弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年10月12日

明治天皇

著者:笠原英彦、出版社:中公新書
 明治天皇が生まれたのは嘉永5年(1852年)秋のこと(9月22日)。孝明天皇の第二子。母は孝明天皇の側室、典侍として入内(じゅだい)した権大納言(ごんだいなごん)中山忠能(ただやす)の次女慶子(よしこ)。明治天皇は4歳まで母の実家である中山家で養育された。中山家には型破りな人間や熱血漢の儒学者などがいて、明治天皇は大いに感化されたと思われる。
 孝明天皇は6人の皇子・皇女に恵まれながら、そのうち5人までが3歳を数えるまで生きられなかった。慶応2年(1866年)7月、徳川家茂が21歳で大阪城で死亡。慶喜が後継者となって長州征討を中止。孝明天皇も同じ12月に36歳で亡くなった。毒殺されたとも言われる。明治天皇の即位は、慶応3年(1867年)1月、16歳のとき。
 イギリス公使が明治天皇と会見したときに同席したアーネスト・サトウは、次のように明治天皇を描いた。
 天皇は眉を剃り、その上方に描き眉を施すなど化粧をし、応対はぎこちなかった。
 横井小楠によると、明治天皇は面長で浅黒く、背丈はすらりとして声は大きかった。
 天皇が東京に来たのは明治1年(1868年)10月13日。江戸城を皇居と定めた。京都から東京までの旅費80万円を天皇家の財政は負担できず、沿道の諸藩から借金した。
 孝明天皇は外国や外国人を洋夷として忌避していたが、明治天皇はむしろ西洋に多大の関心を示した。天皇は政務に対してはあくまで熱心だった。必ずしも才気煥発とはいえないが、大変な努力家ではあった。
 西郷隆盛が征韓論が容れられずに下野したとき、明治天皇は22歳。自律的な判断を下せるとは誰も想像していなかった。西郷に殉じる者はあっても、天皇に忠誠を尽くそうとする者はいなかった。天皇はむなしい気持ちに駆られた。天皇の権威失墜は決定的で、このような事態を如何ともなしがたかった。だから、次第に酒にふけるようになった。
 明治天皇は、皇后とのあいだに子はなく、権典侍の柳原愛子(なるこ)とのあいだに皇子2人、皇女1人をもうけた。しかし、無事に成長したのは、のちの大正天皇だけだった。
 西南戦争のとき、明治天皇は26歳。西郷との直接対決を避けようとし、西郷が死んだあと追悼歌まで詠んだ。西郷に対する同情には深いものがあった。
 明治天皇は日頃、よく人物評を口にした。黒田清隆については、実にいやな男だと言い切った。しかし、天皇は内閣の輌弼を受けて消極的天子であることが望まれた。天皇が宮中で側近からの進言を耳にして意思表示することは、政治責任を負う内閣の動きと齟齬することが懸念された。
 明治憲法を制定するまでの枢密院における審議に明治天皇は一日も欠かさず出席し、玉座で目を光らせた。明治天皇は政治に関心を示し、政策の方向づけや人事に介入した。天皇は政治的に成熟してきていた。
 明治天皇は大隈重信の入閣によい顔をしなかった。明治天皇は進歩思想を敬遠する傾向があった。藩閥政府に加勢していた天皇は政党の進出を内心快く思っていなかった。
 明治天皇は常に立憲君主としてのあり方を模索していて、能動的な行動を自制していた。つまり、明治天皇は「専制君主」ではなかった。
 明治天皇の祭祀嫌いは半端ではなかった。主要な行事は掌典長が代拝した。
 天皇についての「常識」は、たいてい明治以降のことであって、江戸時代までのものとは違うということを、今の日本人はあまりにも知らないように思われます。明治天皇の生活の一日を紹介した本(前にとりあげました)とあわせて読むと、ますます面白いと思います。この本を読むと、一人の等身大の人間が見えてきますから、明治大帝という呼び方には大いに違和感を覚えてしまいます。

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