弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年2月15日

継体天皇と即位の謎

日本史(古代史)

著者:大橋信弥、出版社:吉川弘文館
 継体天皇はそれまでの大和王朝が途絶えて、外部から侵入してきた「革命」政権であるという見方があります。継体天皇は目が離せない存在です。
 6世紀に登場する継体天皇(当時の呼び名は天皇ではなく大王です)は、古事記では父母の名さえ書かれていない。
 雄略天皇(大王)が死んだあと、王統が断絶する危機が顕在化し、傍系の「王族」の中から葛城氏を中心とする勢力によって擁立された顕宗・仁賢と、和邇氏を中心とする勢力により擁立された継体が有力化し、2つの王統が対峙する展開となった。比較的長い並立状態が続いたあと、両王統のあいだで妥協が成立し、継体の即位が実現した。
 継体の擁立勢力の中心となったのは、あくまで越前三国の豪族であった。息長(おきなが)氏の役割は、それほど大きいものではなかった。
 継体は、近江あるいは越前から中央に進出し、武力で王位を簒奪した地方豪族ではなく、5世紀の大王家と系統譜的につながる傍系の王族であった可能性が高い。
 継体の母は、越前の諸豪族と婚姻関係のあった越前三国に本拠を置く地方豪族であったことは間違いない。
 継体天皇は、即位して20年もたって、ようやく大和の地に入ることができた。それまでは大和の周辺をうろうろするだけだった。継体は、実質的には新しい王統を切り開いた。 著者は、継体の出自を近江の古代豪族である息長氏とする説を否定しています。
 継体天皇の末期に北部九州(八女)で、筑紫君磐井を中心とする一大内乱が生起し、近江臣毛野(おうみのきみけぬ)を将軍とする新羅派遣軍の渡海が阻止された。今城塚古墳が継体天皇の墓だと推測される。ぜひ、発掘してほしいものです。宮内庁が発掘を許可しないのは間違いだと思います。日本が決して「万世一系」の国ではないことが実証されるでしょう。
 いずれにしても、日本の天皇家が単純に「万世一系」というようなものではないということは間違いないと改めて思いました。
(2007年12月刊。2400円+税)

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