弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年12月21日

ルビコン

著者:トム・ホランド、出版社:中央公論新社
 賽(さい)は投げられた。
 一か八か、運を天に任せる気になって、ようやくカエサルは軍団兵に全身命令を下した。
 有名なルビコン川は、幅は狭いし、取り立てて特徴もなく、今では正確な場所すら分からない。しかし、このルビコンは正真正銘の境界線だ。これを越えたカエサルは、昔から守られてきたローマの自由を葬り、その残骸の上に君主制を打ち立てた。これは自由と専制、混乱と秩序、共和制と貴族制、ルビコン川を境にすべてが逆転した。このことは、ローマ帝国が滅びてからも、ローマの跡を継ぐ者たちの頭からは、いつまでたっても離れることはなかった。
 カエサルは、紀元前100年7月13日に生まれた。
 ローマ人は、生まれながらにして市民になるのではない。父親には、新生児の要不要を決め、要らない息子や娘(こちらの方が多かった)を捨ててこいと命じる権利があった。生まれたばかりのカエサルは、まずお乳をもらう前に、父親に高く持ち上げられて、この男の子は自分の子であり、ゆえにローマ人だと周りの者に示してもらった。生まれた9日目は、名前を付ける日だ。ほうきで家から悪霊を追い払い、飛んでいく鳥の様子で男の子の未来を占う。
 ローマは「赤ん坊」にあたる言葉がない。子どもを鍛え始めるのに、早すぎることはないというのが、ローマ人の常識だった。新生児は大人の体型になるよう包帯でぎゅうぎゅうに縛られ、赤ん坊らしさは力づくで矯正された。一歳の誕生日を迎えられるのは、三人に二人で、その後、思春期まで生きられるのは、その半分にも満たなかった。
 娘は、嫁いで家を出た後も父親が後見人をつとめたし、息子の方も、何歳になろうと、たとえ政務官に何度当選しようと、父親の保護下から離れることは絶対になかった。ローマの父親ほど、家長と呼ぶにふさわしい父親もいない。
 ローマでは、誰もが法律に強い関心を寄せていた。市民は、法律制度のおかげで自分たちは市民として生活でき、権利が保障されているのだと、きちんと分かっていた。
 男子は幼いころから、戦争へ行くため身体を鍛えるのと同じように、弁護士を開業できるよう一心不乱に頭も鍛えた。大人の社会では、弁護士業は、元老院議員が軍人以外に威厳を傷つけられずに行える唯一の職業だと考えられていた。法律は政治活動とは切っても切れないものであり、知らされないではすまされないもの。
 ローマには、現代の検察にあたる公的機関がなかった。起訴はすべて個人でおこなわなければならない。だから、個人的恨みを法廷に持ち込むのも朝飯前だ。被告が重大犯罪で有罪と認められたら、表向きは死刑が宣告されることになっていた。しかし、実際には、ローマには警察組織も刑務所制度もなかったので、死刑判決を受けた者は、こっそり国外に亡命することができた。身の回りの資産を没収される前に国外に持ち出せば、亡命先で裕福に暮らすことさえ可能だった。ただ、政治生命は完全に絶たれる。犯罪者は市民権を剥奪されるだけでなく、再びイタリアに一歩足を踏み入れるようなものなら、だれに殺されても文句は言えなかった。
 裁判では、どんな卑劣な策略も、どれほど悪質な暴露話もとことん非道な中傷も、勝つためなら平気だった。裁判は、選挙をもしのぐ、生死をかけた戦いだった。
 裁判はスリル満点の観戦スポーツだった。だれでも自由に傍聴できる。目の肥えた法廷ファンは、いつでも、たくさんのなかから見たい裁判を選ぶことができた。弁論家にとっては、傍聴人の入り具合が自分への評価のバロメーターになった。
 ローマ人の常識では、法律を研究するのは、弁論家の才能のない人間のすること。巧みな話術こそ、法廷での才能を測る本当の物差しだった。群衆や傍聴人を相手に、その心をつかみ、笑いや涙を誘い、お決まりのジョークでどっと沸かせたかと思えば、一同をジーンと感動させる。ときには説得し、ときにはアッと驚かせ、世の中の見方を変えさせる。こういうことができてこそ、一流の法廷弁護人と言える。だから、ローマでは、原告と俳優をどちらも同じ「アクトル」という言葉で表していた。
 ブルータス、おまえもか。
 シーザー(カエサル)の言葉は有名ですが、当時の法廷弁論術についての紹介は大変面白いものがあります。日本でも、いよいよ裁判員制度が始まります。フツーの市民から成る裁判員に対して、どれだけ分かりやすい言葉で話しかけ、理解してもらうことができるか、弁護士も検察官も、本当の力量が問われる世の中になりつつあります。

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