弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年2月16日

ノモンハン戦車戦

日本史

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 1939年5月から9月にかけて、モンゴルとの国境付近で日本軍(関東軍)がソ連軍(赤軍)と正面から戦って惨敗したのがノモンハン事件です。この本は、その地上戦における戦車部隊を中心として戦争の推移を追っています。この本とは別に、『ノモンハン航空戦』という本も出ていますので、追ってご紹介します。
 モンゴル人民共和国と満州国とのあいだの国境はきわめてあいまいだった。全長40キロの国境には、国境標識がわずか35個しかなかった。自然境界もハルハ河とボイル湖を除いてはなく、水域に関する合意もなかった。双方ともお互いに譲らず、外交的な解決は望んでいなかった。ノモンハン戦の原因は満蒙国境の曖昧さと双方が交渉を望まなかったことにある。
 5月の時点では、制空権は完全に日本軍航空隊が握っていた。ソ連軍のパイロットたちの訓練度は低く、中国戦線で経験を積んだパイロットが多い日本軍航空部隊に立ち向かうことはできなかった。
 5月の戦闘は、ソ連軍部隊の訓練に深刻な欠点のあることを暴露した。それは、何より偵察と部隊の指揮統制・通信の面で顕著だった。各種部隊間の相互連携もうまく組織されていなかった。
 1939年6月、ジューコフが第57特別軍団長に就任した。それまでのジューコフには戦闘経験はなかった。ところがジューコフは、前任の軍団幹部らをスパイと決めつめ、「人民の敵」として一掃した。過去に戦闘経験のないジューコフはいきなり砂漠と草原という特殊な条件下で人的・物的損害を惜しまない物量戦を展開した。それは前線の将兵に不評だった。
 日本軍の戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連の兵器は性能が優れており、敵は機敏で粘り強く、士気も高い。敵の資質は予想よりはるかに高いことを悟った。ソ連軍の砲撃はあまりに強力かつ効果的で、日本軍が中国で経験したことのないほどのものだった。7月の戦闘を総括して玉田大佐はソ連軍に高い評価を与えた。
「敵の戦意を見くびるべきではない。彼らは組織、物質、戦力において明らかに我が方を上回っている。白兵戦になっても退却しようとせず、一部には手榴弾で自爆する者もいた」
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。
 停戦協定が結ばれたあと、関東軍代表団は遺体をどれだけ回収したいか、その数字をあげたがらなかった。それが公式に認める損害となることを嫌ったからである。10日間の痛い回収作業によって、日本軍は6281人の遺体を収容し、38人のソ連軍将兵の遺体をソ連側に引き渡した。
ノモンハン戦の地上における戦いの様子の一端を多くの写真とともに明らかにした冊子です。
 
(2007年9月刊。2500円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー