弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年2月17日

裁判員制度と国民

司法

著者 土屋 美明、 出版 花伝社

 G8(先進国首脳会議)の参加国のうち、国民参加の刑事裁判が行われていないのは日本だけ。世界195ヶ国のうち、80ヶ国で国民が刑事裁判に参加する手続をとっている。おとなりの韓国も陪審員に評決権のない「国民参与裁判」の試行をはじめ、中国でも人民陪審員制度を実施している。
 ところで、アメリカで陪審裁判は、刑事事件全体の5%程度でしかない。
 ドイツの刑事裁判は、捜査段階で警察官がつくった調書はそのままでは証拠にならず、公判での警察官らの証言と証拠物のみにもとづいて審理される。
 フランスの陪審法廷では、判決の言い渡しが夜10時というのは普通で、難しい事件は日付の変わった午前1時ころになることもある。重罪院の判決に対して不服があるときには、他の重罪院に対して控訴できる。そして、このときには参審員を3人増やして12人とし、裁判官3人をあわせて15人で審理する。いやあ、これって大変なことですよね。深夜に帰宅する人はちょっと怖いでしょうね。
 日本の司法に国民が参加することは、司法の姿を決定的に変える。裁判員制度は単に国民が難しい刑事裁判が引っ張り出されるだけの新しい制度というものではない。何世代にもわたる長い時間をかけて、参加が徐々に広がっていけば、日本の社会を根っこから変革していく可能性をもっている。
私も、この指摘にまったく同感です。国民が主人公なのです。それを実感する人が増えたら、この日本ももう少しまともな国になるような気がします。
 重大な刑事事件の裁判は、もともと気持ちの負担の重いものであり、それを国民があえて引き受けてこそ、この制度を行う意味がある。好んで出てくる人だけを集めていては、裁判員制度が広く国民の信頼を得られるようにはならない。簡単に逃げ道を作るようでは、制度そのものが基盤を失い、破綻しかねない。
 今の刑事裁判を批判するのなら、裁判員制度をテコとして批判を少しでも変えていくべきではないのか。そのとおりです。裁判員ぶっつぶせと叫んでいる人には、ぜひ考え直してほしいと思います。
 著者は、裁判員候補者と呼ばれた市民を、選ばれなかったときに、そのまま帰すのではなく、刑務所を案内したり、司法の実情について十分に知ってもらうチャンスとして生かすべきではないかという提案をしています。これまたまったく同感です。国民のなかに死刑賛成の声が高まっているとき、死刑執行はどのようになされているのか、その執行に関わっている人たちはどんな気持ちなのか、多くの市民に知ってもらうことには大きな意味があると思います。また、刑務所の処遇の実情(独居房の様子や労働状況など)も知ってもらったら、「懲役1年」の意味が実感できると思います。
 戦前の陪審制度だけでなく、裁判員制度も失敗するような事態になったら、日本の国民は、そもそも司法への参加になじまない国民性だという批判を裏付けることになるだろう。国民参加は、二度と主張できなくなるに違いない。
 著者のこの不幸な予測が当たらないことを私も願っています。著者は、共同通信社の論説委員をつとめ、裁判員裁判の制度設計に関わったジャーナリストですが、その冷静な論述はかえって溢れる熱意を感じさせるものがあります。私も、5月から始まる裁判員制度は必ず成功させたいと考えていますし、その弁護人をやってみたい気持ちでいっぱいです。弁論で、市民を説得してみたいと思います。
 いま、梅の花がいたるところに咲き誇っています。日曜日に、梅の木の徒長枝を切ってやりました。我が家の梅は少し形が悪いので、形を整えようと思ったのです。紅梅の枝を切って断面を見たら、枝自体が紅く驚きました。白梅のほうとは全然ちがいます。白梅の方は白いというより、普通の木の色なのです。
(2009年1月刊。2500円+税)

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