弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年8月26日

百姓の力

江戸時代

著者:渡辺尚志、出版社:柏書房
 現代日本人の代表的な行動特性に、狭い人間関係のなかでの評価には非常に敏感で、過剰なほどまわりに気をつかうというものがある。会社や学校などの小さな社会のなかで、自分の本心を隠してでも周囲から浮かないことを心がけ、場の空気を読んで行動し、集団の和を重視する。ところが、その世間を一歩出ると、とたんに周囲には無頓着となる。タバコのポイ捨て、電車内での携帯電話、人前での化粧など、何とも思わなくなる。こうした日本人の行動パターンは、狭い村が世間そのものであり、そこから排除されるとたちまち生活基盤の崩壊につながった江戸時代の村人の暮らしから生まれた。このように、現代日本社会は、江戸時代の社会の延長線上にある。ふむふむ、このように言われると、なるほどと思ってしまいますね。
 江戸時代における全国の村の数は、元禄10年(1697年)に6万3000ほど。平均的な村は、人口4000人ほどだった。
 江戸時代に庶民の識字率は上昇した。明治8年(1875年)の学齢人口(6〜11歳)の就学率は男子54%、女子19%。全国の寺子屋は明治8年までに1万5500校あった。19世紀には、1軒の寺子屋に平均して男43人、女17人の子どもが在籍していた。
 村には文書を保管するための専用倉庫(郷蔵)が建てられた。半紙に一行かかれただけの短い文書であっても、千金にかえがたい貴重な価値があるとされた。
 1600年ころの日本の総人口は1500〜1600万人、耕地面積は163万5000町歩。享保6年(1721年)には人口3128万人、297町歩へ急増した。人口は2倍、耕地面積は1.8倍に増えた。人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるものだった。
 日本人の多くが江戸時代、古くても戦国時代までしか先祖をたどれない。これは記録がないからではなく、それ以前には、百姓の家そのものが成立していなかったことを意味する。うむむ、そういうことだったのですね。安定的な「家」なるものは、中世前にはなかったわけなのですか・・・。私も祖先のルーツを少し調べてみましたが、私の家では江戸時代にまでさかのぼるのがやっとでした。お寺の過去帳までは調べることができなかったのです。知人に100回忌を永年営んでいるという人がいます。私はそれを聞いて驚きました。古くからのお寺が存続しているから、そんなことができるのです。
 近代になる前の社会では、土地の所有権は一元化されず、一つの土地に複数の所有者がいる状態が、むしろ普通だった。百姓と武士とが、それぞれ権利の内容を異にしながら、ともに所有者として一つの土地に関係していた。領主の所有権は国家の領有権に近い性格をもっており、百姓の所持権とは位相が異なっていた。そして、注目すべきは、村も所有者として土地に関係していたということ。
 割地(わりち)とは、村が主体となって定期的に農地を割り替えること。何人かに一度、くじ引きなどによって、村人たちが所持地を交換していた。年貢負担の不平等をなくすためである。割地がなされていた村では、村人は割地から次の割地の間だけ、その土地の耕作権を保障されていた。村の耕地は、全体として、村の管理下にあった。
 土地を質入れして、流れてしまっても、元金を返済しさえすれば、何年たとうと戻せるという慣行が広く存在していた。無年季的質地請戻し慣行だ。これは村の掟だった。村の土地は村のものであり、個々の百姓の土地所有権は村によって管理・規制されていたという事情がある。
 そして、村人は村を出ていくときには、その所有地を無償で村に返した。その所持地は、村に住み、村の一員として耕作に従事し、領主に年貢などをきちんと納めている限りにおいて、その所有と認められていたのである。村の成員の資格を失ったら、土地を自由に処分することはできないものであった。そういうことなのですか、知りませんでした。
 零細錯圃制(れいさいさくほせい)という言葉を初めて知りました。個々の百姓の所持地は、屋敷地の周囲など1ヶ所に固まっていることは少なく、村内のあちこちに少しずつ分散しているのが一般的だった。自然災害などの危険を分散できる利点があった。なーるほど、ですね。江戸時代、子どもは村の未来を担う宝であり、その成長には村も責任を負っていた。子どもは「家の子」として育てられると同時に、「村の子」としても育てられるべき存在だった。
 江戸時代には、「7歳までは神のうち」という言葉があった。乳幼児の死亡率が高かったということです。
 7歳をすぎた子どもは「子供組」という集団をつくった。15歳になったら一人前の村人と認められ、男は「若者組」、女は「娘組」に属し、集団の規律を学んだ。
 若者たちは、村役人の監督下に、青年にふさわしい役割を果たしつつ、村のルールを身につけていた。若者組も娘組も、村のなかの一組織であり、村の教育機関としての役割をもっていた。
 現代日本人は訴訟を敬遠しがちだが、江戸時代の百姓は頻繁に訴訟を起こしていた。江戸時代は健訴社会だった。19世紀になると、百姓たちの訴訟技術は向上し、百姓のなかに公事師的存在が増えた。ときに、偽の証拠や証言まででっち上げた。百姓は一面において、したたかで狡猾だった。
 いやあ、これってまさに現代日本人そのものではありませんか。まこと、江戸時代の日本人は今の日本人と変わらない存在なのですね。
(2008年5月刊。2200円+税)

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