弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年3月13日

それでも江戸は鎖国だったのか

江戸時代

著者:片桐 一男、 発行:吉川弘文館

 オランダ連合東インド会社の日本支店であるオランダ商館における責任者、商館長=カピタンは、貿易業務を終えた後の閑期を利用して、江戸に「御礼」の旅をした。これをカピタンの江戸参府(さんぷ)と呼ぶ。カピタンの江戸参府は、オランダ商館が平戸にあったときから、不定期に行われていたが、寛永10年(1633年)から毎年春1回に定例化された。寛政2年(1790年)以降は、貿易半減に伴い、4年に1回となり、嘉永3年(1850年)までに166回の多きを数えている。
 これは、朝鮮通話使の12回、琉球使節の江戸登り18回に比べて断然多く、注目に値する。そして、カピタンは随員とともに江戸で宿泊し滞在した。そのときの定宿が本石(ほんごく)町3丁目の長崎屋である。本石町はお江戸日本橋に近い。いま、その場所は、JR新日本橋駅のあたりである。
 長崎出島からカピタン江戸参府の一行は、「鳥小屋」まで持ち運び、鶏を飼いながら旅を続けてきた。カピタンが江戸参府で献上・進物用に持参した毛類反物のうち、老中、側用人、若年寄、寺社奉行に贈られた「進物」が、それぞれのお屋敷において「御払物」になって売られた。長崎屋の手を経て、それを引き請けたのが越後屋であった。
 長崎屋はオランダ文化のサロンになっていた。平賀源内も客の一人である。医師の前野良沢、同じく杉田玄白も長崎屋を訪問している。大概玄沢そして青木昆陽も。うひゃあ、す、すごーい。なんと有名人ばかりではありませんか。すごい、すごい。
 若い医師シーボルトは、一か月以上も長崎屋に滞在して江戸の学者たちと親交を深め、情報の収集・資料の交換・買取、対談、教授、診療と、多忙な毎日を過ごした。
 前の中津藩主だった奥平昌高(中津候)は、オランダ語を身につけ、なんとオランダ語の詩まで書いた。うへーっ、これって驚きですよね。フレデリック・ヘンドリックというオランダ名前も持っていました。いやあ、すごいですね、これって。そしてこの中津候は、シーボルトが携帯して運び込んだ小型ピアノを大変気に入ったというのです。江戸時代に日本人がピアノの音を聴いていたとは、まったく想像もしませんでした。
 長崎屋の2階にシーボルトが滞在していたとき、そこは多目的ホールと化していた。民族学・民族学・動物学・植物学・機械工学・芸術学・飲食物の学など、教室であり、研究室であり、レクリエーション室であった。
 すごいですね、すごいですよ。ちっとも知りませんでした。花のお江戸に、こんな長崎屋があったなんて……。

(2008年11月刊。1700円+税)

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