弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年10月 3日

グラーグ

著者:アン・アプルボーム、出版社:白水社
 ソ連集中収容所の歴史というサブタイトルのついた分厚い本(本文2段組み、650頁)です。主としてスターリンの恐怖政治のときに大「発展」を遂げた収容所ですが、スタートはレーニンの時代です。レーニンは、1918年夏に、貴族や商人などの革命の敵を信頼できない分子として集中収容所にぶちこむよう求めた。
 1929年、スターリンは、ソ連の工業化促進と人跡まれなソ連極北地帯の天然資源開発の両方に強制労働を利用することにした。
 第二次大戦期と1940年代を通じて収容所は拡大しつづけ、1950年代はじめに最大規模に達した。収容所はソビエト経済で中心的役割を演じるようになった。収容所は全国の産金額の3分の1、石炭と木材の産出額の大半を占め、その他のほとんどあらゆる産品を大量に生産していた。ソ連の収容所複合体は476ヶ所が確認されているが、それらは数千の個別収容所から構成されていた。
 収容所の囚人総数はざっと200万人。この大量弾圧システムを1800万人が通過した。このほか600万人が先祖伝来の地を追われ、カザフの砂漠やシベリアの森林に流刑された。
 スターリンの政治的後継者は、収容所が後進性と投資構造のひずみの元凶であることをよく知っていたので、スターリンが死んで数日したら解体が始まった。ゴルバチョフもグラーグ囚人の孫であり、1987年にソ連の政治囚収容所全体の解体に着手した。
 1941年から42年にかけての冬にグラーグ住民の4分の1が餓死した。同じころ、ドイツ軍に封鎖されたレニングラード市民100万人も餓死したと推定されている。
 ソ連における敵は、ナチス・ドイツのユダヤ人の定義よりずっと融通自在だった。死が絶対的に確定している囚人のカテゴリーはひとつもなかった。
 グラーグのおもな目的は経済的効果にあった。全体として死体量産をめざして故意に組織されたものではなかった。1939年から、経済効果がモスクワの最大の関心事となった。囚人は機械の歯車のように収容所の生産に組みこまれた。
 収容所内で、囚人は移動の自由が全部奪われたわけではなかった。監獄との相違点のひとつとして、作業と就寝の以外の時間に大多数の囚人はバラック内外を勝手に歩き回ることができた。そして、作業時間以外の時間をどうすごすかも、一定の制限内で自分で決めることができた。
 ただし、移動の自由は、たやすく無秩序に転化しかねなかった。パンは収容所では神聖化され、それをめぐって特別の不文律ができていた。パンを盗むのは極悪非道な許しがたい行為と見なされ、死刑だった。
 収容所で政治囚とされた数十万人の大多数は異論派でもなく、秘密礼拝をした聖職者でも、党のお偉方でもなかった。彼らは大量逮捕の網にかかった庶民であり、なんらかの確乎とした政治的見解をもっていたわけでもなかった。
 工場で働いて、10分の遅刻を2回くり返して5年間の収容所入り。パン10個を盗んで10年間の収容所入り。こんな人々が刑事囚だった。
 収容所の維持費は、囚人労働から得られた利潤をはるかに上まわっていた。1952年に国はグラーグに23億ルーブルを補助金として支出した。これは国家予算の16%だった。つまり、経済効果を狙ったはずの収容所は、とても非経済的だった。
 いかにも非人道的なソ連の収容所です。だけど、いまアメリカに囚人が200万人いて、刑務所産業が栄えているといいます。また、キューバにあるアメリカのグアンタナモ刑務所にはテロリストという口実で何年も正規の裁判を受けていない「囚人」が何百人もいるようです。
 ソ連はひどい、ひどかった。しかし、民主国家アメリカも同じようなことをいま現にしているのです。私には、こちらも黙って見逃せないのです。いえ、日本だって・・・。日本でも、ついに刑務所の民営化が始まりました。囚人が大量にうまれ、多すぎて「民間活力」を導入せざるをえないというのです。いつのまにかアメリカと同じ狂っている社会に日本もなってきました。小泉改革がそれに拍車をかけているのに、多くの日本人が「信念を貫く」という見せかけに惑わされて小泉に拍手しています。困ったことです。

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