弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年10月31日

栗林忠道、硫黄島からの手紙

著者:栗林忠道、出版社:文藝春秋
 1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍は硫黄島に総攻撃を開始した。戦艦6隻、重巡5隻、空母10隻を主力とする大機動部隊が島を包囲し、艦砲射撃と1日のべ1600機の飛行機による爆撃。3日間のうちに爆弾120トン、ロケット弾2250発、海からの砲弾3万8500発が島に撃ちこまれた。3日後の2月19日朝、アメリカ軍の上陸用船艇が一斉に発進した。作戦は5日間で完了するとアメリカ軍はみていた。ところが、日本軍が反撃し、最初の2日間だけでアメリカ海兵隊は3600人の死傷者を出してしまった。
 栗林中将は、水際撃滅戦法をとらず、後方防御、それも地下陣地による迎撃戦法へと転換し、地下15〜20メートルの深さに陣地をつくり、延長18キロの地下道で結んでいた。無謀なバンザイ突撃もとられませんでした。
 それでも、4日後の2月23日朝、摺鉢山に向かったアメリカ海兵隊は頂上に達し、大きな星条旗を押し立てました。かの有名な写真は、その直後にとり直したものだということが判明しています。クリント・イーストウッドの硫黄島2部作の映画が上映されることになっていますが、私は先日、500円のDVD「硫黄島の砂」を買って見ました。ジョン・ウェインが主人公です。
 摺鉢山の陥落のあとも、実は、まだまだ日本軍は激しく抵抗します。アメリカ軍は26日後の3月16日に硫黄島全島を制圧しますが、そのときなお栗林中将は生きていました。戦死したのは3月26日、享年53歳。陸軍大将に昇進したことを知らないままでした。
 日本軍の損害は戦死1万9900人、戦傷1000人。対するアメリカ軍は戦死
6821人、戦傷2万1865人。死傷者合計は2万8686人。上陸した海兵隊の2人に1人が死傷したことになる。太平洋戦争でアメリカ軍の反攻開始のあと、その死傷者が日本軍を上まわったのは、この硫黄島だけ。日本軍の捕虜は、1033人。すべて負傷して動けなくなってから。
 この本は、栗林中将が家族に宛てた手紙を編集したものです。家族を思いやる内容に心が打たれます。奥さんは、2003年に99歳で死亡。二女が翌2004年に死亡(69歳)、長男が2005年に死亡(80歳)ということです。長男は一級建築士をしていたとのことです。
 1944年6月の手紙に9分9厘まで生還できないとの悲愴な心境が述べられています。
 もし私のいる島が敵にとられたら、日本内地は毎日毎夜のように空襲されるでしょうから、私たちの責任は実に重大です。私の健康からすれば、まだ20数年は生きられ、まだいろいろ仕事ができたろうと思いますが、鬼畜米軍のため、国難に殉ずることになります。
 7月の手紙には、この世ながら地獄のような生活を送っていますとあります。
 食事は乾燥野菜が主のため胸が焼けて閉口。清水は絶対ない。ハエとカは眼も口もあけられないほど押し寄せてくる。
 8月。ここに比べると、大陸の戦争は演習のようなもの。
 妻にあてた手紙で、おまえさんには長い間ほんとに厄介になりましたが、あまりいい目をさせずにしまうことが何より残念です。女ながらも強く強く生き抜くことが肝心です、と書いています。99歳まで奥さんは生き抜いています。
 島ではアリに悩まされています。ナフタリンくらいで退治できるようなものでないと訴えています。
 9月。私も米国のため、こんなところで一生涯の幕を閉じるのは残念ですが、一刻でも長くここを守り、東京が少しでも長く空襲されないように祈っている次第です。
 20歳の長男のことを常に気づかっています。何をするにも意志の力、つまり精神力が一番大切である。精神力を養うことは、何もたいしたことではない。日常の生活でおのれのわがままを封じることができれば、その目的は半ば達せられる。朝、眠たくても、時間がきたらガバとはね起きる。ただ、そのことだけでも、目的の一部が達せられる。
 うーん、なるほど、そうなんですよね。私も、一年中、いつも朝7時に起きるようにしています(ホテルでは、朝6時)。
 ところどころ硫黄島での写真もはさまれていて、かなりイメージがわきます。
 栗林中将は、最後まで健康をたもったようです。みなから不思議がられているが、それはやはり責任が重いから絶えず緊張していて、そのため病気にもならないのだろうと本人が書いています。なるほど、そのとおりなのでしょうね。
 最後の手紙は、アメリカ軍の総攻撃の13日前、2月3日の日付です。本土への飛行機に託したのです。戦争のむなしさ、切なさが惻々と伝わってきます。

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