弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年3月11日

アメリカ人が見た裁判員制度

司法

著者 コリン・P・A・ジョーンズ、 出版 平凡社新書

 陪審制度と裁判員制度を一緒にするのは、陪審制度に対していささか「失礼」なことだ。陪審制度は、個人を公権力から守る最後の砦である。これに対して、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度でしかない。
 ううむ、なるほど、そういう見方もあるのですか……。この本は日本の大学で教えているアメリカ人弁護士の書いた本です。
 日本の法律は、まず、お役所のためにある。アメリカ的考えによると、法律とは市民による市民のためのルールである。このルールにのっとって行動している限り、公権力の介入は受けないし、公権力が介入してきても、そのためのルールに従わなければならない。
 ところが、日本の法律は、まずは国民を公権力に屈服させるためにある。ふむふむ、なかなかに鋭い指摘です。
裁判官は事実を科学的に検証して究明するようなトレーニングは受けていない。重大なことは専門家に任せようという考えには、民主主義の終焉が内在している。
 陪審は、評決にあたって理由を示す必要はなく、評決の内容について責任を取らされることもない。この原則は、陪審にすごいパワーを与えている。それは、法律を無視するパワーだ。うーん、ズバリ、こう言われると、考えさせられます。
 裁判員制度についてのPRパンフレットには、裁判員があたかも裁判の「主役」であるかのように書かれている。しかし、実のところ与えられている権限や決定プロセスにおける影響力の度合からすると、裁判員は裁判官に服従する「脇役」になることしか期待されていない。
 裁判員裁判ははたして誰のためのものなのか? その答えは、裁判官のための制度である、ということになる。いま出来上がった裁判員裁判は、裁判官にとってかなり有利なものである。
 なぜなら、裁判員制度は、裁判に対する批判をなくすためにあるから。司法制度に対する批判回避が裁判員制度の一つの目論見である。裁判員制度は、司法が国民の威を最大限に借りながら、最小限の影響力しか国民に付与しない制度である。今までにあった司法制度への批判を排除しながら、今までどおりの裁判の「正しい」結果、つまり警察が逮捕して取り調べ、検察が確信を持って起訴した被告人が何らかの罰を受ける結果、を実現するための制度である。
 しかし、このように言ったからと言って、著者が裁判員制度に反対しているのではありません。むしろ、逆に、うまく機能してほしい、日本における国民の司法参加がシンボリックなものに終わらなければよいと考えているのです。
 法曹の中で、裁判員制度の行方について一番の決め手になるのは弁護士だろう。
 日本では、いったんお役所を敵に回せば、アメリカより怖い。それも、お役所が「悪い」からではなく、99%善意と良識のある人たちが「正しいこと」をやっているつもりだからこそ怖いのだ。
 うむむ、この本には日本の弁護士として耳の痛いことが満載です。でも、いよいよ5月から始まる裁判員制度について、単に「ぶっつぶせ」などと叫んでいるだけでなく、被告人との十分なコミュニケーションをとって、裁判員裁判の法廷で市民を強く惹きつける弁論をやりきらなければならない時代が到来したのです。すごく胸のワクワクしてくる時代に、いま、私たちは生きています。そう考えると、この世の中にも楽しいことがたくさんあることに気づかされます。
あさ、雨戸を開けると、ウグイスのさわやかな鳴き声がすぐ近くに聞こえます。軽やかな澄んだ声に春を感じます。黄水仙が庭のあちこちに鮮やかな黄色の花を咲かして眼が現れる思いです。
 隣家のハクモクレンが今を盛りにたくさんの純白の花を咲かせていて、あれ、これってどこかで似た光景を見たぞ、と思いました。そうです。ベルサイユ宮殿の鏡の間のシャンデリアをちょうどさかさまにしたような、あでやかさです。花にはいろんなものを連想させ、思い出させてくれる楽しみもあります。
(2008年11月刊。720円+税)

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