弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年2月 7日

関ヶ原合戦と大坂の陣

日本史(中世)

著者:笠谷和比古、出版社:吉川弘文館
 いやあ、実に面白い本です。本を読む醍醐味をしっかり堪能することができました。まるで戦国絵巻を見ているような臨場感あふれていて、ハラハラドキドキさせられるほどの迫真の出来映えです。従来の通説に著者は真っ向から大胆に立ち向かっていきます。小気味のいい挑戦がいくつもなされ、思わず拍手を送りたくなります。著者は私とほとんど同世代ですが、たいした学識と推察力です。これまでにも『関ヶ原合戦』(講談社選書メチエ)や『関ヶ原合戦四百年の謎』(新人物往来社)を書いていて、私はすごく感心して読んでいたのですが、本書は、まさしく極めつけの本です。
 関ヶ原の地には、私も2度だけ現地に行ってみました。今度は、家康の本陣があった桃配山、小早川秀秋のいた松尾山、そして毛利の大軍が動かなかった南宮山などを、現地で見てみたいと思いました。
 石田三成が加藤清正や福島正則、細川忠興など有力7武将から追撃されて伏見にある家康の屋敷に逃げこんだという通説は誤りである。三成の入ったのは、伏見城内にあった自分自身の屋敷である。ひえーっ、そうだったんですか・・・。
 石田三成は伏見城西丸の向かいの曲輪にある三成自身の屋敷に入ったのである。それは「三成は伏見の城内に入りて、わが屋敷に楯籠もる」という当時の軍記本に明記されている。
 石田三成襲撃事件の本質は、朝鮮の陣における蔚山城戦をめぐるものであって、事件の主役は蜂須賀家政と黒田長政の2人だった。家康は、この事件を平和的に解決したことから世望が高まり、伏見城に入った。
 家康が会津追討に動いたあと、石田三成を首謀者とする上方方面での反家康挙兵は2段階ですすんだ。第1段階は、石田三成と大谷吉継だけの決起であり、淀殿にも豊臣奉行衆にも何らの事前の相談も事情説明もなされていなかった。第2段階は、三成らの説得工作がうまくいって大坂城にいる豊臣奉行衆や淀殿が三成の計画に同調し、豊臣家と秀頼への忠節を呼号して家康討伐の檄文を発出した段階。
 会津征討の途上にある下野国小山でなされた有名な小山評定は、この第1段階を前提としてなされたものであって、そのとき既に第2段階にあることを家康ほか誰も知らなかった。ふむふむ、なるほど、家康も自信満々というわけにはいかなかったのですね。
 家康は、東軍として行動していた豊臣系武将を十分に信用してはいなかった。彼らが西軍と遭遇したときの行動に不安があった。もし、西軍が秀頼をいただいて攻め寄せてきたらどうなるのか、家康には大きな不安があった。そんな彼らと身近に行動することの危険性を感じていた。
 家康は上杉方への押さえ、諸城の守備のため、かなりの武将を配置していて、関ヶ原合戦に投入することができなかった。家康にとって、背後にいる上杉・佐竹の連合軍を無視することはできなかった。
 徳川の主力部隊を率いていたのは嫡子の秀忠の方だった。そして、信州・上田城主の真田昌幸らを攻略するのは、小山評定で策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な巧名心に発するものではなかった。つまり、中山道を進攻する秀忠部隊の主要任務は、上田城にいる真田勢を制圧することであり、それが家康の指令だった。
 ところが、真田制圧ができていない状況のもとで、すぐに来いという家康の指令が届いて、秀忠部隊は大混乱に陥った。秀忠には、本来の任務である真田制圧作戦に失敗したという心理的な負い目が迷走を増幅させた。
 このように秀忠部隊の関ヶ原合戦の遅参は、徳川勢力の温存を意図してなされたものという説は間違いである。では、家康が江戸城にぐずぐずしていたのはなぜか。そして、出陣を急に決めて戦場へ急いだのはなぜなのか?
 もし家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、東西決戦の決着がついたら、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうのは明らかである。
