弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年1月25日

アフガン諜報戦争(下)

アメリカ

著者  スティーブ・コール 、 出版  白水社

 アメリカがウサマ・ビンラディンを拘束・殺害する計画というのは、昔から、あの9.11より前からあったのですね。CIAの公式計画になっていたのです。それは、遅くとも1996年から始まっています。
 CIAは、1997年にはビンラディンがときおり滞在する住居を知っていた。それはオマル氏が用意したカンダハル市内外の屋敷だった。
 ワシントンは1998年、ビンラディンを捕獲する計画の構想を承認した。ビンラディンを捕まえたら、アフガン南部の洞窟内に3日間拘束する計画だった。カンダハル空港の近くにあるビンラディンの農場を襲撃する計画をCIAは立案した。ところが、実施直前、ぎりぎりのところで、クリントン政権はこの計画を放棄した。
 1998年8月、アフリカのケニア(ナイロビ)とタンザニア(グルエスラサーム)で自爆攻撃があり、アメリカ人を含めて数千人の死傷者を出した。この事件の背後にビンラディンがいる可能性は高いとCIAは分析した。
 CIAの任務はアメリカへの奇襲攻撃を防ぐことだった。そのために何千人もの分析官などが仕事をしていた。
 諜報の泥沼のなかに不気味なパターンが見えた。その一つは、ビンラディンの工作員たちが航空機に関心をもっていることだった。また、ビンラディンがアメリカ本土での攻撃を計画していることが次第に明らかになっていた。CIAが世界規模で活動を強化したにもかかわらず、盗聴からも取り調べからもハンブルクを拠点とする4人のアラブ人が密かにアフガニスタンを出入りしていたことはつかめなかった。
 数年間にわたる努力にもかかわらず、CIAはアルカイダの中核指導部に一人もスパイを獲得できなかった。
 ビンラディンは徹底的で実践的な安全対策をしていた。電話の使い方も用心深かった。身の回りの護衛にはアフガン人を入れず、旧知の信頼できるアラブ人だけを使っていた。絶えず移動ルートを変え、同じ場所に長く滞在せず、行動計画はないリンのアラブ人以外には誰にも明かさなかった。
 CIAの情報源とスパイは主にアフガン人で、ビンラディンの中核指導部にいる護衛と指導グループによって隅に追いやられていた。
 CIA工作員は、ビンラディンの保安上の弱点は、数人の妻たちにあると考えていた。
 ホワイトハウスが国防総省にビンラディンを攻撃し拘束する作戦立案を初めて依頼したのは1998年秋のこと。
 2001年春、CIAのビンラディンに関する脅威報告は、テロ対策センターがめったに見たことがないレベルにまで格上げされた。ビンラディンのチームがアメリカにカナダから爆発物の密輸を試みているという報告を得た。
 8月6日。「ビンラディン、アメリカ攻撃を決意」、これがブッシュ大統領に対する朝の報告の見出しだった。
「我々はもうすぐ攻撃されるだろう」国防総省のテロ対策会議での発言である。
 ハイジャック犯たちの資金は、アラブ首長国連邦に住むアルカイダ関係者から送金されていた。
 CIA最大の凡ミスは、テロ対策センターが2000年の前半にアメリカのビザを所持するアルカイダ支持者2人の存在を知りながら、監視対象者リストに乗せそこなったこと。
 9月9日、アフガニスタンでカメラマンに化けた暗殺者の自爆テロによってCIAと連絡していたマスードは殺された。
 この部厚い本を読むと、アメリカ(CIA)はビンラディンの住所を追い、その動きを一貫して警戒していながら、9.11を防ぐことが出来なかったというわけです。なんだかむなしくなります。テロ防止には武力(軍事力)だけではダメだということを改めて思い知ったような気がします。
(2011年9月刊。3200円+税)

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