弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年3月21日

軍神

日本史(現代史)

著者:山室建徳、出版社:中公新書
 日本で軍神と呼ばれる英雄が誕生したのは、日露戦役のあと。日清戦役のときには存在しなかった。
 著者は、ここで戦役という耳慣れない言葉をつかっていますが、それは戦争という言葉は、明治期には俗な表現にすぎなかったからです。そのころは、戦役と呼ぶのが一般的だったのです。へーん、そうだったのですか・・・。
 日露戦役のとき、乃木希典の率いる第三軍が遂行した旅順攻略は、それほど困難な作戦ではないと一般に思われていた。旅順はロシア本国からの補給の道を絶たれているし、その10年前の日清戦役のときには、簡単に攻め落とせたから。
 旅順港の攻防戦で戦死した広瀬少佐(死後、中佐に進級)、中国大陸の遥陽会戦で戦死した橘少佐(同じく、死後に中佐に進級)。海軍の軍神に対抗して、陸軍の軍神が誕生した。しかし、広瀬が戦死した明治37年3月から橘の戦死した8月までのあいだに戦死の意味が大きく変わっていた。広瀬のときには戦死者はそれほど多くはなかったが、5ヶ月後には一度の会戦で5000人をこえる戦死者が出るほどになっていた。
 この2人が日本国民に広く知れわたったのは、国定教科書にのったからである。
 このような広瀬中佐の銅像が明治43年、東京の万世橋に立ち、東京名物の一つとなった。ところが、16年たった昭和2年ころには、この銅像はかえりみられずに悲惨な環境に置かれていた。邪魔者扱いにされたのだ。しかし、さらに満州事変が始まると、一転して英雄をしのぶ場に昇格した。
 このような広瀬中佐の銅像の扱いの落差のひどさは、日本人の熱しやすく、また冷めやすい気質をよく反映しています。
 大正1年(1912年)、明治天皇が死んだとき、乃木希典夫婦が自宅で自死した。このことは世間にすぐさま知れ渡った。これを知った同時代の人間にとっては、とても信じがたい意想外のできごとだった。殉死など遠い昔に廃れたできごとであり、よもや高位高官の中から古式にのっとり切腹する者が出るなど、誰にも想像できない事態だった。
 乃木の自決は、最初から賛美一色で塗りつぶされたのではない。自殺という行為に対する反撥は、それなりの広がりを見せていた。常人離れした乃木の行動に反感をもつ人々も、間違いなくいた。新聞記者たちのホンネでも、乃木に対する崇敬の念などなかった。
 しかし、乃木の自決否認論は世間の支持を受けることができなかった。一般の読者の反撥が強かったので、乃木の死を突き放してとらえる論調は紙面を飾らなかった。
 乃木は自ら死を選ぶことで、キリストや西郷隆盛、楠木正成に匹敵する存在とみなされた。日露戦役において、東郷平八郎は輝かしい心ときめく快勝を象徴する存在だったのに対し、乃木は著しく悲しみにみちた死闘を思い起こさせる存在だった。
 しかし、日清日露の戦役は、日本の強さを世界に示し、日本人の誇りとなった。インテリの一部を中心に反撥する向きがあったとしても、期せずして乃木の死に共感する声が日本全体を包み込んだ。日本社会から湧き上がってきたのは乃木夫妻に対する深い同情と尊敬の念だった。それで、乃木夫妻の葬式には、20万人が参集した。
 日本における軍神の誕生のメカニズムと、それに対する世界各国の反応の違いが総合的に語られていて、大変勉強になりました。
(2007年7月刊。940円+税)

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