弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年9月21日

赤紙と徴兵

日本史

著者   吉田 敏浩 、 出版   彩流社

 戦前の徴兵制の運用の詳しい実態が村役場の兵事係が終戦時の命令に反して焼却せずに隠匿していた兵事書類を通じて明らかにされた貴重な本です。
 滋賀県長浜市(当時は東浅井郡大郷村)の役場で兵事係をしていた西邑(にしむら)仁平氏は自宅で密かに兵事書類を保管していた。それを戦後60年たって公表した。
 西邑氏は、1930年に25歳で兵事係に任命され、敗戦の年は兵事主任だった。
「これを処分してしまったら、戦争に従った人の労苦や功績がなくなってしまう。遺族にも申し訳ない」こういう気持ちからだったそうです。なるほどですね。
 戦前、兵役は納税と教育とともに、臣民の三大義務の一つだった。ただし、兵役は名誉ある義務とされていたので、6年以上の懲役または禁錮の刑に処せられた者は兵役に服することを得ないと定められていた。
 軍は市町村の兵事係に対して徴兵忌避者は「市町村の恥辱と心得よ」と強制的な姿勢でのぞみ、「百方手段を講じて捜査に努力して、徴兵検査未済者の絶滅を期せ」とした。
 出征するとき、召集兵は、たすきをかけたが、現役兵はかけなかった。
 戦前の日本では、軍隊への入り方は4通りあった。①現役兵、②召集兵(応召兵)、③志願兵、④武官。このうち、①は徴集、②は召集の義務に応じて入隊した。③と④は、徴集や召集をされる前に志願して入隊した。召集兵は、召集令状によって入隊を命じられた者をいう。
  満20歳での徴集検査の結果、現役兵として入隊したとき、現役の期間は陸軍で2年、海軍で3年だった。
 兵役の義務は、17歳から40歳までの23年間にも及んだ。召集令状(赤紙)は自転車に乗って届けた。なぜか夜間が多い。自転車は全速力で走らせ、途中で誰かに話しかけられても応じない。自転車を停めてはいけない。兵事係はそんな指示を受けていた。
 赤紙を受けとった男たちは、それから35時間足らずの後には、召集部隊の兵営の門をくぐらなければならなかった。
 軍は、赤紙を受けとった応召員とその家族が、召集をどのように受けとめているのかを知ることを重視していた。だから、兵事係は応召員とその家族の動向を調べるように定められていた。本人の士気、家族と住民の様子がどうだったか報告しなければならなかった。
 軍は「身材」という言葉を使った。軍隊用語である。体格と健康程度、性質などによって、甲、乙、丙とランク付けされる兵士の身体を、軍隊を構成する材料・素材とみなしていた。
 召集延期者数は、太平洋戦争が始まる前は10万人以下だったが、昭和18年度38万人、19年度は70万人、20年度には85万人にのぼった。この制度は極秘とされた。国民から徴兵制の公平さに対して疑いをもたれないようにするためだった。実際には「軍需生産上、余人をもって代え難い重要な役割を果たす者」というのを各官庁が選んで名簿を提出し、陸軍大臣が決定した。
 兵事係だった西邑仁平氏は2010年に105歳で亡くなった。貴重な資料を残してくれたわけです。戦後の平和な日本、そして韓国のような徴兵制度のない国に生まれ育って、本当に良かったと私は考えています。赤紙一枚で軍隊に引っぱられて、黙って死んでこいなんて、まっぴらごめんです。
(2011年8月刊。2000円+税)

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