弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年8月11日

名将・佐竹義宣

著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 江戸時代、秋田藩主の佐竹家は初代義宣から12代義堯まで続いた。明治維新のとき、東北でただ一藩だけ新政府側についた。つまり反徳川だったわけである。
 佐竹は秋田の前は水戸にいた。関ヶ原の戦いでは西軍に属した。徳川家康が勝ったあと、秋田転封となった。義宣33歳のときのことである。
 秀吉の小田原城攻めに佐竹義宣も参戦した。義宣はときに21歳。ところが、すぐには小田原へ駆けつけることができなかった。強敵の伊達政宗が背後にいたからだ。正宗は 24歳だった。この北条攻めのときから、義宣は石田三成にすがるようになった。上杉とともに石田一派の会盟を結んだ。佐竹義宣は次第に反徳川の旗幟を鮮明にしていく。それを危ぶんだのが父の佐竹義重。義重は家康になんとか取り入って、佐竹家の安泰をはかろうとする。父子の葛藤が続く。
 義宣は家康との戦いに備えて水戸城をさらに堅固なものにすすめていった。そして、家康は会津の上杉討伐の軍をすすめることを宣言し、佐竹義宣にも出陣を命じる。応じるべきか、蹴るべきか。義宣は佐竹百万石を安堵する覚書を家康から下され、討伐軍に加わると返事した。そして、家康は上杉討伐の途中で石田三成の挙兵を知り、一転して南下を始める。いや、家康は江戸城にぐずぐずと滞陣していた。福島、池田、浅野、細川、黒田らの豊臣系諸将たちに万全の信頼をおいていなかったし、常陸の佐竹がいつ水戸を出て江戸を急襲してくるか心配でもあったからだ。しかし、関ヶ原は徳川方の圧勝に終わった。
 戦後、上杉は旧領のほとんどを没収され、米沢30万石に大減封された。島津と佐竹の処罰は最後まで決まらなかった。慶長6年の正月、家康は大阪城で諸大名の参賀を受けたが、島津義弘と佐竹義宣はその列に加わらなかった。慶長7年3月に島津家の処分が決まり、本領が安堵された。佐竹は最後になった。
 佐竹は最後まで反徳川を貫き、しかも江戸時代を生き残った。うーん、こんな家もあったのですね・・・。

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