 家康は、豊臣武将たちの華々しい戦果の報告に接すると、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止させ、家康の到着を待つよう指示した。
 家康がもっとも恐れた事態は、大坂城にいる西軍総大将である毛利輝元が豊臣秀頼をいただいて出馬してくる事態であった。秀頼が戦場に出馬してくるという風説を流されるだけでも東軍の豊臣武将たちが浮き足だつ心配があった。だから、できる限り早く三成方の西軍との決着をつけなければならなかった。
 関ヶ原合戦での東軍は3万人というが、徳川の主な兵力は井伊直政と松平忠吉のあわせて6千人でしかなく、残りはすべて豊臣系の将士だった。
 石田三成は、かねて大坂城より大砲数門を運んできていて、この大砲で応戦したため、東軍の大部隊を相手にして、長時間にわたってもちこたえた。
 むしろ、小早川秀秋が家康方東軍の要請にこたえて、手はずどおりに動かなかったことが、この合戦を複雑なものにした最大の要因だった。
 西軍の鶴翼陣のなかに包まれるように東軍が布陣したのは、小早川軍の裏切りを織り込んでいたことによる。家康は一気に勝敗をつけるつもりでいた。ところが、石田三成の部隊が最後の一兵にいたるまで奮戦敢闘したため、小早川秀秋の裏切りがずるずると遅れてしまったのである。家康は、自分が罠にはめられたとうめいたほどである。
 関ヶ原合戦のあと、家康による論功行賞がなされたが、最大の功労者である福島正則に対しても、使者による口頭伝達がなされた。なぜか?
 領地配分の主体が家康なのか、秀頼なのかという微妙な問題があったから。
 関ヶ原合戦において家康方東軍が勝利しても、豊臣体制が解体したわけではなく、まだ、家康は豊臣公儀体制の下で、大老として幼君秀頼の補佐者にとどまっていた。したがって、家康は、書面を発給できなかった。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そういう事情があったのですね・・・。
 秀頼は、関ヶ原合戦のあとも、将来、成人したあかつきには武家領主を統合する公儀の主宰者の地位に就くべき人間であると了解されていた。慶長8年に家康が将軍に就任し、同20年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまでは、二重公儀、二重封臣関係の時代であった。
 関ヶ原合戦のあと、豊臣家と秀頼が摂河泉の3国の一大名に転落したという認識は誤っている。この3か国は純粋の直轄領にすぎず、ほかにも知行地はあった。
 豊臣氏は、諸大名とは別格であり、徳川将軍と幕府の支配体制に包摂されない存在だった。家康は、将軍に任官したあとも、秀頼に対しては臣下の礼をとった。家康は、秀吉の臨終間際の、「秀頼をよろしく頼む」という哀願を受け入れて行動した。
 家康は、徳川将軍家を基軸とし、豊臣関白家と天皇家との血縁結合を完成させるべく起想し、実行していた。血縁結合による徳川・豊臣・天皇家のトライアングルを形成することこそ、徳川成犬を強化する最善の戦略だった。
 しかし、しかし。すべては家康という固有の軍事カリスマの存在が前提である。この状態で家康が死んだら、どうなるか・・・。ふむ、ふむ、なるほど
 方広寺大仏殿の鐘銘は単なる偶然のことではなく、意図され、意識的に記されたものだった。家康の知恵袋である金地院崇伝が言いがかりをデッチ上げたという説は誤りである。
 うむむ、これも、そうなのか・・・、と、つい、うなってしまいました。
 大坂冬の陣そして夏の陣の経緯についても興味深いものがありましたが、ここでは割愛します。興味のある方は、ぜひ、本書を手にとってお読みください。
 私は、すごい、すごい、そうだったのかと、大いに興奮しながら読みすすめていきました。学校で教わる日本史の教科書も、ぜひ、このように書いてほしいものだとつくづく思いました。
(2007年11月刊。2500円+税)

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