弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年9月19日

第百一師団団長日誌

日本史(現代史)

著者:古川隆久、出版社:中央公論新社
 伊東政喜中将の日中戦争というサブ・タイトルがついています。数少ない師団長クラスの日誌が物語る戦場の現実、オビに書かれているとおりでしょう。
 遺族の提供によって東京を母体とする特設師団(101師団)の実情がさらに解明されたわけです。素人ながら、その意義は大きいと思いました。
 盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発したのは70年前の1937年(昭和12年)7月7日のこと。日中戦争が始まった。その4年後には太平洋戦争へと拡大していく。
 日中戦争初期の1937年8月から1938年9月にかけて、第101師団長であった伊東政喜(まさよし)陸軍中将の日誌を解読し、中国側の資料もふまえて丁寧な解説がついています。素人にも大変わかりやすい内容の本です。
 第101師団は、いわゆる特設師団であり、予備、後備役の召集兵、つまり現役兵としての勤務を終えて社会に戻り、その中堅層として活躍していた人々で編成された部隊である。首都東京を根拠地とする部隊であるうえ、激戦地に投入されたため、多くの美談や武勇伝を生み、人々に広く知られた。
 伊東日誌はA5版のノート6冊から成る。伊東は、1881年(明治14年)に、大分市に生まれた。大分中学から陸軍幼年学校へすすんだ。そして陸軍士官学校を1902年に卒業し、砲兵少尉に任官した。さらに陸軍大学校に進学した。陸大は、30歳以下の少尉や中尉のなかから上官の推薦を受けた者が受験できる学校で、作戦をたてる役目をもつ参謀将校の養成を目的とした。師団長・軍司令官、陸軍中央の要職といった陸軍の高官は、陸大を卒業していないと、まずなれない。
 中国に駐屯する日本陸軍の傍若無人のふるまいが日中戦争を引き起こした。その背景には徹底した中国蔑視があった。それがまかり通った原因として、日本の軍隊が政府の指揮下になく、独自の組織となっていた(統帥権の独立)こととあわせて、日本社会に中国蔑視が蔓延していたことがあった。日本の陸軍や一般の人々は、中国軍の実力はたいしたことはなく、本気を出せばすぐに降参するだろうと高をくくっていた。ところが中国軍は、かねてドイツ軍から顧問を招いて上海地区に強固な陣地を構築し、精鋭部隊を配置していた。伊東師団長の率いる第101師団は、このような状況のなかで上海へ出征していった。
 特設師団は常設師団よりも兵器の配備の点でも格段の差別を受けた。旧式兵器であり、機関銃以上の火力は、せいぜい半分程度だった。携行する砲弾も常設師団の3分の1でしかなかった。
 第101師団が東京を出発するときには、楽観的かつ熱狂的な雰囲気の中で戦地に向けて出発していった。日誌には次のように書かれています。
 特設師団は編成素質不良にして、かつ、訓練の時間なく、しかも、もっとも堅固な敵正面の攻撃にあてられ、参戦以来3週間、昼夜連続の戦闘をなし、相当の死傷者を出した。
 幹部の死傷が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立つによる。そうしないと兵が従わないからだ。こんな涙ぐましい美談が少なくない。
 この「美談」は、そのままでは内地で報道することができませんでした。それはそうでしょうね。兵隊の士気がないことが明らかになってしまうからですね。
 東京で、第101師団について、不名誉な噂が広まり、伊東師団長はやきもきさせられました。第101師団は杭州攻略戦に参加したため、南京事件にかかわらずにすんでいます。南京大虐殺事件について、著者はあったことを否定できないとしています。私も、そう思います。このころ、日本軍の軍紀(綱紀)が相当ゆるんでいたことを、伊東師団長も再三、日誌のなかで嘆いています。
 ところで、このころ、日本は軍需景気に沸いていたということを私は初めて認識しました。そうなんです。戦争は、一部の人間にとっては、もうかり、楽をさせるものなのです。このころ、正月の映画興行がにぎわい、国内観光旅行客が急増しました。出版業界もバブルという好況になりました。
 軍需産業の繁栄と、日本が中国に負けるはずはないという思いこみによる将来への楽観視が、中国大陸の戦場の苛酷さとうらはらに、戦後1980年代日本のバブル景気を思わせる雰囲気を、この時代の日本はもっていた。読売新聞は、東京で一日3回発行していた。
 慰安所設置のことにも日誌はふれています。陸軍当局の方針として慰安所が設立され、運用されていたことは歴史的事実なのです。
 また、第101師団が、日中戦争で毒ガスをつかっていることも判明します。青剤(ホスゲン)や茶剤(青酸)のようなガスで直接的に多数の死者を出すものではなく、赤剤つまり、くしゃみ、嘔吐剤であり、戦力・戦意の一時的な喪失を狙ったものでした。
 なぜ、日中戦争で特設師団が勝つよう(多用)されたかについて、ちょうど同じ時期の日本を分析した岩波新書『満州事変から日中戦争』(加藤陽子。2007年6月刊。780円+税)には、次のように説明されています。
 日本軍の陣容を眺めると、特設師団(番号が三桁の師団や、軍縮で廃止された師団番号をつかって編成された師団)が含まれていることから分かるように、参謀本部は、ソ連の動向を考慮するあまり、現役兵率の高い精鋭部隊を上海・南京戦に投入しなかった。つまり、陸軍はあくまで北(ソ連)を向いていたのである。
 この日誌を読んで、当時の日本軍の状況が師団長レベルの考えから、よくとらえることができました。ちなみに、600頁もの大部の本です。読み終わったあと、つい昼寝の枕にしてしまいました。ちょうどいい高さなのです。井上ひさしの『吉里吉里国』を読んだときを思い出しました。
(2007年6月刊。4200円+税)

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