴で高声をあげ、にぎやかに振る舞うことを差し止める。
 衣類や髪かざりが華美になっている。象牙のかんざし、絹の帯をしめているのは倹約令にそむく。
下級武士については、武家以外の農民や承認との縁組を認めていた。これは、減俸への有効な対応でもあった。
 幕府は各藩に対して藩札の発行を禁止していた。それは、通貨の混乱を防ぐための措置である。しかし、小松藩は、幕府の公許をえないまま、非合法の藩札発行にふみ切った。ただ、藩札には藩の名前は入れなかった。名前も藩札ではなく、「銭預り札(ぜにあずかりふだ)」とした。しかし、印刷と発行には、藩が全面的に取り組んだ。
この銭預り札を発行して、藩の権威で強制的に流通させることによって、藩は領内で通用している銀を吸い上げることができた。そして、銀は、江戸屋敷の費用や大阪での支払いに充てることができた。つまり、消費にまわされた。
藩札発行にふみ切った慢性的な財政危機の一因は、参勤交代の旅費と江戸屋敷の維持費だった。藩の年貢収入の半分はこのために支出された。
小松藩の参勤交代時の行列は総勢110人。随員としての藩士は30人ほど。それでもこれは、全藩士の半分に近い。
小松領内で殺人や傷害、強盗のような凶悪で粗暴な犯罪は起きていなかった。ほとんど、空き巣狙いのような窃盗犯である。平和な藩だったようです。
江戸時代の人々の生活が実感として伝わってくる本でした。
(2011年10月刊。2800円+税)

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