弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年2月17日

毛沢東(下)

中国

著者 フィリップ・ショート、   白水社 出版 
 
 1941年、国共合作は緊張関係にあった。1940年秋の百団大戦によって日本兵2万6千が死傷し、抗日戦争で共産党軍は大きな成果をあげた。そのため蒋介石は共産党を警戒し、国民党軍に共産党新四軍を奇襲攻撃させた。しかし、この窮地にあっても、共産党は統一戦線策は放棄できなかった。そのおかげで、紅軍(共産党軍)は5万人から
50万人へと発展していった。
1943年から44年にかけて、周恩来は辛い状況に置かれていた。毛沢東は周恩来に対して実績と信念の欠落、権力ある集団に振りまわされやすいことを激しく批判した。
 1946年から1950年にかけて、紅軍(人民解放軍)は国民党の軍勢に押されて後退を強いられた。しかし、1947年2月には、毛の戦略によって国民党軍218旅団のうち50以上が戦闘力を失い、投降した国民党兵のほとんどは共産党軍に吸収され、人民解放軍の新たな人的資源となっていた。
 国民党軍の司令部には共産党のスパイが入りこんでいた。副参謀長も、戦時計画委員会の責任もそうだった。ここが中国共産党のすごいところですね。ベトナムでも、南ベトナム軍の中枢に「北」のスパイが潜入していました。激烈な戦争は隠れた英雄を生み出すものなのですね。
 1949年10月1日、北京の天安門広場で、毛沢東は中華人民共和国の設立を宣言し国家主席に就任した。ところで、その前、スターリンは毛沢東に対して、長江を渡らないこと、中国の北半分を掌握したら満足するように言っていた。アメリカを刺激しないためにはそれが賢明だと説明した。しかし、中国が分裂するのはロシアの利益のためだと毛沢東には分かっていた。
 1950年に始まった朝鮮戦争は、毛沢東の歓迎したものだった。金日成とは相互に不信感があった。
毛沢東は中南海にいて、身辺警固のため警衛兵が三重に円を描くように配置されていた。食材は指定された安全な農園から提供され、毛の口に入る前に毒味されていた。お抱え医師がいて、移動するときには、事前の十分な偵察なくしてはありえなかった。装甲を施した専用列車で旅行し、飛行機には滅多に乗らなかった。台湾の国民党軍の破壊工作や砲撃を恐れていたからである。
 1959年、大躍進政策の誤りを批判した彭徳懐が失脚した。しかし、毛沢東にしても、朝鮮戦争の英雄でもある彭徳懐を切り捨てるのは容易なことではなかった。
1965年、毛沢東は巻き返しを図りはじめた。正面からの攻撃はできないので、お得意のゲリラ戦術でいった。毛沢東が共産党そのものに対して大衆をけしかけようと決めていたなど、あまりに荒唐無稽であり、政治局の誰一人として信じられなかった。そうなんですね、そのまさかが自分たちの災難になって降りかかったわけです。
 紅衛兵の指導者たちがやったことは、毛沢東自身がAB団の粛清をしたときと同じことだった。
 1967年、中央政治局は機能を停止した。毛沢東は多人数が団結して毛沢東の敵にまわってしまう危険を避けたかった。そこで政治局のかわりに常務委員会や周恩来が率いることになった文革小組の拡大会議を開くことにした。
 林彪が中国人民解放軍を完全に掌握することはついになかった。500万人という規模があり、指揮系統と昔からの忠誠をそれぞれに備えたさまざまな根拠地からの成り立ちのせいで、毛沢東以外の誰にも中国軍をコントロールすることは出来なかった。
毛沢東は強い不信感のせいで、絶えず取り巻きグループの忠誠を確かめないと気がすまなかった。周恩来が生き残ったのは、毛沢東の信頼を保つためなら誰でも裏切ったからだ。毛沢東は周恩来に親愛の情を抱いたことは一度もなかったし、周の死に対しても心動かされた様子を示していない。中南海の職員に対して黒い喪章を腕につけることを禁じた。 
毛沢東の実際にかなり迫っている本だと思いました。
(2010年7月刊。3000円+税)

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