弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年12月28日

となりに脱走兵がいた時代

日本史(現代史)

著者:関谷 滋、出版社:思想の科学社
 ベトナム戦争があっていた時代の日本です。始まりは1967年10月。えっ、私が東京で寮生活を始めた年のことではありませんか。もちろん、私もベトナム戦争反対の集会やデモに何度となく参加しました。夜遅い銀座で、大勢の人々と一緒に手をつないでフランス・デモをしたときの感激は今も覚えています。銀座の大通りを、デモ隊が完全に埋め尽くしていました。警察官も手を出すことができないほどの人数でした。もちろん、機動隊はいましたが、国会周辺と霞ヶ関あたりまでで、銀座にまでは手がまわらなかったのです。
 ベトナム戦争に反対する市民の会(ベ平連)は、その一部にアメリカ軍の脱走兵の日本国外逃亡を助ける活動をしていました。私は後になって、新聞報道で知りました。これには、東大生なども関わっていたようです。有名な知識人が何人も隠れ家を提供しています。あれから40年たって、その全貌が少しずつ明らかにされています。この2段組みで  600頁をこす大部な本は、大変貴重な歴史的記録です。
 ベトナム脱走米兵は、私と同じ世代です。「イントレピッドの4人」として有名なアメリカ脱走兵は、1947年と1948年生まれです。50万人以上のアメリカの青年がベトナムへ送られて5万8000人ものアメリカ兵ベトナムで死亡しました。もちろん、アメリカ軍によって殺されたベトナム人はケタが2つほど違います。
 ベトナム反戦のアメリカ脱走兵を助けたベ平連の幹部としてマスコミに登場したのは、小田実、開高健、鶴見俊輔、日高六郎です。いずれも有名な知識人です。
 アメリカ海軍の航空母艦「イントレピッド」から脱走してきたアメリカ兵4人は横浜港からソ連船バイカル号に乗って、日本を脱出した。そして、ソ連を出て、スウェーデンに亡命することができた。
 脱走兵は、決して品行方正な英雄ではなかった。いろいろ手を焼かせた脱走兵が何人もいた。だから、世話をした人たちはなかなか大変だったようです。
 日本人アメリカ兵も脱走したきた。日本人もベトナムで戦死している。1967年4月20日、LSTの乗組員(50歳)が銃撃されて死亡した。
 脱走米兵の逃亡を支援する組織を解明するため、アメリカ軍はスパイを潜入させます。いかにも怪しい脱走兵なのですが、疑いはじめたらキリがないので、彼を信じて逃亡の手助けをしていきます。その息詰まる様子が再現されています。釧路からソ連へ船で渡るコースだったのですが、スパイがたれこみ、脱走米兵は結局、逮捕されてしまいました。ジャテックは、そこから、苦闘の道を歩むことになります。
 当時30歳前後のサラリーマンから毎月500円のカンパを集めるのは、かなり大変なことだった。今なら1万円にでも相当する金額でしょうか・・・。
 ジャテックに関わっていた小田実は、この本の座談会で次のように発言しています。
 「全共闘運動を勲章にするだけで、何もしない連中がそこらへんに一杯いるじゃない。現在、どうしているか、現在にどうつながるか、それが問題だ」
 なるほど、そのとおりです。私は全共闘と関わりがないどころか、その反対でがんばっていましたが、今の9条をめぐる政治情勢をどう考え、どのようにしたらよいのか、小さな声であっても、上げていきたいと考え、少しずつ、やっています。
(1998年5月刊。5700円+税)

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