弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年7月 4日

負け組の戦国史

日本史(戦国)

著者:鈴木眞哉、出版社:平凡社新書
 戦国時代がいつ始まり、いつ終わったとみるべきか。
 著者は、応仁の乱の始まった1467年から、大坂落城の元和(げんな)元年(1615年)までとみるべきだと主張します。江戸時代から、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれていたのは理由のあることで、戦国時代は150年以上も続いた。
 応仁の乱は、日本全体の身代の入れ替わりであり、その以前にあった多くの家がことごとく潰れて、それ以後、今日まで継続している家は、ことごとく新しく起こった家だ。このような説があるそうです。なーるほど、ですね。
 著者は、今川義元の死について、天下に手をかけようとして敗死したのではなく、つまり上洛の途上で死んだのではなく、単に隣国との国境紛争の過程で起きたことに過ぎないと主張します。織田信長が謀略で殺されたという説も著者は否定しています。足利義昭黒幕説というものもあるそうですが、それは完全な誤りだと強調しています。
 足利義昭は、豊臣秀吉の天下統一が確実になったころ、ようやくあきらめ、秀吉の傘下に入って出家し、1万石の捨て扶持を受けることになった。もっとも、その前、秀吉が征夷大将軍になりたくて猶子(義子)にして欲しいと頼んできたときには、さすがに拒否した。その程度の誇りは残っていた。
 義昭と秀吉は同年齢だが、義昭のほうが1年早く病死した。
 織田信長には、分かっているだけでも11人の息子がいた。長男・信忠は信長と同じ日に二条御所で明智勢と戦って死んだ。次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が成人していた。三男の信孝は柴田勝家と結んで抵抗し、敗れた翌年、再び挙兵したが、自殺に追いこまれた。信雄の方は、秀吉が小田原攻めで天下統一をなしたあと、突然、追放されてしまった。
 信長のあとの子どもたちは、豊臣家に仕えたが、病死したり、関ヶ原で戦死したりした。
 結局、信長の息子の血統としては、信雄の子孫が徳川大名として幕末まで続き、最終的には出羽天童2万石の身代だった。ほかに、七男信高、九男信貞の系統が江戸幕府の旗本として残った。
 秀吉は信忠の遺児である3歳の幼児(後の秀信)を家督に押し通し、信孝を後見役とした。そうなると、兄の信雄がおさまらない。無能な人間であったが、野心だけは人並み以上にもちあわせていた。なんとか信孝に対抗したい信雄と、本音では信孝よりも丸めこみやすい信雄と組みたい秀吉の利害が一致して、二人は提携した。秀吉はなにごとも信雄を表面に押し立てて、自分の野心の隠れみのにしていた。
 戦闘では、たしかに信雄・家康側が勝利した場面もあったが、戦争としては秀吉側が完全に押していた。信雄・家康側は、次第に追い詰められていった。
 秀吉は徹底して西に目を向けていた。当時、海外との通商拠点の多くは九州にあった。したがって、九州全土を支配する者は大変な力をもつことになる。信長は、それを阻止するとともに、自らが巨大な利権を手中にするつもりだった。
 信雄については、健在なうちから、阿呆かと罵られている。彼に対する周囲の評価は、そういうものだった。
 この戦国時代の一般の武士には、二君に仕えずという観念は、そもそもない。
 著者の本は、いくつも読みましたが、そのたびに、目を開かされる思いでした。ところが、今でも、武田軍団(騎馬隊)は織田・徳川軍からも千挺の鉄砲を3段撃ちするなかを無理矢理に突撃して全滅したという「通説」がまかり通っています。恐るべきは「思いこみ」ですよね。
 歴史を見る目が変わる貴重な一冊です。
(2007年9月刊。760円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー