弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年11月29日

レーニンとは何だったか

著者:H・カレール・ダンコース、出版社:藤原書店
 レーニン神話を解体する、というのがオビの言葉です。うむむ・・・。私は大学生のころ、レーニンの本はかなり読みました。愛読したといってよいでしょう。その理知的で、鋭い分析に、身も心もしびれる思いでした。
 レーニンの父はロシア人だが、その母はカルムイク人だった。モンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、とくに切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。
 そして、レーニンの母方の祖父は、ジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ人商人とスウェーデン女性との子どもであった。だから、レーニンの中には、ロシア人、カルムイク人、ドイツ人およびスウェーデン人の血が混じっている。また、正教、ユダヤ教、プロテスタント人、そしてカルムイク系の仏教も間接的には受け継いでいる。
 レーニンの母親はロシア語、フランス語、ドイツ語の3カ国語を話し、ピアノの名手だった。レーニンの父は高い教養がある。この父も祖父母も、医学あるいは数学の高等教育を受けている。
 レーニンの家は農奴の働いていた領地を有しており、世襲貴族の家柄であった。
 マルクスのロシア人嫌いはよく知られている。しかし、マルクスは常にロシアのことが気がかりだった。うへぇー、そうだったんですかー・・・。知りませんでした。
 レーニンは1906年の国会解散のころ、選挙を議会白痴症と名づけて攻撃した。このころ、レーニンは労働者の蜂起を呼びかけていた。
 1908年、レーニンの党は崩壊しつつあった。1910年には党員は1万人を下まわり、5年前の10分の1になった。社会民主党の組織は消滅していた。
 1910年、マリノフスキー事件が起きた。マリノフスキーはレーニンが目をかけていた活動家の一人だったが、ツァーリの政治警察(オフラーナ)の一員でもあった。当時の左翼陣営には政治警察の手先がうじゃうじゃしていた。
 1917年、皇帝は参謀本部に引きこもり、相変わらず不人気な皇后は大臣の選任を決定し、頻繁に大臣の首をすげ替えた。今や、精神異常の女性の気まぐれだけで政治が行われている。こんな不安感がロシア社会に広がっていた。
 ドイツ当局にとってレーニンは、ロシア政権を崩壊させるために握っている切り札であった。革命の火ぶたを切るために、レーニンは講和を説き、軍隊を解体へ駆り立てる。
 1917年、ドイツにとって戦力を西部戦線へ集中することが急務だった。戦争が二つの戦線で展開する限り、ドイツの決定的勝利は不可能なのだ。ドイツは講和と革命のプロパガンダをまかなうための多額の資金をレーニンに提供した。持参金つきでレーニンはロシアへ帰還することができた。レーニンがドイツから大金をもらってロシアへ帰ったというのは本当のことなのでしょか・・・。
 レーニンは新聞発行手段を握っていた。その資金の出所の一分はドイツから支給されたお金だった。これは他党の資金とケタ違いだった。この本は、レーニンがドイツからもらったお金がいくらだったかまでは明らかにしていません。
 1917年夏、レーニンが発行する「プラウダ」は9万部だった。そして、レーニンの党の各種新聞の総部数は32万部だった。ボリシェヴィキの印刷機は、毎日、莫大な数のビラを印刷した。
 1917年の4月から7月にかけて、ケレンスキーはレーニンを危険な扇動者とみなしながら、長いあいだ過小評価し続けていた。
 1918年1月1日、レーニンは一斉射撃を受けた。車の後部座席に押しつけられて辛うじて銃弾を免れた。
 議会はボリシェヴィキに敵対していた。市内の多くの人士も同様だった。しかし、政府、軍など、すべての権力機関はレーニンの手中にあった。レーニンは議会のはじまるときにいても議員たちが実際に審議を始めようとするとき、これ見よがしに議場から退出した。 全国各地にソヴィエトが出現した。ソヴィエトの参加者数が増大していくと、会議は効力のないものとなった。イニシアティヴは、もっとも活動的で、もっともボリシェヴィキに操作されやすい要素、すなわち兵士たちに委ねられるようになった。
 120人の協力者で仕事をはじめたチェカーは、1年後には職員3万人以上となった。
 トロツキーは、生まれたばかりの彼の軍隊に、敵とみなされた者を情け容赦なく鎮圧し、見せしめの死刑をどしどし執行せよとの指示を与えた。至るところで、良心のためらいもなく銃殺が行われた。戦闘で捕らえられた白衛軍兵士や農民ばかりか、自軍の兵士や将校も厳しい鎮圧を遂行する力に欠けたときには銃殺された。軍は、さらに兵員を増強した。早くも1918年秋には、100万の兵力を擁していた。
 1918年末、レーニンは反抗する農民たちに対してテロル的措置を命令した。
 レーニンは、きわめて早くから、迅速な解決の方を好む意向を表明していた。ロマノフ家の人間を一人残らず、つまり優に100人あまりを皆殺しにする。この提案が1918年7月16日の夜に実行された。ニコライ2世だけでなく、皇帝一家の幼い子どもたちまで殺された。レーニンの殺害せよ、銃殺せよ、流刑にせよという指示の大部分は常に隠密裡に出されている。
 1912年、レーニンは革命の輸出の可能性を信じるのを止めると、直ちに全努力をソヴィエト国家の建設に捧げ、党とチェカー、軍という、己の手によるすべての手段をこの目標のために動員した。
 レーニンは反動的聖職者集団への処刑を実行すべきだと命じた。処刑の数が多ければ多いほど、うまくいくだろう。処刑執行に関するレーニンの指令は遵守された。レーニンの指示どおり、1922年に8000人近くの教会に仕える者たちが粛正された。
 この本は、ロシア革命の内情がレーニンにとってもひやひやするほど危ない綱渡りの連続であったこと、レーニンは、そのなかでむき出しの暴力をためらわずに実行してきたことを暴き出しています。なるほど、戦争と内乱状態では、そういうこともあったんだろうな。平和主義者レーニンというわけにはいかなかったんだろうな。そう思いました。その負の遺産をスターリンはますます大規模に拡大していったということなのでしょう。
 それにしてもタイトルは気になります。何者だったか、ではなく、レーニンとは何だったか、というのです。レーニンは物ではないのです。いくら何でも、という気がします。

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