弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年5月15日

江戸絵画の不都合な真実

日本史(江戸)

著者    狩野 博幸 、 出版   筑摩選書
 
 東洲斎写楽とは誰なのか、というテーマは永く論じられてきたわけですが、著者は、一刀両断、明快に断じます。今から30年も前に、俗称斉藤十郎兵衛、阿彼候の能役者(斉藤月岑(げっしん))である、としたものです。ですから、表現の自由はされているといっても、オランダ人説などが今もって登場するのをみて溜息さえ出ない、というのです。この点については、中野三敏著の『写楽、江戸人としての実像』(中公新書)が詳しいとしています。
 つまり、能役者の絵を描くのは、遊女を描くのとは違って、士分の者には許されないことだった。大名お抱えの能役者には非番の年があった。だから、士分の斉藤十郎兵衛は能役者をこっそり描くしかなかった。なーるほど、と思いました。
また、葛飾北斎が幕府の隠密だったどころか、逆に幕府から徹底的に弾圧されていた富士講に関係していたというのを初めて知りました。富士講というのは、富士山信仰から出てきた組織なのですが、幕末まで禁止され続けてきた宗派でした。
食行身禄(じきぎょうみろく)は、政治の無策に対して、自分の「食」を断つことで、異議申立した。食行身禄は、仏とは人間の思念が作ったもの、仏だけでなく神もまた一切は人間がつくりあげたものなのであると断言した。むむむ、すごいですね。
富士講は、富士信仰を指導した。江戸中に富士の五合目より上の形を模して築山をつくった。明治25年、富士講の一派(丸山講)だけで、137万9180人の信者がいた。
北斎は、そこに関わっていた。うへーっ、そうなんですか・・・。江戸のいたるところにミニ富士山があったと聞いていましたが、それには幕府への反抗、そして幕府による弾圧もあったのですね・・・。
若沖(じゃくちゅう)についても、町年寄として京都町奉行と果敢にたたかった側面が発掘され、紹介されています。絵だけでなく、実社会でも素晴らしく活躍した人だったのですね・・・。
英一蝶(はなぶさいっちょう)という画家が三宅島に流されたことは知っていましたが一蝶が幕府から厳しく弾圧されていた不受不施派のメンバーだったとは知りませんでした。不受不施派とは、異教の者からの布施は決して受け取らず、異教の者に対して布施もしないというもの。要するに、一蝶の信じた不受不施派は、禁教となったが、地下に潜行しただけで、教養は滅びることがなかった。
私と同世代の学者なんですが、団塊世代と容易にひとくくりするのに抵抗しています。私も、あまり世代論はしたくありません。
(2010年10月刊。1800円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー